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2009年12月26日 (土)

映画「キャピタリズム」

マイケル・ムーア監督の最新作「キャピタリズム マネーは踊る」を観た。このドキュメンタリー映画は結構情報量が多くて、自分的には消化不良の部分もあるけど、とりあえず印象の雑記。

かつてアメリカの資本主義は、人々が豊かになる原動力だった。しかし今では貧富の差を拡大させる原動力だ。リーマン・ブラザーズ倒産が引き起こした金融危機への対策として、7000億ドルという巨額の公的資金が用意されて金融機関は救われたが、庶民は危機が招いた不況のため失業したり、住宅ローンが払えなくなって差し押さえられた家から追い出されたりする、という状況は続いている。

シティ・グループのレポートは、今やアメリカは、1%の富裕層の富が、95%の庶民の富の合計を上回り、これはもはや民主主義社会ではない、という認識を示している。しかし95%以上の人が投票権を行使すれば、社会は変えることができるはずだ。

だが、今回の危機に対応する金融機関救済法案は、下院で一度否決された後、NY株の暴落と政治工作を経て、結局は可決されることになった。政策当局には多数のウォール街関係者が入り込んでいたので、彼らの意向が強く反映されたと見てよいだろう。

かつてルーズベルト大統領が語った理想の社会は、いまだ実現されていない。今の資本主義の不当性に対して、我々は団結して闘っていくしかない。

・・・この映画が訴えているのは資本主義の悪と民主主義の回復、というか、まずは正義を実現せよ、ということかな。

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2009年12月25日 (金)

第二次世界大戦・カラー版

今週の月曜から水曜まで、深夜に放映されたNHK「よみがえる第二次世界大戦」全3回を録画して見た。夏場のBS番組を地上波で「再放送」ということらしい。第二次世界大戦当時の白黒フィルムを、最新のデジタル処理を行いカラー化。今の技術って凄い。ドイツのポーランド侵攻、フランスの敗北、ロンドン空襲、バルバロッサ作戦、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル、スターリングラード、ノルマンディ上陸作戦、ベルリン陥落、原爆投下・・・戦争の経緯が1回50分の番組、「ヒトラーの野望」「日米開戦」「人類の“悪夢”」3本に、コンパクトにまとめられている。

歴史の出来事を振り返ると、そこには華々しい「成功」もあれば、予想外の「誤算」もあるので、どうしても「もし~だったら」という事を考えてしまう。事態の展開に大きな影響を与えた要因で、気になったことを雑記してみる。

・ポーランドに侵攻しても、英仏は静観するだろうと思ったヒトラー。ドイツが攻めてくるとは思わなかったスターリン。(後から見ると不思議な気もするけど)
・ドイツ戦車部隊(爆撃機の協力による電撃戦)と、日本の空母艦隊(海戦の主役は戦艦から航空兵力に)は新しい時代を開いた。(それはそれで大したもんだ)
・イギリスの強さ。高性能レーダー、スピットファイア戦闘機、そして空襲下におけるロンドン市民の不屈の精神。
・もしソ連赤軍にT34(WWⅡ最優秀戦車)が無かったならば。
・もし真珠湾に米空母がいて被害を受けたならば・・・等々。

独裁者。現人神。神風特攻隊。玉砕。都市の無差別爆撃。人種差別と強制収容所。戦争の記録を見ると、これ本気でやってたんだ、と思う。これが本気なら狂気というしかない。20世紀前半の世界は、狂気が支配していた。それは、自分の親世代までが経験した紛れもない現実だった。

今年は春に「ワルキューレ」(ヒトラー暗殺未遂事件)、夏に「意志の勝利」(ナチス党大会)、冬に「カティンの森」(ポーランド将兵大虐殺)と、WWⅡ欧州関連の映画を3つ観てるけど、この番組でも「ワルキューレ」「カティンの森」は当時のフィルムが挿入されていたし、「意志の勝利」はその一部がカラー化されて使用されていた。「意志の勝利」は来年1月にDVD商品が販売予定だが、どうせなら全篇「カラー版」も作ると面白いだろうな。

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2009年12月21日 (月)

日本国債が暴落する日

ギリシャの格下げは、日本にとって対岸の火事ではない。本日付日経新聞コラム記事「核心」(日本国債いつ火を噴くか)からメモ。

財政赤字の拡大から国債が格下げされたギリシャや、格下げ懸念のあるスペインで最近、外国資本が国債から逃げだし、長期金利の上昇を招いている。

日本は外貨建ての国債を出していないし、国債の93%は国内の金融機関や個人が持つ。だから両国のようにはならない、というのが常識的な見方だ。その日本も国際的な投機と無縁ではない。「海外のヘッジファンドは日本を“新衰退国”とみて、先物売りなど国債を持たなくてもできる方法で、利益をあげる機会をうかがっている」(国際金融コンサルタント)。日本が衰退国かどうかはともかく、国内だけで国債を消化できなくなる日が近づいているのは事実。

