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2012年3月31日 (土)

日銀は変わっちゃいない

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(日銀は「本気」か?)からメモする。

2月14日の金融政策決定会合以来、「日銀は本気か」との問いをよく聞く。 

本気かどうかは、日銀の行動いかんにかかる。これまでの日銀の行動様式は①自分からは動かない②緩和は遅く引き締めは早く③金融政策の作用よりも副作用、効果よりも限界を気にする、とまとめられる。今回はどうか。 

第1に日銀の腰は重かった。今回の緩和には政治家をはじめ各界からの要望が大きく働いた。日銀が無謬でない限り、日銀の政策は常に批判にさらされるべきである。
第2に、日銀は3月の金融政策決定会合で追加的緩和を打ち出すのを見送った。日銀は政策会合で2回続けて緩和を行わないのが慣例だ。この慣例に沿ったことで、従来通りという印象は強まった。
第3に、3月24日の白川総裁発言である。このタイミングで、長期にわたる金融緩和が「金融システムを不安定にさせ、ひいては実体経済や物価を不安定にする」と述べ、「副作用や限界」について意識する必要があるという。総裁の面目躍如である。
 

(2月の決定は「デフレ脱却に向けたコミットメント」であると、宮尾龍蔵審議委員は発言しているものの、)過剰な期待は禁物ではないだろうか。

・・・日銀は変わっちゃいませんね。2月の円安転換も、若林栄四流に見れば、相場のトレンドが極まったということで、反転のきっかけ待ちだった相場が日銀の政策決定を材料にしたという感じだし、金融緩和そのものに大きな力があったとは見えない。

まあ、とにかく円安転換でデフレ脱却に向けた光明が見えてきたのは朗報。しかしここでまた日銀が先行き不安材料になる。若林氏は自著の中で、物価が少しでも上昇の気配を見せれば、日銀が「余計なこと」をしたがる、彼らのレゾンデートルにかけて「何か」をしてくることを懸念しており、とにかく日銀は不作為であっていい、下手に作為を働かすことのないよう切に願う、と記している。私もそう願います。

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2012年3月28日 (水)

柄谷行人と「反原発運動」

雑誌「小説トリッパー」春号に掲載された柄谷行人インタビュー記事(「トランスクリティーク」としての反原発)からメモする。

私が長い間デモに行かなかった理由は、それまでの諸党派に対する反発があったからです。中核・革マルは嫌だし、共産党も嫌だし、進歩派市民団体も嫌、そうなると行けるデモがなくなります(笑)。しかし原発事故が起こってから、従来のいきさつ、党派への反発を留保することにしました。どこが主催するデモであっても構わない、と考えるようになった。 

自然発生的な運動。私はそれをアソシエーションと呼んだり、評議会(カウンシル)と呼んだりしています。日本でいえば、1960年代末の全共闘もそういうものでしょう。自然発生的にできた運動です。しかし、自然発生的な評議会は一定期間しか続かない。だんだんと人が減って、残った人間は「党派」だけになる。それでも、このような運動体が完全に無くなってしまうことはないのです。いったん無くなったように見えても、また必ず回帰してきます。 

ギリシアの直接民主主義。私は、それさえ、すでに以前あったものの回帰であると考えています。「以前」とは、遊動的な狩猟採集民のバンド社会です。ここでは生産物は皆に平等に分配される。が、氏族社会と違って、個々人は自由で、いやになったら出ていけばよい。このような遊動民バンドのあり方は、現世人類以前の原人の段階まで入れると、100万年以上続いた。だから、そのような生き方の痕跡が完全に消滅することはないでしょう。実際、それはたかだか1万年ほど前に始まった新石器革命以後の社会に、何度も回帰してきているのです。私はその例を、ギリシアの直接民主主義だけでなく、各地の普遍宗教の運動にも見出します。 

先ほど、私は、諸党派のデモが嫌で、長い間デモに行かなかったといいました。そういう考えは、冷戦構造の下では理由があった。しかし、冷戦構造が消えたあとにも、そのようなスタンスをとりつづけるのはおかしい。だから、私はこれまでのやり方を変えたのです。 

2011年に日本で原発事故があったということ、そして、反原発の運動が始まったということは、いずれ日本人を根本的に変えることになるだろう。私はそう考えています。

・・・民主主義国家で国民が投票以外に意思表示する手段としては、デモしかないのは自明だ。デモで世の中を変えられるかどうかは別にして、意思を表明することが大事なのだ・・・とはいいながら、俺もデモやボランティアに行かなきゃな~とか思いつつ、いまだ実行していない。(汗)

で、ちょっと違う話になるけど、生きづらい社会環境の中にある若者に対して最近、中高年識者から「なぜ立ち上がらないのか」という批判というかイチャモンが付けられた時、例の古市憲寿君が「そう言うならまず自分たちが立ち上がってくださいよ」と至極正論を述べたことがあったけど、そんなことも考えると、御年70歳でアクションを起こしている柄谷先生は立派だ。

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2012年3月27日 (火)

