« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

2010年12月27日 (月)

2011年、株と政治に望むこと

今週の「日経ヴェリタス」紙(12/26号)に「出遅れ日本株、来年復活?」との記事。外資系国内問わず証券会社は2011年の日本株に強気見通しと。アメリカの金融緩和第2弾や世界景気の再加速などを背景に、グローバル投資のポートフォリオにおける日本株の比率引き上げ、アンダーウェイト(弱気)解消などの動きから、日経平均は1万2000円程度を目指す、というのが大体のイメージ。

まあ、強気と言っても、1万2000円というのはリーマン・ショック時の水準だから、とりあえず出遅れ解消に過ぎないとも言える。もう少し上を目指すとすれば、今年4月の高値1万1400円から夏場の8800円どころまで、下げ幅2600円の倍返しが1万4000円、中長期的にはこの程度の水準は期待してもいいんじゃないか、という気はする。

株価1万2000円からさらに上昇するためには、おそらく政治の安定が望ましい。2005年の「郵政解散」に伴う株価上昇を思い起こせば、政策期待を高めることが株価上昇に寄与することは疑いない。

現状菅内閣の支持率は低迷、しかし世論は大連立にも否定的で、政界再編を期待している模様。まあ政界再編というのも、今は軸が見えない。昔は改憲か護憲か、保守かリベラルか、とかあった気がするけど、今はもう何が何だか。すると次善の策ではあるが、大連立をやるしかなくなると思う。もちろん筋としては、いっぺん解散総選挙をやった後。大義名分としては、「消費税増税を含む財政と社会保障の一体改革」や「沖縄基地を含めた外交の大方針の決定と実行」を掲げて信を問う、というところか。しかしそんなに時間があるとも思えないし、予算が成立した後は、選挙無しでもこの大義名分で大連立やってほしい。とにかく政治が安定しないと株価にもよろしくないぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月24日 (金)

自分の「すべきこと」

「日経ビジネスアソシエ」(1/4号)の特集は、2011年に「すべきこと」「しないこと」を、各界50人に聞く、というもの。自分的には「仕事術」的な言葉には興味が無いので、とりあえず「心構え」的な言葉を選んでメモする。

「私は、生きるとは、不確実性を抱きしめることだと思っています。人生が不確実だということは、解答はないということ。正解を探し求めても意味がない。自分で精いっぱいに悩んで、自分で決断していくしかないんです」(姜尚中)

「日本人は勉強しすぎ。知識だけでは学びにならない。新たな環境に飛び込んで体験するしかない。人間は知識ではなく行動で変わる。それを覚えてください」(宋文洲)

「あと何年生きられるかをアバウトに考え、そこから逆算する。結局、モチベーションというのは、あと何回それができるかに左右される。あとわずかしか機会がないことに気づくと、取り組み方が濃密になります」(大前研一)

・・・新しい年は悩んで、決断して、行動しよう。「残り時間」も考えて、相手のあることはともかく、自分がやりたいと思ったことは、できるかぎり先送りしないようにしよう。そうしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月23日 (木)

十字軍!

雑誌「PEN」のキリスト教特集、再び。今年の春先にキリスト教の特集を組み、間を置かず増補版別冊も出した雑誌「PEN」が、年末に来てまたやりました「キリスト教とは何か。Ⅱ」(1/1・15合併号)。とりあえず今回も買っちゃいました。

前回同様、絵画作品によるキリスト教案内という内容で、今回は新約聖書、「イエスの教え」が中心。このほか、ミケランジェロやラファエロ、カラヴァッジョなど西洋絵画の巨匠、聖地や教会など、すべてカラー図版で紹介されている。

で、目に付いたのが十字軍の解説。メモしてみる。

11世紀当時のヨーロッパは、封建制がほぼ完成しており、王や諸侯が新たな土地を獲得したくても、土地が不足している状態だった。また、土地に縛られ搾取されていた農民にも、不満が増大していた。十字軍遠征は結果的に、こうした多くの民衆のフラストレーションを、まとめて異教徒の地に向かわせることになった。