個人の金融資産は、個人負債を除き1065兆円。一方、国と地方の長期債務残高は825兆円で今後も増える。2010年代中には個人資産を全部充てても公債を買い切れなくなる。また家計貯蓄率は1990年代末まで10%を超えていたが、07年には2.2%にまで下がった。貯金を取り崩し生活費に充てる高齢者の割合が増えたからだ。

「国債金利は早ければ11年度に上がり始める」(シンクタンク研究員)。その金利上昇を抑える直接の手だては国債を外国人投資家に売るか、日本銀行による購入を増やすかだ。しかし「外国人投資家の保有比率があまりにも急激に高まると、日本にとって不安定性が増す恐れがある」(格付け会社の日本国債担当者)。日銀の国債買い入れ拡大ももろ刃の剣。やり過ぎれば制御不能のインフレや金利上昇を招く。やはり財政危機を回避するための本道は財政の健全化と、経済成長を促す政策を進めることである。

日本の将来を予想。財政再建は進まず、歳出の半分程度を国債に頼り続ける。日銀は大幅な国債購入に乗り出す。インフレ懸念や財政悪化懸念が高まり、長期金利も急騰する。財政赤字を減らせないなら、インフレという、形を変えた増税によって政府の債務を実質的に減らすしかない。それは世界の歴史が教えるところである。

・・・「NDC」そして「PIGS」。新たに「衰退国」デビューした日本の行き着く先は、やっぱり「ブタの国」の仲間入り?

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2009年12月20日 (日)

駿府を歩く

今日は駿府、要するに静岡、を歩いた。例によって「JR東海さわやかウォーキング」である。

静岡駅の隣の東静岡駅からスタート。護国神社から谷津山を上って下りて、市街地を通って、駿府公園に至る。そこから北に向かい、臨済寺から折り返して南下、浅間神社を通って、静岡駅にゴールする、というコース。天気はよく晴れてたけど、いやもう風は冷たいし、鼻水たらしながら歩いてた。(苦笑)

駿府公園は、駿府城の跡地。駿府城といえばもちろん、将軍職を退いた徳川家康が大御所として居住した隠居城。今はもう、城跡の風情も余り残っていない、だだっ広い公園だけど、東御門・隅櫓など一部の建物が復元されている。

P1030376 臨済寺は、今川氏の人質となった少年・家康(竹千代)が、勉学した寺とのこと。お寺の門のところにある説明板には、概略以下のように書かれている。
「臨済寺は、今川義元の軍師太原雪斉が開山した。この時代が今川家の最盛期でもあった。徳川家康は竹千代時代、今川家の人質として、この太原雪斉から文武両道を学んだ。雪斉は弘治元年(1555年)10月10日、60歳でこの世を去った。雪斉の没後5年の永禄3年5月、桶狭間の合戦で義元が敗死。今川家は雪斉によって興り雪斉を失って衰亡したといえる。」

織田が今川を滅ぼした後、豊臣を経て、今川のもとで学んだ家康が天下を取る・・・何となく因果は巡る風車という感じ。

P1030380 浅間神社から静岡駅に向かう浅間通りの中程に、山田長政の生家跡という説明板があった。江戸時代初めに、タイの日本人町で活躍した、そういう人いましたねえ。駿府の出身ですか。胸像も置かれていたけど、商店街という環境の中で、そこはかとなく場違い感を醸し出していた。しかし、こういう胸像を見ると、「新春かくし芸大会」のハナ肇を思い出してしまう。(刷り込みだよ。笑)

家康の駿府入りからその死まで(1607~1616)、大御所時代は10年にも満たないけれど、確かにその時、駿府(静岡)は日本の「中心」だったと言えるのだろう。

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2009年12月19日 (土)

スターリンとベリヤ

丸の内の丸善で、『スターリン秘録』(斉藤勉・著、扶桑社文庫)という本が目に付いた。ぴかぴかの新刊でもない(奥付2009年6月30日)のに、なぜかカバー表紙を見せる格好で棚に置かれていて、何しろ自分はといえば、映画「カティンの森」を観た後だったものだから、とりあえずという感じで購入。で、そのポーランド兵粛清指令の部分。