宇宙物理学という「存在論」

今週の「週刊東洋経済」(3/31号)に、『ざっくりわかる宇宙論』の著者・竹内薫のインタビュー記事が掲載されているので、以下にメモ。

(なぜ数学が自然現象を記述できるのか、)その解明は永遠の課題だ。偶然と言う人もいるし、一方、宇宙が数式の言葉で書いてあると考える人もいる。後者はキリスト教的な考え方だ。神が宇宙を作ったという発想が欧米にはある。人間がどう生きるべきかは聖書に書いてある。自然がどうなっているかについては、自然に書かれている。つまり宇宙そのものに書かれている。その言語は数式だという考え方だ。今でも欧米の科学者半数近くの人たちが何らかの形の神の概念を持って、神の考えを知るために自然現象を研究するという発想がある。そういう意味では、数学は神の言葉なのだろう。 

数学は単なる道具にすぎないと考える人は、実在論に対して実証論というまったく別の考え方になる。アインシュタインは典型的な実在論。実証論の人は近年ならスティーブン・ホーキングだ。単に数式に数値を入れて、予測をはじく。それと観測結果が同じならばいいと。実在論はそうではない。数式に込められている具体的な実在を考える。数学という言語で宇宙について語ろうとする。 

(超ひも理論の登場など)SF作家の想像力を超えたところまで現代物理学は行っている。

・・・なぜ数学が普遍性を持つのかは、デカルト以来の難題でもある。そして現代でも、キリスト教的背景を持つ欧米の科学者の多くは、神の創造の秘密を知るために宇宙の神秘を探究しているとすれば、科学者の基本的姿勢は近代科学の起こった400年前と殆ど変わらない、ってことになる。実在を意識しながら数式で宇宙の成り立ちを解明しようとする宇宙物理学は、現代における存在論という感じだ。

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2012年3月26日 (月)

『2014年日本再浮上』

どうやら若林栄四の言う通り、2月で為替相場のトレンドは変わったようだな、と思っていたら、その若林氏の新刊が本屋に並んでいたので、「このタイミングで出たか」と思いつつ購入。その『2014年日本再浮上』(ビジネス社)からメモする。

デフレ不況は、なにもせずともこれから数年のうちに「自然に」解消される。それは、相場が教えてくれるところです。経済全体にインフレ圧力を高めるための鍵は、実は為替相場にあります。すなわち、昨今の円高の流れを止め、相場のトレンドを円安に向かわせることこそ、デフレ退治の最良の処方箋なのです。

一般的には「インフレによって円安が進む」と考えられているようです。しかし、マーケットに即した観点からいうと、これは逆です。「円安が進むことによってインフレが醸成される」のです。2012年2月以降に始まる円安トレンドは、確実に日本に居座り続けてきたデフレという悪魔を退治してくれるでしょう。インフレターゲット政策などを発動せずとも、デフレ不況は「自然に」克服されるのです。

世界経済は今、数十年に一度の大転換点を迎えています。チャートは以下のことを語っているように見えます。すなわち、すべての日柄が2014年4月から7月を指しており、そこに向けて世界経済の流れがドラスティック(劇的)に変わる。そしてその後は、世界がデフレ気味に沈む中で日本のみがインフレになるという状況が現出するのです。

財政赤字削減は、世界の先進諸国が共通して抱える課題です。そして、今次のユーロクライシスを契機として、各国は財政健全化に向けて政策の舵を切ることでしょう。これから世界中の経済がデフレ気味に推移する、その最も大きな根拠はそこにあるわけです。

デフレ時代には、お金の価値が黙っていても上がりますから、現金が王様です。そして、その現金の中でも最も強いのが基軸通貨であるドルです。為替相場は今後、長らくドル高で推移していくはずです。

(ドル円相場)
2012年2月以降、今度は2014年に向けて強烈な円安が進行する。2014年4月に1ドル=135円。
さらに2025年8月に1ドル=170円近辺へ。

(日本株)
日経平均は2012年12月に向けて、最低でも1万600円まで上昇。2014年に多少の下落を見た後、2015年からは急上昇していく。2016年以降、2027年ぐらいまでが日本経済最良の期間。

・・・このほか、米国株に大きな上昇は望めない。金は最も有望な投資先になる、という予測もある。

何しろ日本経済については、円安はすべてを癒す、ことになって欲しいものです。

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2012年3月25日 (日)

消費増税だけで財政再建は無理

雑誌「Voice」4月号掲載、エコノミスト3人の鼎談記事(「消費増税で財政再建」はまやかしだ)からメモする。

飯田泰之・駒澤大学准教授:ハーバード大学のアレシナ教授の有名な一連の研究でも、財政再建は増税でなく、歳出カットや経済成長が主役になっています。しかし民主党政権は、無駄を削る、政治家や官僚が身を削るといった政策すらできていません。加えて日本の場合、歳出の主な部分が高齢者への支給なのでなかなかカットできず、それどころか増えざるをえない状況です。

