不幸について
小谷野敦が近著で以下のように書いている。
私はかつて、「彼の人生は悲劇に終った」とか、不幸な人生だったとか、失敗に終った人生とかいうのはない、と考え、そう書いたことがある。
だが、他人がそう言うのは不都合だとしても、当人が、俺の人生は不幸だった、と思ったら、それは動かしがたい事実ではないのか。(『友だちがいないということ』終章)
・・・本のテーマは書名通りであるから、不幸=一人ぽっち、という意味で言われているが、とりあえずその文脈からは離れて、不幸について少し考えた。
人は誰でも若い頃、「世界で一番不幸なのはこのワタシ」と自己憐憫に浸ったことがあるんじゃないだろうか。ええ、とりあえずワタシはありました、そういうの。しかし不幸っていっても、戦争の時代に巻き込まれた人々のことを考えれば、ワタシの不幸なんてちゃんちゃら可笑しいというか、不幸と呼ぶのも申し訳ない、そういうレベルだろう。
なので、あまり個別の事情がどうこうよりも抽象的に考えてみると、結局、不幸というのは、自分自身に対してポジティブになれない、ということかと思う。そう考えれば当然、幸福というのは自分自身に対してポジティブになれる、ということになるだろう。いるでしょ、何かこの人自分のことが好きなんだな~と思われる人。ワタシはもちろんそういう人じゃなくて、根本的に自分自身にはポジティブになれない人。
だからまあ抽象的には自分は「不幸」だな、という結論にはなるんだけど、しかしね、生まれてから死ぬまでずっと自分自身に対してポジティブ、という人は考えられない。逆に自分は自分自身に対して根本的にポジティブになれないと思っても、生きている過程においては、夢幻のようではあってもポジティブになれる瞬間もあることはあると。結局のところ、人生にはポジティブになれる時間帯となれない時間帯があって、なれる時間帯が半分よりも多ければ、「幸福」であると考えて満足しないといかんかなと思いました。以上。
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