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2010年5月17日 (月)

「桶狭間の謎」(歴史街道)

雑誌「歴史街道」6月号の特集は桶狭間の戦い。今から450年前の永禄3年(1560)5月19日、桶狭間で何が起こったのか。4人の研究者の説からメモする。

信長の勝因は、親衛隊を手足の如く使った機動力のすばらしさにあると思う。信長自身が馬廻を直接に指揮して、果敢に突撃したからこそ、この勝利が得られたのである。もう一つの勝因は天候である。「熱田明神の神軍」と当時から評された通り、西方からの強風と大粒の雨が実にタイミングよく起こってくれた。これは信長にとって、幸運以外の何物でもない。
一方、今川軍の敗因の一つとしてあげなければならないのは、せっかくの大軍が分散していたことである。(谷口克弘氏)

信長の動きは今川方の意表を突いた可能性がある。それは信長が二千足らずの旗本勢だけで最前線に躍り出てきたことにあるのではないか。信長の戦法は通常の戦国合戦の常道から逸脱している。
季節はずれの雹により陣列が乱れたのに加えて、総大将自ら陣頭に立った信長の予想外の行動に、今川方が面食らって下から上への情報伝達が作動せずに、対応が後手後手に回った感がある。
今川軍は大高城方面を志向していた。そこを、信長勢は今川方の右側背から攻め上り、義元本陣に殺到したという推定も可能かもしれない。(桐野作人氏)

「おけはざま山」の北方(義元本陣の右翼にあたる)から突如として信長軍の急襲を受けた今川方はたちまち大混乱に陥った。おそらく今川兵は、すでに信長軍の突入を受ける前に、鑓やのぼりなどは落雷を避けるために手放し、木陰に避難していたものと考えられる。これでは信長軍の急襲に対してなす術もなかったろう。
当時、総大将は馬廻りに守られて第一線の後方で指揮を執るのが通例であった。しかしこの時、信長は先頭に立って義元本陣に突入していた。そのため、咄嗟の情況判断によって速やかな対応ができ、義元を討ち取るという思わぬ大戦果を上げることができたのであろう。
ただし、信長の義元本陣に対する急襲が成功するには、信長が「おけはざま山」に義元の本陣があるという確証を得ていなければならない。18日夜、その情報を信長にもたらした男こそ、簗田出羽守であったろう。(梶野渡氏)

今川軍の兵力は二万五千とされる。しかし、正規の武士は一割程度で、残りの九割は農民兵だったのではないか。決戦時に信長が率いたのは、三千程度と思われる。だが今川軍とは異なり、信長自らが鍛え上げた馬廻りを中核とする精鋭部隊であった。
中島砦に入った信長は、「今川義元、おけはざま山で休息中」との情報をすでに得ていたと考える。そして、義元陣地の情報をもたらした人物こそ、やはり簗田出羽守ではなかったか。確かに『信長公記』には、簗田が信長に情報をもたらしたとは記されていない。しかし情報を重んじる信長が、義元の本拠地を把握することなく、寡兵で攻撃を開始することは考えにくい。(小和田哲男氏)

・・・天の時、地の利、人の和。窮屈な地形に展開した今川の大軍、その本陣の在りかを察知した織田の精鋭部隊が一丸となり、風雨に紛れて前進、一気に突入する。結果的に「奇襲」になった、というイメージだろうか。信長は幸運にも恵まれて、限られた自分の戦力を最大限効率的に活用することに成功した、ともいえる。

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