鈴木亘・学習院大学教授:これは基本的に少子高齢化という人口ファクターが要因です。歳出カットも重要ですが、やはり税収を増やすための経済成長というバックアップが不可欠でしょう。

安達誠司・ドイツ証券シニアエコノミスト:リーマン・ショックまでの十年間の景気をみると、先進国クラブであるOECD(経済協力開発機構)の平均成長率は4.4%です。日本がもっとも低く、次に低いのがドイツですが、ドイツも2%を超えています。

飯田:4%成長を実現すれば、すべての問題が解決するとはいいませんが、ずいぶん楽になりますね。

鈴木:税収を増やすと同時に、社会保障の分野には無駄がたくさんあるので、それを効率化する。日本の社会保障の仕組みがほかの先進国と違う点は、公費の投入率がきわめて高いことです。そのおかげで実際の価格より安くサービスが買えるのです。そのため需要が増えるのは当然で、いま超過需要が非常に大きな問題となっています。さらに、大量の公費が投入されているとなると、政府としてはなんとかそれを絞ろうと考えます。そのまま需要に応えていたら、たいへんな支出増になりますから。だから、いろいろと規制を強化する。まず価格統制を完璧に行なっています。参入規制も行ないます。競争が生まれず、非効率になっていく。そして新規参入がないことで、みんなが仲間となってしまい、巨大な政治勢力となっています。

飯田:社会保険は保険料で賄うべきだというなかで出てくるのが、現在の賦課方式から積立方式に移行しようといった議論です。

鈴木:(賦課方式から積立方式に移行しても)債務が残ることは確かで、これは国が背負うのです。子々孫々にわたって少しずつ、税というかたちで返していく。債務を税で返すなら、高齢者からも徴収することが可能です。とくに望ましいのは、相続税で支払ってもらうことでしょう。

安達:いま個人の金融資産の70%程度を、65歳以上の高齢者がもっていますからね。

飯田:実際、日本の相続財産は年間80兆円発生しています。それに対して税収は、わずか1.4兆円です。これを一律20%課すことにして、100年続ければほぼ返済でき、社会保障の穴埋めのための消費増税は必要なくなります。
いずれにしても、やはり税収を上げることが不可欠ですね。

安達:まずは名目4%成長を達成することでしょう。政策でいえば、基本的には金融緩和で、為替レートがある程度の円安であることも大事です。もう一つ大事なのが、若い人が働きたくなる税制にすることです。たとえば所得税は下げる。法人税も下げる。企業を新しくつくった方への特例を認める。「社会保障と税の一体改革」では、そうしたものをすべて含めて行なう必要があります。

・・・制度改革を置き去りにして、増税だけに血道を上げる野田政権の先行きは暗いとしか言いようがない。

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2012年3月23日 (金)

皇帝フリードリヒ二世の死の定め

以下は、『皇帝フリードリヒ二世』(カントーロヴィチ・著、小林公・訳、中央公論新社)より。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世は、フィレンツェに立ち寄ることは避けていた。というのは占星術師たちの予言によると、彼は「花の下で」(sub flore)死ぬ定めになっており、この託宣はフィレンツェ(ラテン名 Florentina)のことを言っていると思われたからである。

1250年12月の最初の何日かを、皇帝はフォッジャで過ごした。狩りの最中に皇帝は激しい発熱に襲われ、普段は立ち寄ったことのないフィオレンティーノ城に避難した。それは赤痢だった。これまで皇帝が注意もせずに軽く考えていた赤痢が、燃えるように熱い腸炎を惹き起こしたのである。皇帝はこの病で、自分がまもなく死ぬことをただちに覚った。

フリードリヒ二世は、もはやフィオレンティーノ城を去ることはなかった。かくして彼は「花の下で」(sub flore)死ぬという託宣が、この城で実現した。花(flos)は、フリードリヒがつねに避けていたと言われるフィレンツェではなかったわけである
フリードリヒは56歳になる直前の1250年12月13日に息を引き取った。

・・・占星術師の予言どおり、「花の下で」皇帝フリードリヒ二世は死んだ。運命論者ではない自分も、不可思議な気持ちにさせられるエピソードではある。

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2012年3月21日 (水)

フリードリッヒ一世、二世、三世

スペイン旅行でプラド美術館のカール5世肖像画を見て以来、自分的には神聖ローマ~ハプスブルク帝国に関心を向ける気運がまたぞろ盛り上がってきたところで、偶々手に取った本の中に神聖ローマ関連の話があるのを見つけてしまうのは、我ながら可笑しなもんだな。その本は『それでも、日本が一人勝ち!』。日下公人と増田悦佐の共著で、まあ経済ジャンルの本と思っていいんだろうけど、その中で増田氏が、ドイツ人が一生懸命働く理由は、中世の神聖ローマ帝国の体制に由来すると語っているので、何それ、と思いつつメモする。

ドイツの歴史を振り返りますと、英邁なる君主であるフリードリッヒ(一世と二世)が二人いて、陰険で悪巧みに長けているけど愚鈍という、箸にも棒にもかからない君主だったフリードリッヒ(三世)が一人いました。 

フリードリッヒ一世は通称「赤ひげ」と呼ばれていた君主で、赤ひげが考えたことは、ドイツは意図的になるべく小さな領邦国家に分割しておいて、力は汎地中海帝国の樹立に注ぐ。そして、帝国の本拠地であるドイツはあまり統治し過ぎないようにしていました。 

フリードリッヒ二世は近眼の若はげで見栄えもパッとしない。しかし、天が彼に与えた才能は知的能力、とくに語学だったんですね。この君主は十字軍で唯一、アラブのカリフ(最高権威者)と直談判して、平和裡にエルサレムの統治を任されるほどの交渉上手でした。 

彼は、帝国内の領邦国家間が統一しないよう、意図的に分裂させて、絶妙のバランス状態を巧みにつくり、その間、自分はエルサレムの実験都市建設とシシリア中心に汎地中海帝国を築くという祖父フリードリッヒ一世の夢の実現に邁進したわけです。 

フリードリッヒ二世の没後約二百年で神聖ローマ皇帝となったフリードリッヒ三世は、愚鈍なくせに陰険というひどい君主で、金のために結局、臣下たちに領土権だけではなくて外交権も与えてしまいます。 

その結果、ドイツは分裂して宗教改革以降、殺し合いをくり返しました。大航海時代に世界各地に進出するチャンスを逸してしまったわけです。フランスやスペイン、イギリス、オランダのように、植民地を収奪したあがりで食べる、という階級が大きく成長しなかったのです。 

ドイツ人は二人の英邁なるフリードリッヒと一人の愚鈍なるフリードリッヒが領邦国家を放置していたものだから、植民地経営ができず、金利生活者階級が確立できなかった。自分が働かなければ食べていけない、という当たり前の勤労倫理を持っているんです。ヨーロッパの主要国では、ドイツ人にしかこの価値観は植え付けられなかったのです。

・・・少し補足すると、3人のフリードリッヒはいずれも神聖ローマ皇帝ですが、一世と二世はホーエンシュタウフェン家、三世はハプスブルク家です。時代は前二者が12世紀半ば~13世紀半ば、後者が15世紀後半。

しかし、ドイツ人がよく働くのは、神聖ローマ帝国の治世の結果というのも、結構ぶっ飛んだ話だな。中央集権が遅れた国は他にもあるけど、まあいいか。

90年代に証券アナリストの真似事をしていた僕は当時、建設会社の決算説明会で増田さんをお見受けしていた。増田さんも今や思想家だなと感心するばかりです。

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2012年3月20日 (火)

ミュールベルクの戦い

以下は、『カール5世 中世ヨーロッパ最後の栄光』(江村洋・著、東京書籍、1992)より。

1547年3月、ニュールンベルクを発したカール5世の皇帝軍約1万6千は北上、一路ザクセンを目指した。マイセンに布陣していたザクセン選帝候ヨーハン・フリードリヒは、エルベ河を舟で下り20キロほど川下のミュールベルクに移動、エルベ河右岸に陣を布いた。このあたりではエルベは大河のごとく、川幅も広く水深もかなりある。土手は高く、守るには絶好地といえた。ここを一万を超える軍隊が徒渉するのは、容易ではあるまい。そう確信した選帝候は、岸辺に若干の分遣隊を見張りに残しただけで、自分自身と護衛の者は河畔から数キロ離れた所に幕営したのだった。

4月23日、皇帝軍は彼方にミュールベルクの町が望見される岸辺に到達。こうして選帝候軍はエルベ河の右岸に、皇帝軍は左岸に対陣したのである。

普通の常識からいえば、寝食も満足に取らずにザクセンの山野を進軍してきた将兵らに休養を与え、作戦会議を開いてエルベ渡河の策を慎重に検討し、よく態勢を整えてから実行に移すところであろう。しかし皇帝は、召集した将軍たちを前にして言った。「明朝、早暁のうちに攻撃に移る。しかるべく準備せよ!」

自軍の将官たちでさえが、「まさか戦場に駆けつけたその翌日が突撃の日とは」と驚愕したほどなのだから、敵にとってはなおさらのことだったであろう。案の定、選帝候側はいずれ激突は回避できないにせよ、早くてもせいぜい1ヵ月後のことと楽観し、すっかり油断していた。

1547年4月24日、エルベ河には深い霧が垂れこめていた。まだ夜明けには遠いころながら、全軍に攻撃命令が下された。やがてあたり一帯に殷々たる砲声が轟き始める。4月とはいえ、朝まだきの大河の水は凍えるように冷たい。だが兵士たちはそのような寒さなどものともせずに、少しでも対岸に近づこうと、一歩また一歩と前進する。皇帝軍の当面の課題は、小船をつないで船橋を作ることにある。選帝候側も、予想もしなかった相手の突然の出撃に驚愕しつつも、時々は小高い丘の上から大砲をぶっ放した。だが、深い霧のために狙いが定まらず、砲弾は大河にむなしく水煙をあげるばかりだった。できあがった船橋を伝って、長い槍を手にした歩兵が一団となって殺到する。そのころにはすでに浅瀬を選んだ騎兵隊は、水深1.5メートルのエルベの奔流のなかにざんぶと駒を乗り入れ、渡河しつつあった。何百、何千という馬が鎧兜に身を固めた騎士たちの手綱さばきのもとに大河を渡る。

早春のエルベの流れに真っ先に駒を進めたのは、47歳のカール5世自身だった。皇帝に負けじとローマ王フェルディナント、その王子マクシミリアン、モーリッツ公も突撃する。時の流れは完全に、士気の高い皇帝側にあった。選帝候側にはそれを阻止する力はなかった。かくして皇帝軍はほとんど無傷のまま、困難を予想されたエルベ渡河に成功した。

ザクセン公は、捕われの身となった。プロテスタントの総帥と自他ともに任じ、十数年来、カール5世に逆らい続けてきた選帝候にしては、あっけない敗北だった。

ミュールベルクの決戦は、皇帝側の完勝というに近い結果で局を結んだ。失った兵はわずか50名に対し、ザクセンの新教徒軍は1200名に上った。この戦いを陣頭に立って指揮するカール5世の雄姿は、ティチアンの不滅の画筆で後世に伝えられた。

・・・カール5世、やっぱり「信長」っぽい。この大勝の5年後、「光秀」モーリッツの裏切りに遭い、皇帝は敗走の屈辱を味わう。そして1555年、アウクスブルクの和議で、諸侯にプロテスタント信仰の自由が認められる。シュマルカルデン戦争からアウクスブルクの和議まで、この辺のヨーロッパ中世史も、か~なり面白い。

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2012年3月19日 (月)

トレド、中世の翻訳センター

去年はシチリア、今年はスペインと、キリスト教とイスラムが混じり合う場所を訪ねたけど、中世の翻訳センターとしてのトレド(及びシチリア)について書かれた本を見つけたので、メモする。以下は、『翻訳史のプロムナード』(辻由美・著、みすず書房、1993)第二章「バグダードからトレドへ」から。

ヨーロッパ人は古代ギリシアの知的遺産を直接うけついだわけではない。中世ヨーロッパに入ってきたギリシア科学・哲学の大部分は、アラビア世界を経由し、アラビア学者たちの研究と注釈が加えられたものだった。 

実際、中世ヨーロッパがギリシア・ヘレニズム科学とほぼ無縁だった時代に、アラビア世界はギリシア科学や哲学の主要な著作のほとんどすべてを自分たちの言葉に翻訳してしまった。こうして、アラビア世界で翻訳されたものは、つぎにヨーロッパ世界の言葉に重訳されることになる。そして、アラビア語からラテン語への翻訳は、ヨーロッパの「文明開化」をうながすのだ。 

イスラム教徒たちの大征服によってつくられた帝国の初期に建てられたウマイヤ朝(661-750)から、翻訳はすでにはじまっていたようだ。真に翻訳の時代をもたらすのは、ウマイヤ朝に反乱をおこしてこれにとってかわったアッバース朝(750-1258)である。イスラム帝国はバグダードを都とするアッバース朝(東カリフ国)と、いまのスペインのコルドバを都とする後ウマイヤ朝(西カリフ国)(756-1031)に分裂した。 

やがてコルドバはバグダードとならぶ世界的な学芸の中心地となる。そして、コルドバに蓄積された文化は、十一世紀のキリスト教徒によるスペインの再征服の後に、主としてトレドを架け橋としてヨーロッパに伝えられるのである。 

十二世紀は文字どおり翻訳の世紀となる。アラビア文化をヨーロッパに導入する架け橋となったのは、スペイン、南イタリア、南フランスであった。シチリアがギリシア・アラビア科学の西洋への伝達にはたした役割はとくに大きかった。シチリアは歴史的事情から、ギリシア・アラビア・ラテンの三つの文化が共存していたからだ。 

だが、アラビア文化伝達の最大の拠点となるのは、スペインのトレドである。1085年、キリスト教徒たちがイスラム教徒たちとの戦いに勝利し、アルフォンソ六世がトレドを奪回したとき、かれらはそこに巨大な文化遺産を発見するのである。トレドの図書館に所蔵されていたアラビアの書物は、当時のヨーロッパ人にとっては目もくらむほどの知識の宝庫であった。再征服から五十年あまりで、トレドは翻訳の一大センターとなる。 

トレドでなされた翻訳は、十二世紀末から設立されるヨーロッパの大学において中心的な位置をしめることになる。ギリシア科学・哲学にはアラビアの学者たちによって解説や注釈が加えられており、ヨーロッパ人はギリシアの文化遺産をアラビア学者の理解にしたがって受けいれたのだ。

・・・キリスト教化したローマ帝国から追い出された古代ギリシャの学問がイスラム世界に入り、それがトレドやシチリアで翻訳・逆輸入されて、ヨーロッパの「文明開化」を促した。この辺の文化史的な経緯は、面白すぎるくらい面白いと感じる。

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2012年3月18日 (日)

