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2009年12月 1日 (火)

「韃靼の馬」からメモ。

現在、日経新聞朝刊の連載小説は「韃靼の馬」(辻原登)。江戸時代の対馬が舞台。この一週間程は物語の進行が小休止して、朝鮮との外交における豊臣の戦争、徳川の和平、そして「柳川事件」について触れられていたのでメモしてみる。

対馬の宗氏は、日本を代表して朝鮮と交渉する唯一の窓口だったが、豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮侵略が、この関係を一挙に粉砕する。秀吉の窮極の野望は、明の征服にあった。

日本の朝鮮侵攻がはじまると、朝鮮の宗主国、明は援軍を送って参戦し、戦争は泥沼化してゆく。対馬島主宗義智(よしとし)は、秀吉の重臣でキリシタン大名小西行長とともに和平工作に動いた。義智の妻マリアは行長の娘。二人は、朝鮮の背後にいる明と交渉を開始する。努力が実を結んで、慶長元年(1596)、明使が日本にやって来る。彼らは大坂城で秀吉に拝謁した。

明使は、冊封のための書類と「日本国王」印(金印)を秀吉に下賜しようとする。明を征服するつもりではじめた戦争であったから、秀吉は怒って、彼らを追い返した。こうして和平工作は失敗したが、慶長三年(1598)、戦半ばで秀吉が死ぬと、徳川家康、前田利家らは彼の死を伏せて、朝鮮半島に展開する日本軍の撤収作戦を開始した。

戦争が終わると、対馬島主宗義智はすぐに朝鮮との国交回復に動いた。戦役で連れてきた朝鮮人俘虜の送還を積極的に押し進めたことが朝鮮側の怒りを柔らげ、ようやく交渉に応じる姿勢をみせはじめる。関ヶ原の合戦を制し、ほどなく征夷大将軍に就いた徳川家康は、国内政治の安定を最優先課題に掲げる。朝鮮との講和は、そのためにも必要だ。

朝鮮政府から対馬に講和の条件が届いた。家康のほうから「日本国王」として、朝鮮国王に国書を送る。明の冊封体制下にある東アジアの外交慣習では、先に国書を差し出すことは相手国への恭順を表明することになる。家康が応じるはずもない。藩主宗義智と家老柳川調信(しげのぶ)は、大きな博打を打つことにした。国書の偽造である。国書が、対馬の使者によって朝鮮政府に届けられたのは慶長十一年(1606)十一月。

翌年、朝鮮政府は日本へ使節団を派遣することを決めた。慶長十二年(1607)四月、彼らはやってきた。総勢五百名余の大使節団である。対馬の悲願はかなったのだが、問題は使がもたらす朝鮮側の国書である。今度は、朝鮮の国書を改竄しなければならなくなった。五月六日、将軍秀忠謁見の当日、使が登城途中、家老柳川調信が袖の中に隠し持った偽書を、すきをみて取り替えることに成功する。

両国の講和はなった。これに伴い、釜山の豆毛浦に正式に倭館が設けられ、対馬藩と朝鮮政府のあいだに己酉約条が結ばれた。

・・・まさに綱渡りの国交回復。この後、将軍家光の代になって、柳川氏が宗家に取って代わることを目論んで、国書偽造を暴露・告発した。しかし家光は、朝鮮との外交は引き続き宗氏に任せるべきと考えて、柳川氏を罰することに決め、宗家はお咎めなしとなった。これが「柳川事件」。

豊臣の戦争でも、徳川の和平でも、朝鮮と日本の間で、対馬は苦労が絶えなかった。宗義智、大変だったなあ。

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