40年3月5日、内務人民委員(内相)、ラブレンティ・ベリヤはスターリン宛に「厳秘」と記した「ポーランド兵銃殺承認要請書」を送っていた。そこには、スパイや警察官、軍人は階級別に仕分けし、銃殺人数を明記したリストがあった。この表紙にスターリンは「ザ(承認)」とメモを走らせて署名した。
43年4月、ソ連に侵入していたドイツ軍はカチンの森で四千人を超えるポーランド将兵の虐殺死体を発見したと発表する。しかし、現実には、カチンの森の犠牲者もスターリン粛清の一部にすぎず、その四倍ものポーランド将兵がソ連各地の収容所、監獄で銃殺されていたのだった。

内務人民委員部は、後のKGB(国家保安委員会)。で、このベリヤという人がまた恐ろしいほど暗い男なんだな。同書の巻末にある「人名録」から引用。

ベリヤ、ラブレンティ 1899~1953
ソ連の政治家。1917年ポリシェビキに入り、ロシア革命後、国内戦期にカフカスの秘密警察で反革命取り締まりにあたった。同郷人のスターリンにゲーペーウー(国家政治保安部)長官に抜擢され、30年代の血の粛清で指導的役割を果たした。38年内務人民委員、戦後副首相となった。スターリンの死の直後、権力奪取のためクーデターを計画したが失敗、ベリヤ裁判の結果、銃殺された。スターリンの死亡はベリヤによる陰謀だとの説は未だ消えない。

スターリンが「怪物」なら、ベリヤは「悪魔」ってところか。彼らは戦勝国の指導者だったために、裁かれることのなかった戦争犯罪人だった。

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2009年12月17日 (木)

「 P I G S 」

ユーロの対ドル相場下落について、本日付日経新聞からメモ。

(ユーロに対する)不安の発火点となったのはギリシャ。2009年の財政赤字は国内総生産(GDP)比で12%超に達する見通しとなり、今月8日、一部格付け会社がギリシャ国債を格下げした。
これを受けて市場では多額の財政赤字を抱える国を不安視する動きが続いている。不動産バブルが崩壊し、失業率が20%に迫るスペインも国債格下げが取りざたされる。ポルトガル、イタリアを含めたPIGSと呼ばれる南欧諸国の経済基盤の弱さが懸念されている。

PIGS
ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインの南欧4ヵ国の頭文字をつないだ造語。アイルランドを加えてPIIGSと
呼ばれることもある。金融市場が混乱した2007年以降、不動産バブルが崩壊し失業率も上昇した。08年半ばごろから欧米メディアに登場した。当該国には「差別的な名称」と反発する声もある。

・・・そりゃそうだよな、「ブタ」呼ばわりかい、ってなるよ。しかし正直、この言い方は初めて知った。少しネットを眺めてみると、確かに早い人は去年から使ってるんだ、へぇ~。

古代ギリシャ、ローマ帝国、中世のスペイン・ポルトガル王国も、今は昔(または大昔)の話で、21世紀のヨーロッパではお荷物扱いかあ・・・。

しかしながら、「多額の財政赤字を抱える国」と言われれば、日本だって他人事ではない。そうでなくても、新たに「衰退国」デビューを果たした国と、一部では見なされてるし。下手すりゃ「ブタの国」の仲間入り?

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2009年12月15日 (火)

ぺイリン、今も人気(らしい)

昨年の米大統領選挙で、共和党の副大統領候補に指名されたサラ・ペイリン。自伝本のサイン会には各地で数千人のファンが押し寄せるなど、保守派のスターぶりは健在とのこと。本日付日経新聞国際面のコラム記事からメモ。

ワシントン・ポストの11月の世論調査で共和党を代表する指導者は誰かを聞いたところペイリン氏(18%)が最多だった。マケイン上院議員(13%)やハッカビー前アーカンソー州知事(7%)は昨年の大統領選の負け組。2012年の有力候補になりえない。

ペイリン氏の行動には、政治家として疑問符が付くものも多い。党のカネで高級服を買い集め、政策論は迷走。今年7月には、はっきりしない理由でアラスカ州知事職を放り出した。

ペイリン氏の品のない語り口は笑いのネタにされることが多いが、共和党の支持基盤でもある白人貧困層にはたまらなく魅力的らしい。決めせりふの「You betcha」は流行語になった。意味は「当然よ」だが、語感は「あたりめ~よ」だろうか。

自伝の題名は「Going Rogue(ならず者で行く)」。既成政治への反発を吸収するため、アウトサイダーを名乗るのはよくある手法で、オバマ大統領も使った。だが、いくらライフル銃片手にシカを狩るのが趣味とはいえ、これでは西部劇に出てくるアウトローだ。