吉本隆明、死去

思想家・吉本隆明が16日に死去。昨日17日付日経新聞文化面に掲載された橋爪大三郎・東京工業大学教授の追悼文(思考の自立貫いた生涯)からメモする。

政治に抗して文学の自立独立を守ろう。そして文学の営みを、科学の精神で根拠づけよう。これが吉本氏の仕事の、原点である。
戦後日本は、軍国主義の圧迫が除かれ、自由と民主主義の光にあふれているはずだった。が、強い磁場が支配していた。マルクス主義・日本共産党の権威。大学の虚像。さまざまなグループの党派的な利害確執。それらすべてに縛られず、個としての思考の自立をまっとうする。誰にも真似のできない孤高の戦いが、若い世代の人びとをひきつけた。
 

権力をなにより憎んだ吉本氏は、「前衛(知識人)が大衆を指導する」というマルクス主義の原則を裏返した。「大衆の原像」がそれである。 

(あるイベントで)私は、「権力は必ずしも悪いものとは限らないと思うのですが」と発言した。吉本氏はちょっと嫌な顔をされ、「あなたの考えは間違ってる」とたしなめられた。 

吉本隆明氏の思想家・文学者としての評価は、これからだ。願うのは、氏の仕事をリアルタイムで知らない若い世代の人びとが、その業績を読み継いでくれることである。

・・・追悼文冒頭の橋爪先生の簡潔なまとめは図らずも、吉本隆明の存在感は、ある時代の文脈に密接に絡んでいたことを示している。だから、その時代を離れて存在感を保ち続けることができるかというと疑わしいわけで、これからも吉本隆明が読まれて欲しいという橋爪先生の「願い」が叶えられる可能性は、低いだろうな。

しかし、徒に年を食ってしまった自分には、まあ、吉本隆明に限らず、結局は言論も流行ものだなという、いささか薄ら寒い思いもある。それはまた、世の中はどんどこ変わっていってしまったな、という感慨でもあるんだけど・・・。

個人的な思い出としては、その昔、高田馬場に「寺小屋」教室という「私塾」があって、その場で吉本氏から「心的現象論」に関連する話を聞いたことがある。1980年代前半のことだ。

思えば、80年代で吉本氏の仕事は概ね終わっていたような気がする。『マス・イメージ論』、埴谷雄高との「論争」、反「反核運動」等々は評価の分かれた著作や言動だった。あるいはいわゆる「ロス疑惑」を巡る鮎川信夫との「訣別」・・・4年前の三浦和義再逮捕(そして自殺という、恐ろしく後味の悪い結末)の際、自分は吉本―鮎川の対談を読み返したりした。

吉本隆明が偉大な業績を残したという感じは特にない。吉本ファンは、「思考の自立」という一種のロマンティシズムに魅かれる、のかも知れないが、自分はこれからも吉本隆明をまともに読むことはないだろう。でも、特に吉本氏に限らないけど、戦争を経験した人の話は聞いておきたい、という感じはあるので、そういう意味では参照するべき点もあると思う。

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2012年3月17日 (土)

ドラマ「お荷物小荷物」の記憶

昨日16日付日経新聞コラム「春秋」には、冒頭からいささか面食らった。まず引用。

その昔、「お荷物小荷物」という挑発的なテレビドラマがあった。社会風刺とブラックユーモアにあふれ、登場人物のひとりなどは革命思想にかぶれている。なにかというと毛沢東語録を振りかざして「毛主席いわく・・・・・・」とやるのだ。1970年ごろの作品だから中国の文化大革命が全盛のころ。

・・・「お荷物小荷物」といえばコシャマイン様、というのが当時小学校高学年だった自分の断片的な記憶。「才女」中山千夏が持て囃されていた時代というのも、うっすらと覚えがある。

でも、コシャマイン様は「続編」(カムイ編)の登場ということなんだね、調べてみると。その前の「本編」の記憶は、自分には全くない。現在残っている映像は本編の最終回のみとのことで、横浜の放送ライブラリーへ出かけて視聴しました。ここでドラマを見るのは2回目です(前回は3時間ドラマ「海は甦る」)。

しかし最終回(1971.2.13放送)だけ見ると「何コレ?」だな。中山演じるお手伝いさんをモノにしようと男5人兄弟(河原崎長一郎、林隆三、渡辺篤史ら)がドタバタした挙句、最後は突如憲法第9条廃止、徴兵制復活で男どもは兵隊に行って全員戦死するという、ややふざけすぎ?の展開。

戦後25年以上過ぎた、考えようによっては微妙な時期(1970年には三島由紀夫が自決)のドラマだけど、そこからさらに40年以上が過ぎてるということで、時の流れをあらためて感じるばかりです。

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2012年3月14日 (水)

「潜在成長率」のおさらい

本日付日経新聞「経済教室」(試練続く中央銀行)の執筆者は池尾和人・慶応義塾大学教授。記事の前半からメモする。

日本経済の現状は、2008年秋のリーマン・ショック直後のように、大幅な需要不足を抱えた状態ではなくなってきている。経済の実力を示す潜在GDPと実質GDPとのギャップは解消したとまではいえないにしても、かなり縮小してきているといえる。  