十字軍遠征は大きいもので8回、2世紀にわたって繰り返されたが、成功といっていいのは最初の第1回のみ。次第に本来の目的は形骸化。王侯や商人たちの利権欲がむき出しとなり、略奪や強欲な貿易が目立ってくる。

戦果としては、第1回以外はほぼ失敗だった十字軍。終結後の欧州での勝者は商人のみ、敗者は教皇や国王、諸侯らといえる。台頭してきた商人たちは自治都市国家を形成していく。また、聖地回復時にピークを迎えた教皇の権威は、その後の失敗続きで次第に衰退。十字軍での東方貿易で財力を得たベネチアなど北イタリア都市の商人たちは、後のルネサンス期に芸術家のパトロンとしても活躍していく。

十字軍の真の評価は定まっていないが、キリスト教の闇の歴史の一部であることは否定できない。得たものは聖地ではなく、医学や航海術など、ヨーロッパより先進的なイスラムの文化だったのは皮肉な結果だ。

・・・キリスト教中世のピークで企てられた十字軍という一大プロジェクトは、イスラムからのギリシャ学問の逆輸入や都市国家の繁栄を通してルネッサンスを準備するという、中世の自己否定の契機となった。アレクサンダー大王の遠征、ゲルマン民族大移動、モンゴル帝国や大航海時代等々、戦争を含めた人々や文物の大移動が、社会や文化の再編を加速し、次の時代を準備する。歴史には、そんなダイナミズムがしばしば見られる。

今年は塩野七生の「十字軍物語」の刊行も始まったんだっけ。まあ自分的には十字軍といえば、やっぱりフリードリヒ2世(シチリア出身の神聖ローマ皇帝、第6回十字軍で戦わずに外交でエルサレム共同管理を実現)が一番のハイライトです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月22日 (水)

社会保障関係費の呪縛

本日付日経新聞「経済教室」(社会保障改革の視点)執筆者は鈴木亘・学習院大学教授。最近も鈴木先生の著書『財政危機と社会保障』をメモしたけど、今日の日経記事は鈴木先生の主張を煎じ詰めた格好になっているので、改めてメモしませう。

2010年度政府予算の一般会計の社会保障関係費は既に27.3兆円と、政府が裁量可能な一般支出の約半分を占める。菅内閣はこれを「聖域」とした上、高齢化の進展に伴う1.3兆円の自然増も丸々認める。問題はこの1.3兆円の自然増が毎年上乗せされていくということである。そのたびに、ほかの歳出を1割カットしていくのであれば、十数年後には一般歳出は全て社会保障関係費に乗っ取られることになる。現在の財政運営が持続不可能であることは明らかだ。

消費税による財源確保が難しく、赤字国債拡大による歳出増も行わないとなれば、まさにこの「聖域」とした社会保障関係費を見直す以外に活路は無い。社会保障関係費のうち20.7兆円は、本来なら保険料で運営されるべき社会保険に安易に投じられている莫大な公費なのである。

すなわち日本では、基礎年金財源の半分は公費であるし、医療保険においても、後期高齢者医療制度や、国民健康保険(国保)、共済健保の給付財源の半分が公費で賄われている。また、介護保険に至っては、公費負担は6割近くに達しており、雇用保険でさえも13.75%の公費が投入されている。その結果、社会保障制度全体の約3割が公費負担で賄われている。

実は、こうして安易に投じられる公費が、給付と負担の間の関係を曖昧にして、国民の社会保障制度に対する「コスト感覚」を失わせているといえる。
また、自己負担率や保険料が本来あるべき水準よりも低いことから、過剰な需要が生まれている。この過剰な需要こそが、医療・介護・保育で待機者問題を引き起こしている主因なのである。さらに、多大な公費の存在は、過剰な行政介入、参入規制を正当化するから、この分野に新規参入が途絶えて、既存業者の高コスト体質が温存され、公費効率化がなかなか進まない。

こうした公費投入の副作用を考えれば、現在聖域とされている社会保障関係費こそ仕分け・削減の対象とすべきであろう。

・・・ということです。明快すぎるほど明快です。財政の圧迫要因は昔は公共事業費、今は社会保障関係費。暴論を言えば、社会保障制度は公費投入無し、保険料収入のみでやれるようにしろよ、って感じ。負担上昇や給付低下は、ある程度受け入れるとして。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月21日 (火)

