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2009年11月 8日 (日)

秀吉「唐入り」の時代背景

P1030326 去る11月3日(文化の日)、2年半ぶりに肥前名護屋城を訪ねた。写真は本丸・天守台。秋晴れの下で、玄界灘は遠くの壱岐まではっきりと見渡せた。今回のメインの目的は名護屋城博物館の企画展(肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城)。図録も購入。全く知らないで日程を立てたのだが、当地は「唐津くんち」開催中で、唐津駅には祭り見物に繰り出す人々がうじゃーといた。(汗)

無謀とも思える「唐入り」を企てて、豊臣秀吉は朝鮮攻撃に踏み切った。その時代背景について、『文禄・慶長の役 空虚なる御陣』(上垣外憲一・著、講談社学術文庫)の第一章(開戦前夜)から要点を拾ってみる。

中国・朝鮮の官僚制・国家体制は極めて安定的に存続していたため、伝統的な東アジアの国際秩序に関する観念も保持し続けていた。これに対して日本では応仁の乱以後、従来の政治支配関係が一気に解体。戦国時代に登場してきた群雄は、伝統的な国際秩序など理解もできなければ理解しようもなかった。

中国・朝鮮が海外との交渉に消極的だったのに対し、日本は統制力ある中央政権の欠如という状態にも助けられて、海外に対してはるかに開かれていた。キリシタンの急激な増加と、鉄砲の急速な普及はその典型的な例である。当時の日本は、いわば「意図せざる脱亜入欧」の状態にあった。

豊臣秀吉は「太陽神の子」を自称し、日本は「神国」であるとして、中国皇帝を最高の支配者とする伝統的な東アジアの国際秩序を否定する。秀吉は、日本において自分が中心であるように、世界においても自分が中心でなければならないと夢想した。秀吉にとって、朝鮮や中国は、四国や九州と同様に服属させる対象であり、そこには日本とは民族的にも文化的にも異なった人々が住んでいるという意識は欠如していた。秀吉の要求は屈服か戦争であり、そこに交渉というものが入り込む余地は無かったのだ。

・・・今月最後の日曜日には、秀吉の朝鮮攻撃についてのNHK番組(シリーズ日本と朝鮮半島2000年)も放送予定だし、この近代以前に日本が起こした最大の戦争について、ぼちぼち学んでいこうかと。

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