2012年の大統領選へ突っ走るのか。米政界は彼女の動向に神経をとがらせている。

・・・女だてらに保守派の荒くれ者を標榜するペイリンちゃん。まあさすがに次の大統領、なんてことにはならないと思うけど、どこの国でも政治の世界というのは、部外者には理解しにくい動きや流れがあるもんだな。

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2009年12月13日 (日)

雇用拡大にはデフレ脱却

「中央公論」1月号に掲載されている原田泰エコノミストの論文「格差是正で成長を目指せ」から、以下にメモする。

日本の本当の問題は、所得が伸びていないこと、すなわち成長率が低下していることだ。しかし、成長率を引き上げるのは難しい。規制緩和、民営化などの構造改革は成長率を引き上げるはずだが、効果はそれほど明白ではない。

成長産業を選ぼうという発想もある。政府が成長力の大きい産業に資金を投下して、成長産業を育成しようというのだ。しかし、これは社会主義の発想であり、社会主義が失敗したように、成長産業を選ぶという試みも失敗している。一橋大学の竹内弘高教授は、過去の20の成功産業(半導体、VTR、ファクシミリ、家庭用オーディオ機器、カーオーディオ、産業用ロボット、家庭用エアコン、炭素繊維、カメラ、テレビゲーム、自動車・・・)において、政府の役割はまったく存在しなかったと書いている。

結局のところ、どうやったら成長率を高めることができるのかは実はよく分かっていない。ポール・クルーグマン教授は、生産性が「長期的には・・・・・・ほとんどすべてだ」が、できることは生産性が上昇するように「せいぜいが祈るくらい」と書いている。
ただし、中期であれば、かなり確実に成長率を引き上げることができる。それは雇用を拡大することだ。

(そのためには、)まず(実質賃金を上昇させて労働投入を減少させる)デフレから脱却することが重要である。最低賃金の引き上げ、派遣労働の禁止、正社員での雇用を義務付けることなど、無理やり賃金を引き上げることになる政策は雇用を縮小させる可能性が高い。むしろ、デフレから脱却することによって、雇用を拡大することができる。

・・・メディアでは「成長戦略」とか簡単に言うけど、じゃあ政策で何をやれば良いのかというと難しい。何しろ「産業政策」はほぼ無効だし、生産性を高めるには「祈るくらい」しかない(苦笑)。デフレを止めるのは中央銀行に頼むとして、国の借金を増やす公共投資には限界があるから、結局政府にできるのは制度改革だけだろう。おとなしく「構造改革」を継続するしかないと思う。

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2009年12月12日 (土)

「カティンの森」事件

アンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」を観た。

う~む、やっぱり何の救いも無い映画だった。(しばし絶句)

購入したプログラムを見ながら、「カティンの森」事件について記す。

第二次世界大戦下、場所はソ連領内のカティンで1943年春、当地を占領していたナチス・ドイツが森の中に埋められた大量のポーランド将兵の遺体を発見。その数およそ4,000人。ドイツはソ連が行った捕虜虐殺であると発表したが、ソ連は否定。カティン奪回後は、逆にドイツの犯行であると主張した。戦後、ソ連の衛星国となったポーランドでは、「カティン」を語ることはタブーとなった。長い年月が過ぎて冷戦終了後の1990年、ようやくソ連は自国の犯行であることを認め、ゴルバチョフ大統領が謝罪。1992年にはロシアのエリツィン大統領が、スターリンの命令によって行われたことを言明した。

明らかとなった事実。1939年9月、ドイツに続きポーランドに侵攻したソ連は、翌1940年4-5月に、捕虜とした将校1万人以上を殺害して、遺体をカティン他3ヶ所に埋めた。

終戦直後のニュルンベルク裁判でも、カティン問題への責任追及は行われないまま終わったという。勝者の犯罪は裁かれることは無く、罰を受ける者は誰もいなかった。

映画の最後に、その虐殺再現場面が置かれる訳だが、次から次へ処刑というか殺害を機械的に「処理」していく無慈悲な有り様は、人間がどこまで残虐になれるのかという一例を示している。この事件は、スターリンという、猜疑心の強い粛清マニアにも思える男が最高権力者の地位にいたために起きた、のだろうか。確固とした理由も乏しいまま、組織的な大量殺人が行われたと見えるだけに、得体の知れない恐怖感を抱かせる。

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2009年12月11日 (金)

「外需」って何?

