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2011年4月30日 (土)

会津若松城に行く

連休の初日二日目は、会津若松に出かけた。東北支援のため、福島県の観光地に赴いた。と言えば聞こえは良いが、もともと3月末を目処に行くつもりだったので、震災で後ずれしたというのがホントのところ。会津若松に行く気になった理由は、若松城、通称鶴ヶ城の天守閣リニューアル完了が3月末とのことだったから。東京から会津若松への乗換駅である郡山まで、東北新幹線は既に4月12日に再開してたけど、他の予定等もあって結局4月29日、東北新幹線全線再開と共に福島へ向かいました。

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その若松城天守閣の外観、瓦が葺き替えられて赤茶色の屋根になったのが一番の変化。寒冷地の環境下、瓦の内部の水分が凍ることにより瓦が割れるという問題を解決するため、江戸時代の城主・保科正之が新しい瓦を開発。内部に水分が入るのを防ぐため、鉄分を含んだ釉を塗った瓦は、赤茶色に焼き上がることから「赤瓦」と呼ばれた。以降、幕末の戊辰戦争を経て取り壊されるまで、若松城は赤瓦の城だったとのこと。

近年は、史跡の建造物復元は史実に忠実に行うようにとの国の指導もあるそうで、そんなことも今回の赤瓦のお城復元につながったらしい。

まあ何にせよ、いま見ることのできる赤瓦の城は、ここ若松城だけということだから、そういう意味でも注目される史跡の復元改良ですな。

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2011年4月23日 (土)

西生浦倭城の行き方

先日、韓国にある倭城のひとつ、西生浦(ソセンポ)城に行ってきたわけですが、旅行するに当たっては、サイト「プサンナビ」や、お城を訪問した方々のブログを大いに参考にさせてもらいました。カンサハムニダ。

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さて、あれこれ調べた結果、自分は釜山(プサン)の海雲台(ヘウンデ)から出ている市外バスを使って、西生浦倭城まで行くことにした。ヘウンデは、プサンの中心街から地下鉄で30分程離れた場所。何しろ知らない言葉の国なので、なるたけルートを分かりやすくしたいと思って、最初からヘウンデに泊まることにした。自分が使った旅行商品はJTBのプサン・フリープラン。飛行機とホテルを決めて、後は自由行動ってやつだ。知らなかったけど、ヘウンデは韓国のビーチ・リゾートなのです(写真)。夏場には多くの人で賑わうとのこと。

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フリープランは、空港からホテルまでの送迎付き。ホテルに向かう車の中で、JTBの現地係員(日本語の話せる韓国の人)に、自分のプランを話すと、ケータイでバス会社にバスの時間などを聞いてくれた。こういう形で情報も得られるので、完全な個人旅行よりもメリットがあると思う。泊まったホテルと市外バスターミナルの距離は、歩いて10分もかからないくらい。プサンの中心街に泊まった場合は、地下鉄2号線に乗ってヘウンデ駅で下車、1番出口を出れば、すぐに市外バスターミナルが視界に入ると思います。初日は場所と時刻を確認。目的地は鎮下(チンハ)なのだが、韓国では漢字表記は殆ど使われてないな。写真はバス待合室にある時刻表。チンハ行きは大体2時間に一本。朝8時20分か10時20分のバスに乗ろうと決めて、その日は終わり。

翌朝、早起きできたので8時頃バスターミナルに行き、切符を購入。目的地の呼び名は事前の調べではチナとされていたけど、ハングルを文字通り読むとチンハ。切符を買った時に、窓口のオバチャンにも「チンハ」と言い直された。後でバスの乗客からはチナという言葉も聞こえてきたので、ネイティブっぽい発音はチナということですかね。

チンハまでの運賃は4400ウォン。数字が大きくて、日本人の直感的には高い値段の印象があるけど、レートは1円=12ウォン程度なので、ざっくり10分の1の数字で受け止めれば納得。

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写真の右がチンハ行きのバス。バス上部のハングル文字は、左3文字がヘウンデ、右2文字がチンハ。切符にも行き先がハングルで記されているので、文字の形が同じであることをよく確かめて乗り込む。いちおう運転手さんにも、「チンハ?」と尋ねると、無言で右手親指を後ろに指して〈乗れ〉の合図。無愛想だけどこんなもんか。(しかし目的地到着後にも、この運転手さんにカタコトで尋ねたら、バス時刻表のカードをくれた)

