「美人すぎる」の是非
「美人すぎる市議」から始まった「美人すぎるナントカ」探しの盛り上がりに、雑誌「サピオ」(12/22、1/6合併号)が意義を唱えている(記事:その「美人すぎる××」は言い過ぎです!)。要するに今や「美人すぎる」人は「粗製乱造」気味ではないか、と。
なぜ「美人すぎる××」は、注目されるのか。マーケティングと心理学の専門家は、「意外性」と「希少性」を挙げる。同記事からメモ。
女優やモデルはキレイなのは当たり前だから、なかなか印象に残らない。しかしそこへ「市議なのに美人」と言われると、一気に意外性が高まる。特に「市議」は職業の持つイメージとのギャップが大きかったから、「美人すぎる××」の元祖になったのでしょう。(西川りゅうじん)
「××なのに美人」と言われると、そこに希少性という付加価値が発生する。だから、「美人すぎる」――とはつまり“美人を超えた美人”ではなく、いわばオンリーワンの付加価値に、男性たちは惹かれるのだと思います。(名越康文)
・・・「意外性」と「希少性」、それはその通りだと思うけど、そこまでもっともらしく言わなくても、記事の中で「当事者」の一人である森崎友紀さんが語っている、「『美人すぎる』というフレーズは“料理研究家にしては・・・・・・”ということですよね(笑)。流行に、うまく乗らせてもらえたと思っています」という冷静かつ賢明なご意見で、事態の認識としては充分な気がする。
もともと「美人すぎる市議」は、「市議にしては美人」ということだろうから、半分シャレみたいなもんだったろうなと思う。それが各分野で「ナントカにしては美人」探しが熱を帯びてきて、「美人すぎるナントカ」が大量に出現してくると何だかな、って感じにはなってくる。しかし、これは単なる流行なのか、はたまた歴史の必然?なのか。
同じ記事の中で、「美人論」の著書がある井上章一教授は、「こういった言い方が流行るのは、女性の社会進出が進んでいるからだ」と指摘している。まあ結局そういうことになるようです。振り返ってみればその昔、「アイドル」は主に歌手、芸能界に限られていた。それが次は一般人に注目されるメディアやスポーツの世界、女子アナやアスリートの「アイドル」化へと進み、そして今や社会の個別各分野で「アイドルを探せ!」ということになった、そんな感じですかね。
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