「美人すぎる」の是非

「美人すぎる市議」から始まった「美人すぎるナントカ」探しの盛り上がりに、雑誌「サピオ」(12/22、1/6合併号)が意義を唱えている(記事:その「美人すぎる××」は言い過ぎです!)。要するに今や「美人すぎる」人は「粗製乱造」気味ではないか、と。

なぜ「美人すぎる××」は、注目されるのか。マーケティングと心理学の専門家は、「意外性」と「希少性」を挙げる。同記事からメモ。

女優やモデルはキレイなのは当たり前だから、なかなか印象に残らない。しかしそこへ「市議なのに美人」と言われると、一気に意外性が高まる。特に「市議」は職業の持つイメージとのギャップが大きかったから、「美人すぎる××」の元祖になったのでしょう。(西川りゅうじん)

「××なのに美人」と言われると、そこに希少性という付加価値が発生する。だから、「美人すぎる」――とはつまり“美人を超えた美人”ではなく、いわばオンリーワンの付加価値に、男性たちは惹かれるのだと思います。(名越康文)

・・・「意外性」と「希少性」、それはその通りだと思うけど、そこまでもっともらしく言わなくても、記事の中で「当事者」の一人である森崎友紀さんが語っている、「『美人すぎる』というフレーズは“料理研究家にしては・・・・・・”ということですよね(笑)。流行に、うまく乗らせてもらえたと思っています」という冷静かつ賢明なご意見で、事態の認識としては充分な気がする。

もともと「美人すぎる市議」は、「市議にしては美人」ということだろうから、半分シャレみたいなもんだったろうなと思う。それが各分野で「ナントカにしては美人」探しが熱を帯びてきて、「美人すぎるナントカ」が大量に出現してくると何だかな、って感じにはなってくる。しかし、これは単なる流行なのか、はたまた歴史の必然?なのか。

同じ記事の中で、「美人論」の著書がある井上章一教授は、「こういった言い方が流行るのは、女性の社会進出が進んでいるからだ」と指摘している。まあ結局そういうことになるようです。振り返ってみればその昔、「アイドル」は主に歌手、芸能界に限られていた。それが次は一般人に注目されるメディアやスポーツの世界、女子アナやアスリートの「アイドル」化へと進み、そして今や社会の個別各分野で「アイドルを探せ!」になった、そんな感じですかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月20日 (月)

「女子」について(酒井順子)

現代日本を生きる独身女性の「生活と意見」を書かせたら、酒井順子の右に出るものはいない。と思う。その酒井順子が「女子」及び「女子力」について考察している文章が、雑誌「ブルータス」(1/1・15合併号)に掲載されている。以下にメモ。

「女子」という名前は、女子自らの中から発生したものです。

そこには、「女が皆、男並みにならなくてはいけないはずはない! 女には女だけの楽しみがあるはずだ」という意味が込められていたのではないか。

「女子」という自己ネーミングから感じられるのは、まず完全に成熟することを拒む姿勢。大人の女になり切ってしまうのではなく、可愛いもの好きとか、庇護される対象であるといった少女っぽい部分をあえて残しておきたいという意志が、そこには感じられる。

さらに「女子」という名前は、「男子」がそこに入ってくることを拒みます。小学生の女の子が、「男子はあっち行ってて!」と言う時のような排他性がそこにある。

そもそも日本は、男女がいつも一緒にいるカップル文化よりも、男性同士とか女性同士で一緒にいる方が安心できる同性文化の方が強い国です。しかしそんな日本にも近年、「男だ女だと言っている場合ではない」という世界化の波が押し寄せてきたのでした。男も女も同じ土俵に立って、女も男並みに仕事をしたり、男も女並みに料理をしたり、互いに競ったりしなくてはならないように。

そんな時代であるからこそなおさら、女性達は「女子」という言葉によって、自分達だけの安全地帯をつくることに重要性を見出すようになったのでしょう。

女子力とはすなわち、自らを愛する力のことなのでした。それは女性が自らの女性性を凝視し、とことん愛でる気持ち。女子力の強化。それは自己という内側に向かうことによって、結果的に外へ向かう力を得ることなのでした。