「外需」という概念は誤解に満ち満ちている。本日付日経新聞市況面コラム「大機小機」(「外需」概念の混乱)からメモ。

第1に、多くの人は「輸出」と「外需」を同義と見ているようだが、この二つの概念は全く異なる。経済成長率を内需と外需の寄与度に分けるときの「外需」とは「輸出マイナス輸入」であり「輸出」ではないからだ。

第2に、多くの人が、外需寄与度が高いことが「輸出にリードされた経済成長」であり、内需の寄与度が高いことが「内需がリードする経済成長」だと考えているようだが、これも誤りである。
外需とは「輸出マイナス輸入」なのだから、輸出が増えて内需があまり増えない場合であっても(つまり輸
出にリードされた成長であっても)、輸入が輸出と同じように増えれば、外需の寄与度はゼロとなり、一見「完全内需主導型の経済」となってしまう。
同様に、輸出が増えなくても、輸入が減少すると外需の寄与度が高くなるので、一見「輸出主導型の経済」となってしまう。

第3に、多くの人は、内需にリードされた経済成長を実現するために、輸出に力を入れず、内需の振興に力点を置くべきだと考えているようだが、これまた誤りである。
高度成長期には輸出が大いに増えて所得を生み出し、その所得が内需を拡大させ、輸入も増えた。輸出、内需、輸入の三者が同時に増加することこそが、真の意味での内需主導型の経済成長をもたらすのである。

・・・ということで、混乱を生む「外需」という概念は使わないほうが無難かも知れない。

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2009年12月 8日 (火)

戦争を語るということ

昨日の夜、NHK「日米開戦を語る」を見た。この夏場に放送した「海軍反省会」を改めて題材にして、半藤一利、澤地久枝、戸髙一成の3氏の話を聞くという内容。

昭和55年から11年間、130回以上行われた「海軍反省会」について、「生き残りエリートの会議」と評した澤地さんが、番組の終わり近くで、「せっかく反省会をやったなら、もう少し人間的痛みがあって欲しい。死んだ人たちも辛いだろうけど、残された人たちの悲しみが、この人たちには伝わっていない」と苛立ちを滲ませながら発言したのが一番印象的だった。

夏の番組を3回とも見た自分も、当事者たちの「反省会」に何となくすっきりしないものを感じていたので、その証言内容の評価とは別の角度から、澤地さんの言葉に頷けるものがあった。自分的には戦争を情緒的に語るのは基本的にバツなのだが、この「反省会」に参加した(血も涙も無い?)エリートたちに対する批判としてはアリだな、と。

この「反省会」の内容には貴重な証言も含まれているのかも知れないが、雰囲気としては何処にでもある会社のOB会の茶飲み話と、それ程異なった印象を受けるものではない。「反省会」を開くこと自体は結構な事だろうけど、それも開戦から40年近く経ってから、というのはいかにも遅い。当事者たちがそろそろこの世を去ろうという頃になって、それぞれの言い分を語り残しておこうという感じが強い(大体「反省会」という名称がユルい。小学生か)。この会合は結局は非公開のまま終わった訳だが、それでも参加者の中には保身的姿勢を崩さなかった人もいたようだ。半藤さんは「日本の組織は失敗を隠す」と指摘して、「反省会」を行った事自体は評価するが、澤地さんは「オープンな反省会をやらないと、日本人はいつまでも同じ事を繰り返すのではないか」と懸念を示す。

「事実としての戦争」を記録する仕事をしている半藤さんは、戦争を知っている人が少なくなるにつれて、「物語としての戦争」が多くなってきていることを危惧している。これは確かに、どうしようもない現実であるとは思うが、とにかく戦争の記録を見たり聞いたり読んだりする側では、これは本当にあったことなんだと自分に言い聞かせるしかない。

そうか、半藤さんも澤地さんも自分の親の世代(昭和ヒトケタ生まれ)なんだな。
自分も、子供の頃は「戦争が終わって14年も経ってから生まれたんだ」と思っていたが、年月を経て戦後60年以上過ぎた今では、「戦争が終わって14年しか経ってない時に生まれたんだ」という感じが強くなってきている。(苦笑)

思えば、自分たちの世代であれば、戦争は「一般教養」だった。子供の頃、教室で学ぶとかではなくて、マンガ、映画、プラモデルで当たり前のように戦争について知った。そんな経験から、「物語としての戦争」から何とか「事実としての戦争」に辿り着く想像力は最低限、身に付けたような気もするが、その辺は今の若い世代はどうなのかな・・・。

どっちにしろ時間は経っていくので、残された記録からどれ程リアリティを感得できるのかという問題は、これからますます大きくなっていくのだろう。

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2009年12月 7日 (月)