実は、最初はウルサン行きのバスがあって、途中で降りるというイメージを持っていた。だから、どこを走っていくか見当を付けたくて、先に都内の大きな本屋で韓国の地図を買って、該当ページのコピーを持参していた。それが実際にはチンハ行きのバスに乗って、終点まで行けばよいということになったので、場所も知らない言葉も分からない旅行だけに、よかった~って感じになった。

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とにかくヘウンデを8時20分に出発して1時間余り、9時半前に終点のチンハに着く。バスを降りて、進行方向向かって左を見ると、大きな高層アパートがイヤでも目に入り、その背後の山の上に石垣が見えて、あれが目指す西生浦城!だ。これは城を見て戻ってから気が付いたけど、写真の建物の3~4階辺りの右手奥に、石垣と案内所(小さい茶色の建物)があるのが分かる。いずれにしても、バス停からアパートを目指して、その裏側に回りこむ格好で歩いて行けば、登城入り口と案内所に辿り着ける。

案内所には、おそらく常駐なのであろう、ガイドさんもいる。韓国語で話しかけてきたので、モルゲッスムニダ、チョヌンイルボンサラミンニダ、なんて具合に言えたら良かったんだろうけど、実際に発した言葉はイルボン(日本)の単語ひとことだけ。そしたら、すぐに日本語に切り替えて話してくれた。感心。お城の一部は整備の手を加えられてもいるし、韓国のお金で日本の城が史跡として保存されているということで、カンサハムニダ。

帰りのヘウンデ行きバスの時刻も大体2時間に1本。自分は12時のバスに乗りましたが、後は14時、16時をチェックしておけばよいでしょう。まあ~お城マニアだったら、もっと時間をかけて嘗め尽くすように見て歩き回るのかも知れないけど、私はファン程度のレベルなので、見学は2時間もあれば充分だった。帰りは、バスの運転手さんに行き先のヘウンデを告げて、直接4400ウォンを払えばオッケーでした。後は再び乗車すること1時間、終点のバスターミナルに到着。

今回、最低限のカタコト韓国語を覚えたりメモしたりしたけど、殆ど使わなかった。もっと反射神経的に口をついて出ればなあ。なぜかそれがちょっと心残り。また行くか?

(追記:2013.5.12)
小生の訪問から2年経ちましたが、バス時刻と料金が少し変更されていて、目印である建築物の色も変わっているとのブログ記事を拝見しました。「訪城ログ」様、有難うございまーす。

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2011年4月22日 (金)

西生浦倭城

僕が倭城というものの存在を知ったのはごく最近。3年前、「歴史読本」(2008年5月号)に関連記事とカラー写真で紹介されているのを見て、「おお韓国にも石垣があるのか、これはいつか見に行かなきゃ」と思ったのが最初。

急いで説明すると、倭城というのは豊臣秀吉が起こした朝鮮戦争の時に、朝鮮半島南部の沿岸約30ヵ所に日本軍が築いた城ですね。もちろん朝鮮側からの呼び名です。

しかし韓国である。行くのはいいが言葉が分からない。倭城巡りツアー(福岡の旅行社の企画)も見つけたけど、何しろ内容がそんなに一般的じゃないから、しょっちゅうやってるわけでもない。ならば、まず見るべき城を一つ選ぶならどれか。「歴史読本」のお薦めは、加藤清正の築いた西生浦倭城(ソセンポウェソン)。訪問者のブログも参考にさせてもらい、とにかく西生浦倭城を見る、その一点に絞って韓国行きを春先に決意しました。

そしてついに4月17日の日曜日、西生浦倭城に辿り着くことができた。行き方はまた別に書くとして、とりあえずお城そのものについて報告。まずは夢にまで見た(大げさです)長大な登り石垣。周辺には畑や住宅がある。この石垣の向こう側に案内所と城に上る道がある。山頂に見えるピンク色は、本丸跡に植えられている桜。

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頂上まで上るのに、そんなに時間はかからない。10分くらい上ると大手口の門に着く。

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そこからさらに10分くらい上れば本丸。石垣は天守台。桜は大部分散っていましたが、石垣を目当てに来た自分には、程よい彩りでありました。

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いかにも日本の城だな、という虎口もある。本丸と、その奥に位置する馬出し曲輪をつなげる喰い違い虎口。

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今月出たばかりの「週刊・絵で知る日本史」24巻(名護屋城図屏風・朝鮮軍陣図屏風)にも、倭城について書かれているので、以下に一部をメモします。

倭城の立地・構成上の最大の特徴は、海岸や河に隣接する見晴らしのよい山上に母城を築き、麓に居住機能のある子城を造って港も取りこみ、それらを長大な石垣や土塁による外郭線で囲む構造にある。

