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2010年4月12日 (月)

聖書、読めないっす

雑誌「PEN」の特集「キリスト教とは何か。」そして『西洋絵画のひみつ』(朝日出版社)をざっと読んで(3/20付記事)、「聖書」にちょっと注意が向いたところに、岩波新書で少し前の新刊に『聖書の読み方』(大貫隆・著)があるのを見つけた。内容は、著者が学生たちに行ったアンケート調査(聖書に感じた戸惑い)の分析と、それらを踏まえたうえでの聖書を読む際の著者の提案となっている。

なぜ聖書は読みづらいか。「はじめに」の中に記された、その理由は概略以下のような感じ。第一の理由。聖書は、初めから終わりまで通読する読者を想定していない(文書の配列順は公の礼拝の場での朗読と密接に関係していた)。第二、聖書では原則的に神が主語、要するに基本的に神様の話である。第三は、キリスト教的な「正しい」読み方があるという先入観を、一般の読者は多かれ少なかれ抱いている。

で、著者の5つの提案。
1 キリスト教という名の電車――降りる勇気と乗る勇気
2 目次を無視して、文書ごとに読む
3 異質なものを尊重し、その「心」を読む
4 当事者の労苦と経験に肉薄する
5 即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる

キリスト教的な読み方を理解すると共に相対化する、神の話を書いている人間たちの経験と思考を理解する。そういう態度で聖書に向き合うのが望ましいというのは分かる。処女懐胎やら死者の復活やらの荒唐無稽な話も、イエスの弟子たちの心の「真実」と受け止めることも可能だろう。しかしながら、そもそも全体の構成が通読するためのものになってないというのは、根本的にアカン。聖書は結局、書物としては欠陥品である。まあ、提案のように、「文書ごとに読む」のもありかも知れないが、じゃあどっから読む?っていうのでまた迷うし・・・まあ、やっぱり自分は読まないという感じです、聖書。

しかしなんで旧約と新約は、同じ「聖書」という書物の前編と後編?という感じになっているのかな。旧約はユダヤ教聖書で、新約はキリスト教聖書として、全く別物じゃいかんのだろうか。いちおう同じ神だから?どうもよく分からん。

聖書を読むことは「新しい自己了解」の経験だと著者は強調するのだが、それは特に聖書に限らず優れた書物に備わるチカラだろうし・・・聖書の読みづらさを解きほぐしたうえで、「自主独立で読む」ことを提案して、読者が聖書に取り組みやすくするのが著者の目論見なんだろうけど、ワタシについては逆効果でした。(苦笑)
ていうか、ワタシは聖書を読まない理由を探していたのだと気付きました。(また苦笑)

雑誌「考える人」の最新号でも、聖書特集を組んでいたけど、何と言うのか、今さらインテリさんの聖書体験を読んでもしょうがないなあと思って、買わなかった。ていうか1400円は高い(苦笑)。そちらに比べれば、聖書に対する素朴な疑問という、目線の低いところから出発するこの本は、自分のような日本人(非西洋人)にして非キリスト教徒には信頼できる作り方だった。

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