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2011年6月12日 (日)

キリスト教と理性

橋爪大三郎と大澤真幸の対談をまとめた『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)の第3部(いかに「西洋」をつくったか)からメモ。

大澤:哲学の起源とされているのは、ふつう古代ギリシアです。しかし、ある時期から、つまり中世になると、哲学とキリスト教神学が不可分になった。ヨーロッパで哲学が発達し、精緻化していったのは、キリスト教神学と一体化したからだと思います。ここで疑問に思うのは、キリスト教とは無関係に生まれ、発達してきた哲学が、キリスト教とうまく噛み合い、合体したという事実をどう考えればよいか、ということです。

橋爪:哲学の中心には、理性があります。理性はもともと、ギリシアで発展した。キリスト教徒ははじめ、理性のことなんかあまり考えていなかったけれど、イスラム経由でアリストテレスをはじめギリシア哲学を受け入れてから、あらためて真剣に考えるようになった。キリスト教徒は、理性を、宗教的な意味で再解釈したんです。理性は、人間の精神能力のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです。理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。理性は神が人間に与えた能力なので、その能力を使えば、神が確実に存在することを証明できるに違いない。これが神学の、最初のテーマだった(神学といっても、中身は哲学です)。やってみると、あまりうまく行かない。神は、理性によってその全貌がとらえられないのです。
しかし、逆に言えば、神が創造したこの世界(宇宙)は、神ではないから、人間の理性で残らず解明できるとも言える。宇宙に理性を適用したら、神の意図や設計図が読解できないか。こうして、自然科学を始める態勢が整ったことになります。

大澤:キリスト教の影響というのは、まったくキリスト教的ではないかたちで、あるいはキリスト教そのものを否定するようなかたちで発現することがよくあります。資本主義の精神はその一例ですが、もっと端的な例は自然科学ではないでしょうか?
その自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした。

橋爪:自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか。まず、人間の理性に対する信頼が育まれたから。そして、もうひとつ大事なことは、世界を神が創造したと固く信じたから。この二つが、自然科学の車の両輪になります。
世界は神がつくったのだけれども、そのあとは、ただのモノです。ただのモノである世界の中心で、人間が理性をもっている。この認識から自然科学が始まる。

大澤:社会的・政治的な概念に関しても同じようなことが言えるのではないか。たとえば、主権とか、人権とか、近代的な民主主義などは一般に、宗教から独立の、あるいは宗教色を脱した概念だと見なされている。しかし、こうした宗教色を脱した概念自体が、実はキリスト教という宗教の産物なのではないでしょうか?

橋爪:そのとおりです。いま言った、主権や国家の考え方はみな、神のアナロジーなんですね。

大澤:ぼくらは、自覚しているかいないかは別として、キリスト教的な世界観が深く浸透した社会を生きているわけです。

・・・キリスト教といえばクリスマスと結婚式、みたいな感じで、日本人の大部分はキリスト教と日常的に係っているとは感じていないだろう。しかし、西欧近代の価値観のベースにはキリスト教がある。大ざっぱに言って、資本主義も自然科学もキリスト教から生まれた。だから、既に近代化が終了して、このシステムに乗っかっている日本人は、まさに自覚していなくてもキリスト教的な価値観に多かれ少なかれ染まっている、はず。ゆえに、あらためてキリスト教的価値観の成り立ちを考えておくのは、日本人にとって重要なことだと思える。(理性については、木田元の「反哲学」という考え方からも学べる)

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