城は高い石垣上に築かれ、城兵は周囲を俯瞰して上から鉄砲で狙えるが、攻城兵は河や海側からは近づけず、鉄砲や矢も届きにくい。また、朝鮮の城は単郭(曲輪がひとつ)が多いが、倭城は複数の曲輪があり、外郭のなかにさらに幾重もの防御ラインが石垣・土塁・堀などによって設けられ、外郭が破られた場合も防御性が高かった。

倭城でとりわけ敵方に強い印象を与えたのが石垣であった。朝鮮の石垣は垂直に近い角度で積み上げるため、倭城のゆるやかに反った石垣は異様に映ったようである。高く反りかえった石垣は、よじ登る兵を俯瞰しやすく、石垣上にある櫓の狭間から、見えない兵が銃弾を浴びせかける攻撃は、明・朝鮮軍を大いに悩ませた。

・・・しかしまあ秀吉と清正が、おいらを韓国まで引き込んだようなものだな。太閤様と、せいしょこさんの偉大な力を感じるよ。

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2011年4月21日 (木)

上田毅八郎画伯

昨日4月20日付日経新聞文化面に、上田毅八郎氏の文章が載っている。かつてのプラモデル少年にとって上田毅八郎といえば軍艦の画家。その絵は、そのまま第1級の資料になるほど緻密に描きこまれて、しかも美しい。ついでに書くと、戦車だったら高荷義之の絵が好きだ。一方、小松崎茂の絵は好きになれなかった。美しくないと思う。

上田画伯は、戦争中に従軍して利き腕の右腕を負傷し、戦後は左手で絵を描き続けた(と聞くと、やっぱり水木しげるを思い出す)。有名なのはもちろん、日本連合艦隊の艦船プラモデル「ウォーターライン」シリーズの箱絵だ。2000枚以上を手がけたという。日経掲載の上田画伯の文章から以下にメモ。

何よりもこだわるのは正確さだ。資料を徹底的に調べる。たとえば同型艦でも装備の違いがある。どんな装備をとっても、その機能を理解していないと描けない。砲座の形など、時期によって異なるものも再現する。
写真がないものは、図面から絵を起こす。国会図書館には昔の軍艦の設計図が残っていて、それを見れば構造がわかる。
ところによって海の色も空の色も違う。速度によってはき出す煙のたなびき方も違う。すべて経験しているから情景が再現できるのだ。

個人的に描き続けてきたのは私も乗船していた輸送船だ。民間の商船や客船を軍部が徴用したもので、あまり話題にはならないが、ろくな護衛も受けられず、多くの若い命が散った。

亡き戦友たちの慰霊と鎮魂のため、思い出を描きとめることが使命だと考えてきた。

・・・今年91歳の画伯は、今でも描きかけの作品が300~400点あり、健康を維持して、使命を全うしたい、と意欲を示している。ただただ敬服するのみ。

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2011年4月20日 (水)

「オンカロ」と人類の未来

今日は有楽町で映画「100,000年後の安全」を観てきた。内容は原発関連、これはもう土日の混雑は明らかなので、有給休暇取得の荒業を繰り出し、朝10時過ぎ一日一回のみの上映を鑑賞した。ついでに言うと、この映画館では今日水曜日がサービスデー(苦笑)。入場料1000円です。館内160席余りは7~8割方埋まってたな。

原子力発電所から出る高レベルの放射性廃棄物が、完全に無害になるのは10万年後。その廃棄物の最終処分場を、フィンランドが世界で初めて建設している。堅い岩盤地域の奥深く、4㎞を超える長大なトンネルを螺旋状に掘り進んだ地下500メートルの場所に、廃棄物を埋蔵する長期プロジェクト。オンカロ(隠された場所)と呼ばれるその現場にカメラが入り、建設状況やプロジェクトの関係者たちへの取材、マイケル・マドセン監督本人の語りなどで構成されるドキュメンタリー映画。

埋めた後、ここは危険地帯だと知らせるため様々な言語を使って記しておくほか、絵図で示すことも考えられている。ムンクの「叫び」を使うという案もあるらしい。それとは逆に、全く忘れ去られてしまう方がいいのではないか、という考え方もあるとのこと。下手に未来の人々の好奇心を刺激しても面倒だからだ。

何しろテーマがテーマだけに、音楽の効果もあって、映画にはメランコリックなトーンが滲み出ている。確かにそんな遠い未来のことは分からないのだから、当事者たちも絶対的な確信を持ってプロジェクトを進めているわけではないだろう。

しかしながら、関係者の発言にもあるように、放射性廃棄物は現実に存在しているのだから、我々は何らかの方法で処理しなければならないという責任がある。だから、とにかく最善と思われる方法を実行しているフィンランドは立派だよな~と思う。

でも、映画の中で6万年後に氷河期が来るなんて話もされてるし、人類の終わりとか、さらに地球の終わりまで考えたりすると、これが完璧な方法だという結論を出すことの意味が薄らいでくる。映画の中に「不確実性下の意思決定」という言い方(投資理論を思い出すよ)があるけど、結局のところ「賭け」の要素を完全に排除するのは不可能だ。とにかく最善を尽くして、後は野となれ山となれ、というと言いすぎだけど、そんな感じ。

こういう映画を見ちゃうと、少なくとも原発の新設はダメだなという思いを持つ。既存原発も老朽化したら迷わず廃棄。とにかく新エネルギー開発や温暖化対策、省エネ生活を進めるしかないという気分になる。最終処分場も日本に作るのは無理だな。プレートぶつかり合ってるし。原発保有国共同で国際的な処分場をシベリアにでも作りますかね。

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2011年4月19日 (火)

UKライブ最終日(2011)

昨夜、UK来日公演を見た(川崎クラブチッタ)。全体的にはさすがの演奏だったが、ジョン・ウェットンの声の調子が悪くて、少々失望。エディ・ジョブソンがMCで、「ジョンは昨日今日と病院に行った」とか言ってた。ライブに参加した方のブログを見ると、15と16日、つまり初日二日目の調子は良かったみたいで、何かグヤジ~ぞ。

演奏曲目は、他にちゃんと書く人がいると思うので、自分は適当に記すと、インザデッドオブナイト、デンジャーマネー、アラスカ、スターレス、キャリングノークロス、ワンモアレッドナイトメア、シーザーズパレスブルース、ジオンリーシングシーニーズ、ランデブーシックスオーツー、ナイトアフターナイト、ナッシントゥールーズなど。

客の年齢層は当然高く、月曜日平日の夜だからスーツ姿の男性が多い。黒Tシャツの若者が集うメタルのライブとは全く違う(当たり前だ)。夜8時を15分程過ぎてから始まったライブは2時間を超え、終了したのは10時半頃。

UKリユニオン・ツアーと銘打たれてはいるが、バンドとして再結成したというよりは、ウェットン&ジョブソンの企画ツアーかな。4年前のアルカトラス名義のグラハム・ボネット来日みたいな。でも、演奏内容自体は紛れも無い「最後のプログレバンド」UKだった。その復活は、エイジアの復活よりもずっとずっと意義深~いものだと感じる。

今回のUKは3人でも4人でもない3.5人編成の感じ。ギターの人が滅茶苦茶控え目で、曲によってはいなくなっちゃうし。上手いんだろうけど、何か印象薄かった。ドラムスの人は、どっちかっていうとテリー・ボジオタイプの重くて音圧の強いドラミング。なので、デンジャーマネーはまんま再現という感じだったけど、UKファーストやキングクリムゾンの曲(ビル・ブラフォード)は少しイメージ違うかな~と。

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自分は1979年のUK公演を見た人間(写真はそのパンフから)。日本青年館で、演奏スタート直前に主催者側からライブ録音の発表と例の「UKコール」の要請があったな。ライブの最後、シーザーズパレスブルースの演奏、エディがヴァイオリンで息詰まるようなフレーズを激しく弾きまくっていた姿を思い出す。

32年前にUKを見た時は、少々物足りなさが残ったのを覚えている。それはおそらく、自分がキングクリムゾンの幻影に捉われていたからなのだろう。70年代ティーンエイジャーである自分の好きなロックバンドは、ディープパープルとキングクリムゾン。これは、おそらく典型的な日本人の趣味。そんな自分にとって、70年代半ばの(当時の)後期クリムゾンと第3期パープルの消滅は悔恨の種。70年代後半には、レインボーにパープルの、UKにクリムゾンの幻影を見ようとしていたと思う。しかしその気持ちは結局満たされなかった。その後、パープルもクリムゾンも「復活」はするのだけど、結局「第3期」も「後期」も再現されることはなかった。

時は流れて、5年前に「Burn」を歌うデイビッド・カバデールを見たし、今回は「Starless」を歌うジョン・ウェットンを見たので、70年代ティーンエイジャーのトラウマも1割くらいは解消されたかな。いや、そんなに執念深いわけじゃなくて、長生きしているといろんなことが起きるのだな、という感じです。