・・・「女子」という言い方は、女性が単にオバハンになるのを拒否する姿勢を表しているのかと思ったが、雇用における男女平等化の地平において、男との同質化を拒否するという意味も強かったのか。なるほど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月19日 (日)

タレブの『強さと脆さ』

『ブラック・スワン』の翻訳書が出たのは、もう一年半も前のことになるのか。タレブという人の書いた世界的ベストセラーに興味がないことはなかったけど、邦訳を見たら、上下2巻本という厚さで正直読む気が失せた。今回新しく出た『強さと脆さ』(ダイヤモンド社)は、原著ペーパーバック版に追加されたエッセイを独立させて単行本化したもので、『ブラック・スワン』入門という性格も帯びているらしい。ので、とりあえずこれを読むことにした。いいんです、サラリーマンは。何となく知ってるつもりになれれば。さて、『ブラック・スワン』は、基本的には哲学の本らしい。『強さと脆さ』から以下にメモ。

『ブラック・スワン』以前、認識論と意思決定論の大部分は、現実の世界に生きる身にとって、単なる不毛な頭の体操であり、前戯にすぎなかった。思想の歴史のほとんどは、私たちは何を知っているか、あるいは何を知っていると思うか、そればかりだった。

人間の思想につきまとう頭の痛い問題は、懐疑主義と、信じてだまされる道という両極端の、どのあたりに立ち位置を置くか、つまりどう信じてどう信じないかを決めなければならないことである。また、そういう信念にもとづいてどう意思決定するかも問題である。信念を持つだけで意思決定をしなければ無意味だからだ。だから、これは認識論の(つまり何が本当で何が間違いかを考える)問題ではない。むしろ、決め、行動し、続ける、そういう問題である。

黒い白鳥とは大きな影響を及ぼす認識の限界であり、心理(思い上がりやバイアス)と哲学(数学)の両面における、個人と集団両方の知識の限界である。「大きな影響を及ぼす」と言うのは、大事なのは衝撃の大きい稀な事象であり、私たちの知識は、経験的にも理論的にも、そうした事象に出くわすと、使い物にならなくなるからだ。大きな影響とはそういうことである。

・・・タレブは、「私が示した経験的知識や統計的知識に関する限界は(決定的ではないとしても)現実的に重要」であり、この限界を踏まえた手法で意思決定を分類することにより、たとえば「もっと安全な社会」をつくることができる、という。

タレブは、複雑な金融商品を禁止して経済的生活を脱金融化しないといけない、普通の人に必要なのは安全性だ、とも提言する。タレブの思索は、金融市場主導でグローバル化した世界における「超カント」的な試みであると、無理矢理言えるかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月18日 (土)

ダライ・ラマの「生きる意味」

ダライ・ラマ法王に池上彰さんと「生きる意味」について聞いてみよう』(講談社)は、フツーの人々から寄せられた50の質問にダライ・ラマ法王が答えるという内容。最初の質問は「生きる意味って何ですか?」(21歳女性)。直球の質問に対する法王の答えはシンプルだ。

あなたは人生の目的は何だと思いますか?
私はいつもみなさんにこう言います。「そんなに哲学的に考えずに簡単に考えなさい」と。「幸せな人生」、これが私たちの生きる目的だと思うのです。私たちの人生は希望に基づいています。希望とは「何かいいこと」です。私たちは「何かいいこと」を期待し、イメージして暮らしているのです。希望を持つことで私たちの人生は維持されていると言ってもいいでしょう。
だからこそ、私はみなさんにこう答えるのです。「人生の意味は幸せになることだ」と。

・・・日常生活でついつい「何かいいことないかなー」とつぶやいてしまうのも、人間やってる以上仕方ないことみたいですな。さて「人生の意味は幸せ」となると当然、次の質問は「幸せに生きるとはどういうことですか?」(21歳女性)となる。これに対する答えも特に驚くようなものではない。

