日本における哲学の特殊事情
雑誌「男の隠れ家」7月号の特集は哲学について(大人の哲学入門 いま必要な「哲学者の言葉」)。東浩紀のインタビュー記事から以下にメモ。
哲学とは考えることですね。考えること全体が、哲学だと思います。
そもそも哲学と呼ばれている日本語は、フィロソフィという言葉の明治時代の訳語なんです。明治時代というと19世紀の真ん中ぐらいにやって来たわけですけど、この19世紀真ん中というのは、哲学の歴史のなかでも非常に特殊な時代だったのです。
日本の場合、哲学というとまずドイツ哲学をイメージするんですね。つまりカントとかヘーゲルです。
19世紀のドイツ哲学というのは、カントとヘーゲルという、とっても個性的なふたりがいたために、すごく体系立ったわけですよ。哲学が体系立ち、とても学問っぽく見えた特殊な時代なのです。でもそれは、19世紀にドイツでしか見られなかったことなんです。
例えばフランス哲学というのは、もっとゆるやかで文学と近いような、エッセイみたいな感じでした。イギリスはある種もっと功利的で実利的な哲学でした。
日本人がイメージする哲学は、(ドイツ観念論という)一時代にひとつの国で生まれた非常に特殊なものを代表にしています。それを明治維新の頃に輸入し、強力に推し進めてしまったために、今もそうしたイメージが残っているわけです。
日本の場合、西洋のように体系的哲学というより、文学のほうが強いですね。戦前にもその傾向はありましたが、戦後は文学に哲学が飲み込まれてしまった、という感じです。文芸批評が哲学を飲み込んだというのは、吉本隆明とか柄谷行人といった人たちがひとつの例です。
それと日本の場合、明治の初期に少しはあったかも知れませんが、哲学が社会運動と結びつくことが、あまりうまくいっていない感じがしますね。特に戦後は、全然ないと思います。諸外国では哲学と社会運動が結びついた例が見られます。フランス革命とかロシア革命とかはそうしたものですよね。しかし、日本ではそういう例はないですね。
・・・輸入学問である哲学の日本における特殊事情。実のところ、哲学は決して体系的学問というわけではない。さしあたり、物事を原理的に考えることを、哲学というかフィロソフィと呼んでいいだろう。そして日本では哲学の歴史そのものが浅いし、哲学というか思想と結びついた大きな社会運動の経験が無い、と言われればそうなのだろう。もちろん革命に代表されるような思想的社会運動には弊害もあるから、良し悪しをいうのは難しい。でも、失敗も含めて、そういう経験の乏しいことが、新たな社会を構想し実現しようとする意欲の弱さにつながっているとしたら、これはマズイよなあ~。
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