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2009年11月 1日 (日)

講座「三成・兼続と関ヶ原合戦」

10月31日、長浜城歴史博物館で講座「三成・兼続と関ヶ原合戦」を聴講した。講師は太田浩司・学芸員。NHK大河ドラマ「天地人」の中の場面は、どこまで史実か、という観点からのお話。10のエピソードについて検証されていたが、3つメモしてみる。

(疑問)「関ヶ原」の一年前に、石田三成と直江兼続は、徳川家康挟撃の「密約」を既に交わしていたのか。
(答え)「密約」は文書に残さないだろうから、実証不可能。とりあえず「関ヶ原」直前の慶長5年7月から8月にかけては、三成と兼続が頻繁に連絡を取り合っていたことは、書状類から窺われる。

(疑問)「直江状」の真偽はいかに。
(答え)原本が伝存しないことや過激な文言から、偽文書説が有力だったが、最近は実在に対して肯定的な意見が多い。直江状は家康側からの文書に返答する形になっているが、その家康側の文書は残っているので、直江状の存在も確実ではないか。

(疑問)大谷吉継は負けることを承知で、三成に味方したのか。
(答え)豊臣政権内で吉継は若い頃から三成と行動を共にしていて、もともと非常に親しい仲だった。負けると思っていたとまでは言えない。

・・・そうですよねえ。と思ったのは吉継の話だけど、お家の存亡に関わる重大事を、殿様の「友情」だけで決められたら大谷の家中の者は堪らないよなあ。吉継はたぶん、「流れ」は徳川の側にあることは意識していたと思う。そうでなければ、三成に挙兵を思いとどまるよう説得したりはしないだろう。しかし三成の側に付くことを決心した後は、勝つために全力を挙げると共に、敗北すれば即ち滅亡、という覚悟も決めたに違いない。実際、関ヶ原の戦いにおいて西軍の敗勢が決定的となった時、大将クラスで自害したのは吉継のみであり、その覚悟の深さが窺い知れる。

しかし、歴史の専門家の研究というのは、結局文書の解読という地道な作業なんだなあと思う。まあ専門家が書いてくれた一般向けの本を読んで、あーでもないこーでもないと好き勝手なことを言う歴史ファンでいるほうが楽でございますね。

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