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2011年4月 8日 (金)

金の高値と「冷戦後」の終わり

金の最高値更新が続いている。指標となるニューヨーク先物は1トロイオンス1460ドルを突破。

本日付日経新聞に、過去30年の金価格のチャートが載っている。冷戦構造下の1979年末、ソ連がアフガニスタンに侵入。80年1月に金は875ドルまで急激に上昇、その後急落。冷戦終了後の90年代は上昇力に乏しく、99年には252ドルまで下落。

転機となったのは2001年の「9.11」。冷戦後のアメリカ主導の世界秩序に揺らぎが見え始めると共に、金の上昇が始まり、サブプライムショック後の08年には、79年の高値を上回る。ETFなどによる金の「金融商品」化という要因も加わり、金の上昇は加速。リーマンショックも乗り越えて1000ドルを超えた。

正直、金が79年の高値を超えたのは驚きだった。「戦争と革命の時代」の終わりはインフレの終わりを意味するとか言われてたので、冷戦が終わった後に、金が冷戦時代に付けた高値を抜くとは思えなかった。それがいつの間にか空恐ろしいくらいの高値になっている。

そもそも冷戦が終わったこと自体、驚きだった。自分が子供の頃には、第三次世界大戦は米ソが核ミサイルを打ち合って決着を付ける、なんて話がまことしやかに語られていたわけで。あるいは20世紀中に東西ドイツが一つになることはない、と言われていたのがあっさり統一されたりとか。ホントに驚きでした。

まあ、金の高値更新は、図らずもこの20年間の「冷戦後」が終わったことを示している、そんな感じだ。アメリカ一極支配やら、新自由主義やらの時代は過去のものになり、今は新たな世界秩序を手探りする局面に入っている、のだろう。こんな時に外交を停滞させちゃいけないのに、日本は天災に襲われて酷い目に合っている。踏んだり蹴ったり。

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2011年4月 3日 (日)

国難の中で普通に生活する

昨日の朝、フジテレビで平原綾香が「Jupiter」を歌っていた。確か新潟中越地震の時もリクエストを集めたこの曲、すっかり「被災者応援ソング」のポジションを固めちゃったみたいだ。

アエラ緊急増刊「東日本大震災」掲載の著名人の提言を眺める。震災に対して、一丸とならなくていい、一斉に立ち上がらなくていい、と述べる香山リカの言葉をメモしてみる。

この災害というピンチをチャンスに変えよう、日本が一丸となって難局を乗り切ろう、そういう機運が高まっています。メディアでは著名人やスポーツ選手が「今こそ立ち上がろう」と強いメッセージを送る。でも、これだけの深い傷を負って、そんなにタフな人がどれだけいるでしょうか。

いまは、歩みを止めてじっくりと哀しみに向き合えばいい。何万人もの人が亡くなり、行方不明になった大震災だからといって、個々の人にとっては個別の出来事です。それぞれの喪失感をかみしめる時間が必要です。個人の感情を追いやって、「1日も早い復興を」と言うのはおかしいと思う。

私たちが被災地のためにできる最も大事なことは、あえて「なにもしないこと」なんじゃないかと思います。不安定にならないで、それぞれの持ち場を守りながら生活を続けること。みんなが一斉に立ち上がらなくても、余力をためておけば、もっと後に自分の力が必要になる時がくるかもしれない。

・・・ほぼ同感。今回の地震・津波そして原発事故は、社会に大きなショックを与えた。未曾有の大災害に直面して、危機を克服しなければという思いが強まり、「がんばろう」とのかけ声が溢れ、せかされるように募金が集まる一方、水の買いだめに走るとか野菜の購入に神経質になる、あるいは各種行事の自粛ムードが漂うなど、ポジティブにせよネガティブにせよ、不安心理を克服しようとする防衛反応が過剰気味というか、社会の中にやや不自然で病的な徴候が現れている感じがする。まあ何しろ非常事態が継続中なので仕方のない面もあるし、それでも今のところ日本社会は概して健全な心理状態にあるとは思いますが。

土台、被災を免れた人が今、被災者や被災地に何ができるかといえば、直接的にできることは限られている。ボランティアの受け入れ態勢が整うまでには、まだ時間がかかるだろうし。原発事故にしても、政府が頼りなかったり、電力会社がいい加減だったりしても、とにかく今は現場の専門家や担当者に任せるしかない。結局、普通に生活できる人は、普通に生活してればいいんだよ。そして普通に金を使うこと。まあ節電はするにしてもね。

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