「橋爪×大澤」トークイベント
昨日の夜、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)の著者である橋爪大三郎と大澤真幸、両先生の話を聞くため、ジュンク堂池袋本店のトークイベントに参加した。
大澤が最初に語り始めたのは1755年のリスボン大地震の話(これは、別のシンポジウムでも持ち出していた)。この出来事は、啓蒙の時代に改めて、全能の神が作ったこの世界になぜ理不尽な悪や不幸があるのか、という議論(神義論)を呼び起こした・・・その後は、『ふしぎなキリスト教』と同様に、大澤が疑問を投げかけ、それに橋爪が答えて、さらに大澤が反応するというパターンで対話が進行。以下は、自分が面白いと思ったホッブスの話を含む橋爪発言のごく一部の、箇条書きに近い断片的なメモ。
神が創造した後の世界は自動的に動いていくが、時に神は介入することもできる。神の許可で世界は動いていく。とすれば、大地震も神が許可して起きた。その理由は人間には知りえない。結局、人間には分からない理由で大地震は起きた、ことになる。
近代というのは、神を信じるのはそろそろ止めようという時代。そこで知識人が頼りにしたのは理性。理性は神からのプレゼントである。神がいなくなった後、人間の持っている一番良いものは理性。その理性に従って生きていくのが近代人。理性的な個人主義者が大勢になる近代は、合理的な設計をした国家を作る。
ホッブスの『リヴァイアサン』が非常に重要。その第三部と第四部は、殆ど神学論争。ホッブスは、地上に普遍的な教会などありえない、とカトリック批判を行う。それは裏を返せば、主権国家が存在するためには、教会は限定的な存在でなければならないことを意味する。
キリスト教の文脈における「自然」、natureは「神が造ったそのまま」という意味。人間も神が造ったのでnatureを持つ。自然権、生存権、幸福追求権・・・がnature。
「万人の万人に対する戦争」、理性を持った人間がこの状態を克服するにはどうすればいいか。自然権を追求する人間の自由、これを人間自身が制限することはできる。自由意志によって、人間と人間が契約を結ぶ(神がそれを許可する)。その結果出来上がるのが、リヴァイアサンという「人工的な神」である。自然状態から社会状態への移行は、国家なしにではできない。
・・・ホッブスのほか、思想家ではロック、ルソー、ライプニッツ、ヴォルテール、ベンサム、ウェーバー等々の人名が挙げられて、キリスト教と近代社会の連関が語られた。
なお、この対話の模様は、大澤の個人誌『THINKING「O」』に掲載されるらしい(雑誌の発行元である左右社がツイートしていた)。
(しかし大澤先生が、不祥事?で大学を辞めていたとは知らなかったな)
ところで、僕はこのところ、哲学の齧りなおしと称して、朝日カルチャーセンターの「西洋哲学史」「世界史とキリスト教」「中世哲学入門」講座を受講。とりあえず目に付いたレクチャーに参加するようにしているのだが、こういう思想系の集まりには、必ずヘンなおじさんかおばさんが一人はいて、そいつがまたヘンな質問をするんだよ。このトークイベントでも、そういうヘンなジジイが元気にダラダラ質問したもんだから、イライラさせられたよ、ホントに。
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