もしこうした推察が妥当であるとすると、現在の日本経済の決して芳しくない状態は、実力からの下振れではなく、実力そのものの低下によるところが主因だということになる。すなわち、潜在GDPの伸び率(潜在成長率)が低下していることが、問題の本質だと考えられる。 

潜在成長率は、労働人口の増加率に労働生産性の上昇率を加えたものである。その低下の原因の一つは、労働人口の減少にある。
しかし同時に、労働生産性の上昇を思うように実現できていないことにも原因がある。経済全体でみた労働生産性の上昇要因としては、①経済学者が全要素生産性の上昇と呼ぶイノベーション(技術革新)の成果②資本装備率(労働者1人あたりで使える資本設備)の引き上げ③労働生産性の上昇率の低い産業から高い産業への労働力移動――の3つが考えられる。
 

従って、労働力の可動性を高めるための労働市場改革などが、労働生産性を上昇させ、潜在成長力を引き上げることにつながる政策対応だといえる。けれども、こうした成長政策的な取り組みは、短期間で目覚ましい成果が上がるというものではなく、地道な努力が必要とされる。

・・・ということで、即効性への期待から金融政策への要求が強まることになるのだが、金融政策に負荷をかけることには副作用もある、というのが記事の後半部分の趣旨になる。

それにしても、だ。生産性の向上というのは、もう30年も前から日本経済の課題になっている。ような気がするけど、じゃあ今は目覚ましく改善してるのかというと、どうもそんな感じもしない。もともと日本は製造業の生産性が高く、サービス業は低いと言われていた。しかし、昨今の大手電機メーカーの「沈没」を目にすると、これからの日本経済全体の生産性を押し上げるのは容易ではない、という感じがする。

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2012年3月13日 (火)

「政府が身を削る」のまやかし

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(財政問題の本質を直視せよ)からメモする。

増税する前に、政府が徹底的に無駄を排除して身を削るべきだという主張がある。 

政府が身を削れば、国民は自分が負担せずに財政資金が出てくると錯覚する。だが、支出を削った上に増税もすれば経済は収縮し、かえって税収が落ち込んでしまう。これではイタチごっこで、財政が再建できないまま、経済活動や公共サービスだけが減る。 

議員定数の削減や公務員の待遇を独立に議論するのはよい。しかし、増税の必要性とは別問題で、その規模自体が適正かどうかで判断すべきだ。身を削るという名目で議論の俎上に載れば、削った額ばかりが注目され、財政の健全化という問題の本質がぼやけてしまう。

政府は身を削るなどと安易に言わず、国民の間の再分配の構造を示すべきだ。国民も、政府が身を削れば負担を免れると思わず、問題を直視する必要がある。

・・・まったく、国会議員の歳費や公務員給与の削減が、増税するための手続きのように取り扱われているのは馬鹿げている。例えば国会議員定数の削減は、どうせやるんだったら、参議院の廃止まで突き進んだらどうかと思う。財政問題の本質を直視している賢明な国民は、国会議員含む公務員コストの削減は、財政問題の枝葉末節であり、増税のためのまやかしであると感じているはずだ。

賢明な国民が望んでいるのはおそらく、徹底的な制度改革である。社会保障と税の一体改革=単なる増税では断じてない。制度の根本的な改革に手を付けないまま、高齢者を支える現役世代の姿が胴上げ型から騎馬戦型、さらに肩車型になるので増税を、と言われて納得する国民がどれほどいるのだろうか。多くの論者が指摘する年金の賦課方式から積立方式への移行も、政治的論議の俎上には全く載せられていないのが現状だ。国民の多くは増税を受け入れる覚悟はできていると思われる。しかし、政治家に徹底的な制度改革を進める覚悟が見えないのであれば、増税が正しい道であるという確信を国民が持てるはずもないのだ。

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2012年3月 7日 (水)

日銀、やっぱり変?

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(世界標準の脱デフレ金融政策)からメモする。

日銀は先月14日に、これまで2%以下のプラスとしていた物価安定の「理解」を、物価安定の「目途(めど)」と言い換えて1%とするとした。 

2%を「目標」として上下1%の変動幅を認める世界標準の金融政策と比べれば、なお「目標」でもない1%は低すぎる。 

インフレ目標政策の特徴は、中央銀行が目標値を達成できなかった時には総裁が責任を取るという、組織を賭しての国民への約束とする点にある。だが、日銀総裁は発表時の会見で、物価上昇は日銀だけでは達成できないとも述べて、自らの能力と責任を否定した。これは自ら政策効果を減殺しているに等しい。 

達成できなくても責任はありませんという「目途」は、インフレ目標とは異質なものである。 

英国では2%の目標値を議会が決定し、中央銀行はその実現に責任を負う。上下1%の幅を逸脱した場合には、総裁は議会への説明を求められる。 

激変する世界経済環境のなか、このような説明責任こそがインフレ目標政策の神髄であり、柔軟性のない目標値の追求や未達責任を恐れての「目途」との表現は、世界で唯一デフレ下にあるなか、世界標準の金融政策から見て異様に映る。 