幸せな生活をおくるために最も必要なことは何でしょうか。
富や名声などは心に平和をもたらすものではない。大切なことは、常に正直であり、真実であるということです。あなたが常にオープンであり、あるがままであれば、周りの人との信頼が生まれます。信頼が生まれると本当の友情が生まれます。みなさんは、信頼のおける仲間や友人に囲まれていればどう感じますか。経済状況が大変であっても、暮らしている環境がどうであろうと、みなさんはきっと幸せに感じられると思います。

・・・50年も生きると自分も、人生の意味を難しく考えても仕方がない、と思うようになった。結局、誰かと何かを共有できればそれで充分だろう、と。それも長期的持続的に共有できればなお良し。しかし残念ながらそのことを自分は実現できてないのだな。しかもどうしたら実現できるかも分からない。何とも忸怩たるものがあるのだった。はあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月15日 (水)

東アジアの「歴史と反復」

「現在の東アジアの情勢は、日清戦争の直前の状況に近い」というのは柄谷行人。「中央公論」1月号掲載の、佐藤優との対談「国境を越える革命と宗教」からメモ。

柄谷:現在の東アジアの情勢は、日清戦争の直前の状況に近いと改めて感じています。現在の朝鮮半島の南北対立と同じく、日清戦争の直前に朝鮮内部には対立があって、それが戦争の直接の原因となっています。一方を清朝が支援し、他方を日本が支援するというかたちで、日清戦争が起こった。その結果、台湾が日本に譲渡された。いまの東アジアの地政学的構造は、この時期に始まっています。だから、現在を考えるとき、120年前を想起したほうがよいと思うのです。現在、中国は清朝のような帝国になっているし、北朝鮮は李朝みたいになっている。

佐藤:柄谷さんの120年周期説は非常によくわかります。ところが、これを勘違いすると、みんなが柄谷神学かなと思いだす。そうすると、「どうも柄谷も年のせいかな、最近相当いかれてきたな」と、ポストモダン系の人たちは見かねない。

柄谷:僕はこの先に世界戦争がありうると思っているのです。過去には、日清戦争から20年後に第一次世界大戦があった。

佐藤:戦争は起きますよ。

柄谷:いざ戦争が起こると、人々はそれに呑み込まれます。そのようなことを避けるためには、歴史を知っていないといけない。

佐藤:それはまったく賛成です。ですから、いま日本は品格のある帝国主義国になったほうがいいと思う。品格のある帝国主義国というのは戦争をしないというのが、私の理屈です。いいんです、言葉はどのようなものであっても。実践的な結論が柄谷さんと同じならば。

・・・両者の発言は、面白いといえば面白いけど、分かるような分からないような話でもある。まあ自分も若い頃にポストモダンの言説に高揚感を覚えていた向きではあるが、最近の柄谷行人の方向性はよく分からない。「資本とネーションとステートを超えて世界共和国へ」とか言われても、「はあ?」って感じ。年のせいよりも、勉強のしすぎで「いかれてきた」のかいな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月14日 (火)

信長の実存的感性

「中央公論」1月号掲載の対談「未曾有の人間 信長の感性を見よ」では、石原慎太郎と秋山駿が、文学者らしい言葉で織田信長を語っている。以下にメモ。

石原:僕はいつか松永弾正を書こうと思っていたけど、もう時間がなくなっちゃったんですがね。松永は信長を見て「俺だって、もう少し若けりゃ、あそこまで行けた」って思っていたと思う。

秋山:松永には信長の「天下布武」の思想がわからなかった。松永だけじゃなくて、追放されるほかの家臣、重臣にも信長の「天下布武」というものが伝わっていない。信長の「天下布武」というのは、いま現に自分が生きている、今日というものの総体の改変、「現在」の徹底的な改変です。

石原:信長のすごさというのは、神や仏、天皇など絶対的な価値を認めなかったことです。非常に積極的なノンシャランス。既存のものに対するノンシャランスということは、結局、新しいものを自分で作っていかざるをえませんからね。

秋山:なぜ現代人が信長に惹かれるのか。戦争のときも信長は意外と格好がいいし、戦いぶりを見てもすごく気分のいいものです。それの根本にあるのは「美意識」で、美というものをちゃんとよく注意して持っていた。美が感性の中に備わっていますよ。