最初の捕虜、その後の人生

昨夜のNHKスペシャル「真珠湾の謎」は、最近発見された、海底に沈んだ特殊潜航艇を中心に内容が構成されていた。1941年12月7日に真珠湾に突入した特殊潜航艇は5隻。2人乗りで、計10名の若い軍人が出撃。うち9名は帰らぬ人となったが、大本営は彼らを「九軍神」として祭り上げる一方、ただ一人捕虜となった酒巻少尉の存在を隠蔽した。生き残った少尉はその後どうなっちゃったのかなあと思ったら、ウィキペディアにちゃんと項目があって、つい10年前まで存命だったので「へぇ」という感じだった。

酒巻和男さんは1918年生まれ、1940年に海軍兵学校を卒業。
真珠湾攻撃では乗っていた潜航艇が座礁、自爆装置を仕掛けて同僚と共に脱出。漂流中に同僚は行方不明となり、酒巻少尉は海岸に漂着して捕虜となった。太平洋戦争における最初の日本人捕虜である。
日本軍、日本人が「生きて虜囚の辱めを受けず」という考え方に洗脳されていた時代。酒巻少尉も捕虜収容所で自決を試みるが思いとどまり、他の日本人捕虜にも自決を止めるよう説得。通訳としても働き、アメリカ軍関係者にも賞賛された。
終戦後の1946年に復員後、トヨタ自動車に勤務。ブラジル現地法人の社長も務める。1987年退職。1999年81歳で死去。

・・・終戦直後に本を出した以外は、戦争や捕虜生活について多くを語らなかったらしい。戦時中は捕虜、戦後は大企業サラリーマン。何とも数奇な人生を送られた方だなという思いがする。

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2009年12月 6日 (日)

トラ・トラ・トラや!

日本海軍の真珠湾攻撃を描く映画「トラ・トラ・トラ!」から学ぶ、リスク情報をトップに伝えることの重要性。日経新聞11月30日付コラム記事「リーガル映画館」(中島茂・弁護士)からメモ。

ハワイの真珠湾に対する奇襲は1941年12月7日早朝(米国時間)に始まったが、様々な予兆があった。

早朝、米軍の1隻の駆逐艦から本部に「真珠湾の入り口で敵潜水艦を発見、攻撃を行った」との報告が入ってくる。本部の担当者は直ちに上官に報告するが、上官は「見誤りも多いからな。警告を出すのは確認してからでいい」と司令官に伝達しない。

1人のレーダー担当者は真珠湾に向かってくる無数の飛行機を発見。情報センターに「北方から大編隊が接近中」と報告する。それこそ日本軍の攻撃隊だったのだが、センターの上官は「それは心配ない」と取り合わない。偶然、同じ時刻に米軍の爆撃機が本土から飛来する予定があり、友軍と勘違いしたのだった。

結局、米軍は奇襲にまったく気付かず、真珠湾に停泊中の艦隊は大打撃を被ってしまう。こうした事態を避けるためには、兆しを示す情報について、現場は重要か否かの判断を加えることなく、未確認であっても直ちにトップに伝える仕組みが必要だ。

・・・映画の中で空襲が始まった後にも、潜水艦の件の担当者と上官のシーンがある。本部に駆けつけた上官。事務所の窓の外には炎と煙に包まれる真珠湾。呆然とする上官に向かって、担当者は「確認したいと言いましたね。見てください!これで確認できたでしょう!」と言い放つ。(昔テレビで見た吹き替えで、そんな感じのセリフでした)

ハワイの中で現場と管理の意思疎通に齟齬があったことに加えて、ハワイとワシントンの間でも情報を共有する意識に距離があったことが、映画には描かれている。組織内、組織間のコミュニケーションの問題は今も昔も、戦時でも平時でも、アメリカだろうが日本だろうが、変わらないと思える。

(真珠湾に突入した小型潜水艦のことは、今夜のNHK番組でやってた。日本海軍は戦争の始めから「特別攻撃隊」を作って、作戦後は彼らを「軍神」として祭り上げたという事で、海軍も相当罪深いよ)

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2009年12月 4日 (金)

ドルの大底は74円(若林栄四)

現在のドル円相場の変動は、長期的なドル安・円高の最終局面とみるのは若林栄四氏。ドルは来年2月に80円前後まで下落した後、いったん反発に転じると読む。12月3日付のブルームバーグニュースからメモする。

来年2月にドル・円相場がいったん底打ちする理由は、翌3月頃に米国で雇用者数の下げ止まりやドル安進行を受けたインフレ懸念が台頭し、長期金利が上昇するため。

金相場は同時期に1オンス=1500ドル程度で天井を打つと予想。インフレ懸念と利上げ観測で長期金利が世界的に上昇する中、金利が付かない金は暴落に転じるだろう。

ドル・円相場は5年ごとに底値をつけ、その後は結構大きく戻る。95年4月の79円75銭から98年8月の147円66銭、99年11月の101円25銭から02年1月の135円14銭、05年1月の101円68銭から07年6月の124円13銭への反発。