中央銀行に物価安定を達成する能力と責任があることは自明である。日銀は世界標準の金融政策を見習うべきである。

・・・円高やデフレに対する日銀の姿勢が他人事っぽいのは、何だかなあって感じがする。日銀総裁に限らず、今時のトップは普通のエリートじゃダメだなと思う。

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2012年3月 4日 (日)

「やっぱりふしぎなキリスト教」

シンポジウム「やっぱりふしぎなキリスト教」に参加した。場所は東京工業大学・大岡山キャンパス内の講堂。『ふしぎなキリスト教』共著者である橋爪大三郎、大澤真幸の二人に加えて、作家の高橋源一郎、聖書学の大貫隆、以上4名のメンバーによる討議。600人収容の会場は満席という感じでした。

自分は、本は読んだし、昨年夏の池袋ジュンク堂トークイベントにも参加して、さらに今回のシンポジウムと、『ふしぎなキリスト教』には結構付き合っている感じ。

さて、今回のミソは、大貫隆先生の参加ですかね。社会学者二人の著書に対しては、いろいろ批判があるということは聞いていたが、たぶんそれは教義的な観点からの批判が大半なのではないかと想像されるので、その道の権威を加えて討議するというのは意義があると思われます。それで、僕もたまたま2年前に読んでました、大貫先生の『聖書の読み方』。なので、シンポジウムの冒頭に大貫先生が、キリスト教や聖書を論じる際には初学者の素朴な疑問が大事であり、それが最後まで残る謎でもあると指摘すると共に、『ふしぎなキリスト教』の内容は自分の聖書講義のやり方と重なるところがある、と語っていたのは納得する感じがありました。

その聖書は去年、とにかくマルコ福音書だけは読んだ(苦笑)ので、たとえば、イエスが「私は言っておく」と語るのは特徴的で普通の預言者と違う(大澤発言)、という話を聞くと、「ああ、あれね」とちょっと反応できるところはあったな。

大貫先生からは、災厄=天罰論を拒否したイエスは「神の国」を示して未来に視線を向けた、パウロは「贖罪」概念を作り出した、ヘーゲル「精神現象学」はヨハネ福音書の焼き直し(神の自己疎外=ひとり子の「肉化」、弁証法的な「神の死」)、等々の話がありました。

しかし高橋源ちゃんは何でいるのかよく分からない。そういやあ、『災害ユートピア』に言及してたな。昨日の柄谷行人講演にも『災害ユートピア』の話が出てきたので、「へぇ」って感じだった。『災害ユートピア』、そんなに面白いんか?

まあとにかく、何しろ4時間の長丁場でいろんな話が出たので、いろいろ勉強のタネをもらったという感じです。

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2012年3月 3日 (土)

柄谷行人講演(哲学の起源)

柄谷行人の講演を聞きに行った。場所は藤沢の朝日カルチャーセンター湘南。お題は、『哲学の起源』を読む。

僕が柄谷行人の話を聞きに行くのは20年ぶりくらいか。例の『世界史の構造』はスルーして、『「世界史の構造」を読む』を読んだ(苦笑)後、さらに雑誌「新潮」連載の「哲学の起源」を読んで、これは良いなと思って、今回の講演会に足を運んだ次第。「哲学の起源」は既に昨年末に完結して、予定では今頃単行本になっているはずだったのだが、どうしたわけか出るのはまだ先になるとのこと。

柄谷先生は、遊動民と氏族社会、フロイト、普遍宗教、脱呪術、バビロン捕囚、ウェーバーの「模範的預言者」、イオニアの哲学、ハンナ・アーレントによるデモクラシーとイソノミアの区別、ソクラテス、ディオゲネス、プラトン等々について、たっぷり2時間語り続けた。なお、今後は中国の模範的預言者について考えたいとのこと。老子もまた「預言者」だそうです。しかも複数の「老子」が存在していたと。

「哲学の起源」は、「世界史の構造」の内容的なバランスを考えて、入れられなかった部分がスピンアウトする形でできたものらしい。ので、本来は「世界史の構造」で提出された思考の枠組みを踏まえて、読まなきゃいけないものなんだろう。しかし、さはさりながら、勝手な読者としては、「哲学の起源」は「世界史の構造」から切り離して読めると感じているし、実際、独立した論考として見ても、いわゆる「ソクラテス以前」の哲学者(フォアゾクラティカー)論として出色のものだと思う。でもって、フォアゾクラティカーといえば、やっぱりハイデガー=木田元の説く、古代ギリシャの自然観てことになる。のかな。つまり生成する自然。それがプラトン以降は死せる自然、マテリアルになってしまった。との見立てだが、何というか「と言われても・・・」って感じになる批判ではある。それに比べると、自然哲学から社会哲学に展開する柄谷先生の「イソノミア」論は魅力的だと思います。

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