石原:僕はやっぱり信長は典型的な実存主義者だったと思いますね。それに尽きるんだな。だから、自分の全責任、自分の人生を懸けてでも思ったことをやるという、そういう意志の強さ、生きざまの強さというのに、いまの日本人は惹かれるんだ。

・・・善し悪しは別として、やっぱり文学者は、信長という「天才」を「ロマンチック」に語るのだな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月13日 (月)

村上龍は意外と健全

村上龍のエッセイ集『逃げる中高年、欲望のない若者たち』(KKベストセラーズ)を読んだ。サッカーと音楽を語るときは例外的に熱を帯びるけど、全般的に淡々と素っ気無い調子で世の中に対する苛立ちを吐露している。

理由が示されていないので、なぜかは分からないけれど、村上龍は「自殺は非常によくないことだと思っている」とのこと。文学は自殺に始まり自殺に終わる(極論)、くらいに思ってる自分から見ると、とっても健全だし意外感があった。

かつて村上龍は、合コンや美容整形やブランド信仰や援助交際などの社会風潮に対して批判的だった。しかし今では、それらの行いに感心できないのは変わらないにしても、うつ病になったり、自殺するよりはましだと考えるようになったという。つまり、それだけ今の世の中は酷い状態だと、村上龍は認識している。以下引用。

「経済の衰退が長く続き、給与は低く抑えられたままで、未来は今よりもよくならないという予感が世の中全体を覆うような時代には、心身の病気にかからないとか、自殺を考えるような精神状態を作らないことが優先される」。

ところで村上龍は、「いくつになっても母親の言うことは聞くようにしている」という。なぜなら、「全部ではないが、真実が潜んでいるからだ」。これもまた健全というか微笑ましいというか・・・既に母がこの世にいない自分は、ちと羨ましさを感じたりする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月12日 (日)

沖縄に米軍基地は必要か

昨夜NHKで日米同盟をテーマにした討論番組を放映していた。眺めていて思うのは、日本は「独立国家」として、外交・経済の中に軍事・安全保障を位置づけながら、自主的な戦略を打ち出さないといかんよね、てなことだ。

村上龍のエッセイ集『逃げる中高年、欲望のない若者たち』に、普天間問題に絡んだ意見があるのでメモしてみる。

わたしは、普天間に限らず沖縄の米軍基地が、どういう事態を想定して存在しているのかわからない。

沖縄に米軍基地が必要だと思っている人の多くは、日本を守ってもらうためと考えているかも知れない。

『半島を出よ』という作品を書いたときに、日米安全保障条約を読んでみたが、「在日米軍は日本防衛のために日本本土で戦う」などとはいっさい書かれていなかった。

北朝鮮が日本に侵攻してくるときは、当たり前のことだが、まず自衛隊が戦うのだ。

『半島を出よ』の取材では多くの自衛官から情報を得たが、誰もが口をそろえて、正規戦では北朝鮮など恐れるに足らないと主張した。沖縄の米軍・海兵隊が日本防衛のために駐屯していると思うのは、自衛隊に対して失礼な話だと思う。

沖縄にアメリカ軍基地が本当に必要だったら、沖縄の人たちが何と言おうとこれまで通り我慢してもらわなければならないし、必要ではないのだったら、アメリカがどう思おうとそう主張しなければならない。

アメリカは、台湾海峡有事に備えて中国を牽制するために沖縄に基地を残したいだろうか。アメリカは、経済・軍事大国となった中国との協調の道を探っている。戦争は経済的な利害の対立で起こる。だが米中の経済関係は利害対立しているどころか、相互補完的だ。

・・・というようなことで村上龍は、沖縄の米軍基地は日本にとってもアメリカにとっても必要ない、と淡々とした調子で書いている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月 6日 (月)

2010年師走のスカイツリー

先頃、高さ500メートルを超えた東京スカイツリー。そういや、私は今年の正月にスカイツリー詣でに出かけたんだった(正月3日の記事)。その時の高さは254メートルだったから、一年で倍に成長したのだな。ということで、一年の終わりにまたスカイツリーの写真をアップする気になりました。

P1040191_4

隅田川にかかる清洲橋から見たスカイツリー。2010年12月4日撮影。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月 5日 (日)

