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2011年8月 6日 (土)

五木寛之と野坂昭如

今週後半の日経新聞文化面のテーマ記事「8・15からの眼差し」、8月3日の五木寛之(インタビュー)から始まった連載は、今日6日の野坂昭如(寄稿)で終了。自分的には、五木寛之と野坂昭如という組み合わせは、懐かし~という感じがしてしまう。両者の発言からメモしてみる。まずは五木から。

「12歳で迎えた敗戦は大事件だった。その前と後では、ものの見方が変わってしまった」

「66年前の敗戦の時は、杜甫の詩の『国破れて山河あり』という状況だった。国は敗れたが、日本の里はあった。いま私たちに突きつけられているのは、『山河破れて国あり』という現実ではないか」

「原発の再開も、復興の予算も今も国が決定する。今も国はあるんです。ただ、今ほど公に対する不信、国を愛するということに対する危惧の念が深まっている時代はない」

「未来への希望が語れないとすれば、きょう一日、きょう一日と生きていくしかないという実感です。敗戦の時はまだ明日が見えた。今は明日が見えない。だから今この瞬間を大切に生きる。国は私たちを最後まで守ってはくれない」

次は野坂。

「語弊があるかもしれないが、昭和20年の焼跡は、いっそあっけらかんと明るい印象だった。この度は違う。先が見えず、立ち尽くすしかない。ため息すら出なかっただろうと思う」

「戦後66年を経て、かえりみれば被災地だけじゃない、都会もまた紙一重で明日は焼跡じゃないか。文明に囲まれ、物質的豊かさの中で暮らし、飽食の時代とやらを過ごす。しかしすべて砂上の楼閣」

「戦争を思い出すのは夏だけ。それさえあやふや。平和、豊かさ、モノの時代とやらに明け暮れるうち、大事なものをどこかに置き、長生きこそ良しとしてきた」

「豊かさと引き換えに失ったものは大きい。この度の震災は国難に違いない。今こそ、日本人一人一人が立ち止り、考える時である」

・・・まあ何か、二人とも前から言ってるようなことだなと思わないでもないが、五木と野坂は共に昭和ひとケタ生まれ。なので自分は、作家の言葉というより、親世代の言葉として聞いてしまうところがある。戦争が終わって価値観ががらっと変わる経験をした世代の、「お上」を信じていないとか、戦後の繁栄にも空虚なものを見るとか、そんな感覚が、意識的にか無意識的にか、子供世代の自分たちにも伝わっているような気がする。

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