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2009年11月17日 (火)

対馬に行く

秀吉の朝鮮戦争を考える一環として?先日11月14日、対馬を訪ねた。何しろ電車では行けない所だし、当地にも鉄道は無い。ということで今回はツアー参加。飛行機、船、バス利用の対馬・壱岐2泊3日の旅。特にこれが是非見たいというポイントは無いのだが、とりあえずどんなところか見ておこうという感じ。

P1030341_2 で、とりあえず写真右は万松院(本堂)。対馬の支配者、宗氏の菩提寺。写真下は、同寺院内にある、宗家19代目にして初代対馬藩主、宗義智(そうよしとし)の墓。豊臣秀吉の戦争の時も、徳川家康の和平交渉の時も、朝鮮と日本の間に立って苦労の多かった殿様。奥さんのマリアは小西行長の娘。行長はいわずと知れたキリシタン大名。関ヶ原では西軍として戦い敗北、処刑された。

P1030344_2 対馬は9割方が山地の島、主な収入は朝鮮と日本の貿易を仲介することで得ていた。朝鮮と戦争になれば貿易の道が断たれる。それは対馬にとってまさに死活問題だった。秀吉から朝鮮を服属させる意向を受けた宗義智は、出来る限り穏便に事を運ぼうとしたが、結局は戦争に突入。商家出身の武将、小西行長も隣国とは戦争ではなく交易を行いたいと考えていた。しかし、戦争を望まない義理の親子は皮肉にも、文禄・慶長の役では秀吉軍の先鋒として朝鮮軍と相対した。最前線にいた行長は常に講和の道を探っていたが、結局7年に及ぶ戦争が終わりを迎えたのは、秀吉の死によってであった。

対馬から壱岐まではフェリーを使った。冷たい風の吹く玄界灘の蒼い海。この広い海原をかつてモンゴルや秀吉の軍勢が押し渡り、朝鮮通信使の船団が進んでいった。昔の人は何だか勇気に溢れていたのだなあと思う。

山の島である対馬と違って、壱岐は平らな島である。その壱岐の一番高い所である「丘の辻展望台」からは、九州本土も対馬も見える。ガイドさんに「あちらが呼子の港です」と言われて、つい10日程前に向こう側の名護屋城から壱岐を望んだことを思い出した。

今回のツアー参加で多少土地勘?が付いたので、次の機会には秀吉関連遺跡である対馬・清水山城、壱岐・勝本城に足を踏み入れてみたいと思った。

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