戻り高値の水準は徐々に低下し、反発の幅も縮小している。来年3月からのドル高・円安は秋口で終わり、90円台に乗れば御の字だ。底入れから18-20ヵ月後に、歴史的な大底を見る。

長期的なドル安・円高の分析。第1の波はニクソン米大統領が71年8月に金とドルの交換停止を発表し、12月のスミソニアン協定でドルが主要通貨に対して切り下げられるまでの360円から、78年10月の177円5銭まで。第2波は95年4月の戦後最安値79円75銭まで。最後の第3波が11年の秋につける74円前後だ。相場は3段下げで終わる。

米国経済は13年までもたつくが、その後は長期的なドル高・円安基調に転じると予想。ドル高・円安への転換により、輸出競争力の低下や生産拠点の海外移転が止まり、雇用や地価、地方経済、税収、株価などに好影響が及ぶ。今は陰の極だが、日本の将来は明るい。

・・・当たるかどうかは別として、なかなか先の事が見通しづらい相場というものについて、ストーリーを語れるというのは、やっぱり才能なんだろうなあと感心する。

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2009年12月 3日 (木)

「日本衰退」とアジア市場

まずは日経新聞マーケット総合面12月1日付のコラム「大機小機」(日本病、長期停滞の足音)からメモ。

国家経済の長期にわたる衰退・停滞を表す20世紀の言葉に、英国病とオランダ病がある。世界有数の債権国、福祉国家でありながら、国民の勤労意欲の低下や財政悪化から不況を克服できず、資本の国外流出を招いたのが英国病。通貨(為替レート)と生産コストがともに上昇し、製造業の国際競争力が低下、一方で過去の成長期に膨張した社会保障費が財政を圧迫し続け、経済停滞を長引かせたのがオランダ病。多くは今の日本にそのまま当てはまる。日本は根っこにデフレ、人口減という成長の二大阻害要因があり、より深刻ともいえる。

次に日経新聞本日付の「大機小機」(残された唯一の道)からメモ。

我が国政府のデフレ宣言は欧米諸国に衝撃を与えた。少子化問題、国内総生産(GDP)の2倍近くに膨れ上がった政府債務、民主党政権の不透明な経済政策など、経済成長への展望が全く描けないなかで、欧米メディアの多くは日本経済の新たな“失われた10年”が始まったと結論づけている。ただ、日本が採り得る方策があるとすれば、中国を中心としたアジア市場でのビジネスチャンスを積極的に見いだしていくことしかない、というのも欧米の一致した見方である。我が国の将来は、中国市場とのかかわりなしには見えてこない。

にも係わらず現状では、「中国市場での日本企業は欧米企業に後れを取っている」と、コラム氏は危機感を露にする。

さて、「日本の衰退」というと、なぜだか三島由紀夫が遺した言葉を思い出す。このまま行けば「日本」はなくなって、無機的でからっぽな経済大国が極東の一角に残るであろう、という「予言」である。もちろん40年前に作家が嘆いたのは、経済大国の物質的繁栄の中における日本的精神の衰退ということだろう。にしても今日、その経済大国の地位も危うくなってきた現状で、作家の言葉になぞらえて言えば、このままではアジアの成長にべったり依存して生きていく老大国が極東の一角に残る、ような気もしてしまう。

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2009年12月 2日 (水)

企業と株主と社会

日経新聞12月1日付の投資・財務面コラム「一目均衡」(企業国家・米国への信認)からメモ。

米ゴールドマン・サックスが批判にさらされている。同社は政府の危機対策で好決算を続け、社員は巨額の報酬を得ている。人々の怒りを背景に米メディアの集中砲火を浴びた同社の苦境は、危機で米企業の経営環境が様変わりしたことの断面だ。ステークホルダー(利害関係者)のなかで「社会」の地位が経営者の想像を超える勢いで浮上している。稼いで株主に報いても、社会に嫌われたら生き延びられないことがはっきりしてきた。

ドルへの信認は「企業国家」と呼ばれる米国の経済システムへの信認でもあった。企業はイノベーション(変革)を生み、破綻してもリスクマネーが再生し、株主は時代遅れの事業からの撤退を迫った。企業は成長し、人口の増加に見合う雇用を生んだ。

ドル安の直接の原因は、米国の低金利かもしれない。しかし企業国家・米国が社会の声の台頭という重大な変化に対応できずに競争力を失えば、それだけでもドルの魅力は薄れる。

改革のかぎを握るのは株主に違いない。企業と社会との共生が運用成果に結びつくことを理解し、支持できるかどうか。

・・・企業国家アメリカとは、株主資本主義の国アメリカである。かつてのドル高は、当時の財務長官が「強いドル」を唱え続けただけでなく、アメリカの株主資本主義がグローバルな投資マネーを引き寄せたことで実現された。
その株主資本主義、あるいは新自由主義の行き過ぎが、金融危機を招いたとも言われたが、果たしてそうなのか。証券化や格付けの過信というテクニカルな要因はあるにしても、危機の大元は結局、収益至上主義というごく古典的な事柄のように思える。資本主義におけるステークホルダーの優先順位を原理的に考えれば、株主資本主義を否定できるものではない。
おそらく現在は、収益至上主義の歯止めの一つとして、「社会の声」の重要性が見直されている局面なのだろう。今後の資本主義の在り方においては、株主や投資家が性急に利益を求めることなく、忍耐強くなれるかどうか、節度を保つことができるかどうかが問われる・・・のかな。

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2009年12月 1日 (火)

「韃靼の馬」からメモ。

現在、日経新聞朝刊の連載小説は「韃靼の馬」(辻原登)。江戸時代の対馬が舞台。この一週間程は物語の進行が小休止して、朝鮮との外交における豊臣の戦争、徳川の和平、そして「柳川事件」について触れられていたのでメモしてみる。

対馬の宗氏は、日本を代表して朝鮮と交渉する唯一の窓口だったが、豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮侵略が、この関係を一挙に粉砕する。秀吉の窮極の野望は、明の征服にあった。

日本の朝鮮侵攻がはじまると、朝鮮の宗主国、明は援軍を送って参戦し、戦争は泥沼化してゆく。対馬島主宗義智(よしとし)は、秀吉の重臣でキリシタン大名小西行長とともに和平工作に動いた。義智の妻マリアは行長の娘。二人は、朝鮮の背後にいる明と交渉を開始する。努力が実を結んで、慶長元年(1596)、明使が日本にやって来る。彼らは大坂城で秀吉に拝謁した。

明使は、冊封のための書類と「日本国王」印(金印)を秀吉に下賜しようとする。明を征服するつもりではじめた戦争であったから、秀吉は怒って、彼らを追い返した。こうして和平工作は失敗したが、慶長三年(1598)、戦半ばで秀吉が死ぬと、徳川家康、前田利家らは彼の死を伏せて、朝鮮半島に展開する日本軍の撤収作戦を開始した。

戦争が終わると、対馬島主宗義智はすぐに朝鮮との国交回復に動いた。戦役で連れてきた朝鮮人俘虜の送還を積極的に押し進めたことが朝鮮側の怒りを柔らげ、ようやく交渉に応じる姿勢をみせはじめる。関ヶ原の合戦を制し、ほどなく征夷大将軍に就いた徳川家康は、国内政治の安定を最優先課題に掲げる。朝鮮との講和は、そのためにも必要だ。

朝鮮政府から対馬に講和の条件が届いた。家康のほうから「日本国王」として、朝鮮国王に国書を送る。明の冊封体制下にある東アジアの外交慣習では、先に国書を差し出すことは相手国への恭順を表明することになる。家康が応じるはずもない。藩主宗義智と家老柳川調信(しげのぶ)は、大きな博打を打つことにした。国書の偽造である。国書が、対馬の使者によって朝鮮政府に届けられたのは慶長十一年(1606)十一月。

翌年、朝鮮政府は日本へ使節団を派遣することを決めた。慶長十二年(1607)四月、彼らはやってきた。総勢五百名余の大使節団である。対馬の悲願はかなったのだが、問題は使がもたらす朝鮮側の国書である。今度は、朝鮮の国書を改竄しなければならなくなった。五月六日、将軍秀忠謁見の当日、使が登城途中、家老柳川調信が袖の中に隠し持った偽書を、すきをみて取り替えることに成功する。

両国の講和はなった。これに伴い、釜山の豆毛浦に正式に倭館が設けられ、対馬藩と朝鮮政府のあいだに己酉約条が結ばれた。

・・・まさに綱渡りの国交回復。この後、将軍家光の代になって、柳川氏が宗家に取って代わることを目論んで、国書偽造を暴露・告発した。しかし家光は、朝鮮との外交は引き続き宗氏に任せるべきと考えて、柳川氏を罰することに決め、宗家はお咎めなしとなった。これが「柳川事件」。

豊臣の戦争でも、徳川の和平でも、朝鮮と日本の間で、対馬は苦労が絶えなかった。宗義智、大変だったなあ。

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