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2011年6月25日 (土)

切実なる哲学

まずは『ウィトゲンシュタイン』(河出書房新社)の中の、鬼界彰夫先生の文章からメモ。

ウィトゲンシュタインは、一度読むとそこに特別な意味や、その存在を必要であると感じる人が多い哲学者の一人でしょう。

彼の場合、様々な理由から自らの生そのものが危機に陥り、そのなかで考えて生まれたものが彼の哲学ですから、中身、主題は直接関係なくても、そういう状況で発せられた言葉の真剣さや重さが、たぶん、今、私たちに大きな意味を持つことになるのだと思います。

哲学者とは、いかに体系的な哲学書を書くかということを問題とする者ではないでしょう。それよりももっと、これがないと自分は生きられないという問題こそが本当の哲学の問題のはずです。
今、哲学者や思想家と言われている人よりも、もう少し何かの事情で真剣に悩んでいる人、悩まざるをえない人のほうがむしろウィトゲンシュタインを理解できる素地があると言えるでしょう。

・・・ウィトゲンシュタイン、自分は読んでないに等しい。でも昔、いくつかの文章に目が覚めるようなインパクトを受けた。「私の言語の限界が私の世界の限界である」「哲学的命題は誤りではない。無意味なのだ」「語りえないものについては沈黙しなければならない」、どれもこれも叫びたくなるほどカッコイーではないか。

最近、あらためて哲学が気になっている。そのきっかけは昨年9月、日経新聞「私の履歴書」に木田元先生が登場したこと。いわゆる哲学、西欧形而上学とは、ニーチェ的観点から、キリスト教とプラトン主義がないまぜになったものであり、それは西欧に特異な知の在り方である。ということは重々承知ではありましたが、その内実についてあらためて勉強しなおすかという気分になって、この春、衝動的に朝日カルチャーセンターの「西洋哲学史」の講義を申し込んで、ただ今受講中です。

木田元=ハイデガー的に形而上学を相対化するとか、ツチヤ教授=ウィトゲンシュタイン的に形而上学の不可能性を意識するとか、ややテクニカルな話に見えるかもしれないけど、明治維新から140年、西欧近代化がほぼ「完成」した日本において、あらためてヨーロッパの根本にある考え方を反省してみるのも、無駄ではないだろうと。

とはいえ、哲学イコール形而上学でもないわけで、木田元やツチヤ教授も大事だけど、もっと切実なところで哲学したい時には、西研先生の本を読むのがよろしいかと思う。哲学っていうのは基本的に切実に考えるってことだろう。切実さの欠けた哲学は哲学じゃない、くらいの気持ちはある。そんな思いから、上記の鬼界先生の文章をメモしました。

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