八王子城へ行く

今日は八王子城に出かけた。まずは高尾駅まで行かなきゃいけない。自分は東京の一番東の端っこに住んでいるので、高尾という何だか遠いなと感じるのだが、とにかく東京駅まで行って中央線快速に乗れば1時間ちょっとで着くので、実際には無茶苦茶遠い、という訳でもないな。

P1040200

高尾駅の北口、1番乗り場から出るバスに5、6分乗って、「霊園前」で下車(運賃180円)。進行方向に歩いてすぐ、信号のある角を左手に曲がって真っ直ぐ、20分程で八王子城跡管理棟に着く。管理棟には説明板、トイレ、パンフレットや100名城スタンプがあり、ガイドさんも常駐。ここから右手に行くと城山の登山口、左手に行くと居館跡。まずは管理棟から徒歩10分、御主殿跡と呼ばれる居館跡を見学。御主殿に渡る橋、入り口の石垣や門などが復元されている。写真は復元された冠木門(かぶきもん)と御主殿跡。

P1040217

散策の後、管理棟に戻り、次は城山に向かう。途中、新道と旧道に分かれるが、金子曲輪を通る新道を選択。石の多い山道を上ること約40分、山頂の八王子神社に到着する。そこからもう少し上ったところに、こじんまりした本丸跡がある。写真は神社に隣接する松木曲輪の紅葉。

ここからさらに奥に向かうと詰城があるということだが、そこまで行く根性は無く、反転撤収。帰りは旧道を下ってみたが、細い山道がひたすら続くので、どっちかといえば新道の方が歩いていて変化のある道かと。

八王子城の城主は北条氏照。元亀から天正年間の初め(1570年代)に築城が開始されたと考えられている。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐軍の攻撃を受けて一日で落城した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月 4日 (土)

「龍馬伝」最終回再放送

これは酷い。NHKは何を考えてるがじゃ。ていうか、何も考えてないぜよ。

と、特に坂本龍馬ファンでもない私も激怒するほかなかった、あの11月28日大河ドラマ「龍馬伝」最終回本放送の際に選りにも選って龍馬がまさに切られる場面で入った選挙当確速報。

何だかすっきりしない気分が残ってしまったので結局、特に龍馬ファンでもないのに、今日の再放送を見てしまったのだった。

最終回は拡大版75分、何だかんだと1時間近く引っ張って「その時」が訪れるのだが、龍馬の最期がどうこうというよりも、もっと素朴に、殺されて終わる人生ってやだな~と恐れと哀しみを感じさせた。

番組ホームページで中岡慎太郎役の上川隆也は、「たとえお芝居でも切られるのは怖いですね。この作品がそう思わせるのかもしれませんが、今回はすごく怖い」と語っていたが、実際に龍馬、中岡とも血まみれになった暗殺シーンを見ると、確かにこれは俳優さんもホントに死んでしまうような気持ちになったんじゃないだろうか。

しかし藤吉が切られるところを見たかったのに。何じゃそりゃ。でも、階下で切られてドタバタしたので、龍馬が「ほたえな!」と言ったのだから、やっぱ必要な場面だろうと。その前に暗殺者が侵入する際、近江屋の外から「中岡の家内です」と女の声がするのは、何これ?って感じ。史実どおりでなくても、ドラマの演出としてありだなと思えればいいんだが、これは何だかヘンだった。ほかにも史実として伝えられる、「こなくそ」も「脳をやられた」もないのか。う~ん、どうなんだろう。

ドラマは、龍馬を殺したい人はたくさんいる、と思わせぶりながら、暗殺実行者は通説の「見廻り組」で作られている。龍馬暗殺の黒幕は討幕を目指す薩摩だ、という話もあるけれど、命を奪わなければならないほど、龍馬が邪魔な存在だったとは思えない。何にしても龍馬、油断というか不覚というか。桂小五郎のように逃げ切れれば良かったのに。

ドラマの中で龍馬は、武士も大名も無くなった後に、異国と堂々と渡り合う日本人が残る、と言い切っていた。この龍馬さんが今の日本人を見たら嘆くぜよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »