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2009年11月30日 (月)

「不滅の李舜臣」など。

昨夜(11/29)のNHKのETV特集、「豊臣秀吉の朝鮮侵略」は、まあまあバランスの取れた内容だったのではないか。「文禄・慶長の役」、その戦況や外交の推移を概観できる番組だと思われた。

P1030313 放送の中で戦闘再現シーンとして挿入されていたのが、韓国ドラマ「不滅の李舜臣」。ちょっと見ただけでも、相当本格的に「壬辰倭乱」(朝鮮側の呼び名)を取り上げていることが窺われるドラマ。韓国での放送は2004~2005年で、そういうドラマがあることは聞いていたのだが、DVDが今年日本で出ていたことを自分が知ったのはごく最近で、先日第5話までレンタルして見たところだった。一話50分、全部で100話を超えるこのドラマは題名通り、朝鮮救国の英雄であるイ・スンシンの物語。最初に戦乱の最終局面から始まり、第5話の冒頭、海戦中に船上で銃撃を受けて倒れたイ・スンシンの意識が遠のいていくところで、場面は転じて子供時代から改めて生涯を追っていくという形になっている。まあワタシはとりあえず前半生は飛ばして、次は(衝動買いした)「文禄の役」前編・後編BOXセット(第57話~第86話)を、ゆっくりと見ていくつもり。(上の写真は名護屋城博物館にある朝鮮水軍・亀甲船の模型)

このドラマの原作である小説「孤将」(新潮文庫)も購入。翻訳はあの蓮池薫さん。ほかに一般向けの本では、「週刊日本の合戦」№21(講談社、2005年)、「週刊戦乱の日本史」№22(小学館、2008年)、「文禄・慶長の役」(講談社学術文庫)、「秀吉の朝鮮侵略」(山川出版社)が既に手元にある(どれも千円以下の廉価な資料)ほか、ネット古本販売で「秀吉と文禄の役」(中公新書)も購入。フロイスの「日本史」から関連部分を訳出したもの。フロイスってヘンな外人だと思うけど、信長アンド秀吉についていろいろ書き残してくれた、後世を生きる我々にとってはホントに有り難い人。

あと、名護屋城博物館で図録「秀吉と文禄・慶長の役」も入手済であります。

しかしいろいろ買い込むのはいいんだけど、それをまた「消化」していかなかきゃならんのだよなあ。(汗)

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2009年11月24日 (火)

「現場の人」秀吉

秀吉は現場の人であり、一段の高みから統治を試みる人ではなかった、と言うのは本郷和人・東京大学史料編纂所准教授。『センゴク合戦読本』(講談社文庫)の第6章(「現場の人」としての秀吉)からメモ。

信長の命令を期待以上にこなすことこそが長い間の彼の生きる目的であり、日本全国の行政とか統治のありかたなどを常日頃から熟慮していたなどとは、到底思えない。信長の意を汲むことに向けて、秀吉の頭脳はフル回転していた。つまりは根っからの「部下」なのであって、小なりとはいえ領土を守り治めることを若年から意識していた信長・家康ら戦国大名とは、明らかに性質が異なっている。

信長が一部地域(越前など)で刀狩りや検地に着手していたことはよく知られるが、私は後の秀吉の政策は、日本の統一事業も含めて、あくまでも信長の政治方針の継承として捉えたい。企画・立案=織田信長、現場監督=豊臣秀吉、である。

・・・その秀吉がオリジナリティを発揮して大失敗したのが朝鮮出兵ではないか、と本郷先生は書いている。でも、海を渡って中国を征服するというのも、信長の考えだったという話もあるので、どの辺を指して「オリジナリティ」と言ってるのかはよく分からない。まあどっちにしても、刀狩りや検地、唐入り、そして大坂城の建設も、信長が構想していたことで、それを秀吉が本格的に展開し実行したという捉え方で良いのだろう。まさに「織豊政権」と呼ばれる通りだな。

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2009年11月23日 (月)

太閤検地のチカラ

日経新聞「やさしい経済学」、目下の連載(日本の「長い近代化」と市場経済)は中林真幸・東京大学准教授が執筆。本日付の第2回から以下にメモ。

鎌倉時代から室町時代にかけての生産技術の向上は、農民の努力による生産性増大の可能性を広げ、実際に生産性は顕著に増大した。拡大した土地の収穫(利回り)への請求権を巡り、一揆が頻発した。生産増加分の一部を農民に与えることは、さらなる生産性増加の誘因となるので、長期的な税収増大にはむしろ望ましい。闘争の時代を経て、税率を一定として農民の請求権を保護する契約が、村と領主の間に結ばれるようになる。

こうした慣行を土地所有制度として整備したのが、豊臣秀吉の太閤検地だった。すべての田畑は政府に登記され、農民の耕作権は保護された。

この制度は江戸幕府に継承され、所有権を保証された農民たちは、農業技術の向上や購入肥料の増加など、経営者としての努力を土地に注ぎ込んだ。

ある資産の所有権とは、その資産を自由に利用する裁量権と、利用の結果として生ずる利益も損失も引き受ける請求権からなる。リスクという結果責任を引き受ける者には、所有権を保証することが望ましい。秀吉は所有権を引き受ける強い農民に賭けたのである。

・・・農民のやる気を引き出した秀吉。さすが農民出身の天下人。グレートだぜ。

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2009年11月22日 (日)

「CP対称性の破れ」の意義

現在日経新聞に連載中、ノーベル賞物理学者の益川敏英先生の「私の履歴書」。本日付第21回では、「CP対称性の破れ」の重要性が述べられているので引用したい。

その前に、そもそも「CP対称性の破れ」とは何か、ということについて、同連載第11回(11月12日付)から引用。

CPのCとは電荷(チャージ)のことで、C変換は電荷の種類が異なる粒子と反粒子をお互いに入れ替えることを指す。Pとは偶奇性(パリティ)のことで、P変換は物理現象を鏡に映した状態にひっくり返すことをいう。
このC変換とP変換を同時に行ったときに、物理の法則が不変であることを「CP対称である」という。もし不変でなく、何か違いがあれば「CP対称性が破れている」という言い方をする。
物理学者は長く、CP対称性が成り立っていると信じていたが、クローニンらは加速器による実験から、K中間子という素粒子で、わずかながらCP対称性が破れていることを発見した。これは物理学の研究の歴史において衝撃的な事実だった。

・・・何が何だか分からないけど、とにかくそういうことです。(苦笑)
で、続けて本日付第21回から引用。

CPの対称性、つまりC(電荷)やP(偶奇性)を逆転させたもの同士の対称性が成立せず、わずかにアンバランスが生じるという、この「破れ」なるものはどのような意味を持つのだろうか。それは、宇宙の誕生から今に至る時間の流れの中で、私たち人間を含め、この世界に物質が今のような形で存在するに至ったことを説明する、有力な根拠になるということだ。
宇宙の誕生においては、私たちになじみが深い粒子、あるいはそうした粒子からなる物質とともに、反対の性質を持つ反粒子、あるいは反粒子からなる反物質ができたはずである。粒子と反粒子、あるいは物質と反物質が出合えば、そこでエネルギーを放出してお互いに打ち消し合って消滅する。
だから、通常の物質からなる我々の世界ができるためには、通常の粒子や物質の方が、反粒子や反物質よりもたくさんできるような条件が必要となる。CP対称性の破れは、そのすべてではないが、一部を説明できる可能性がある。

・・・宇宙が、物質が、我々が存在するのは「CP対称性の破れ」によってである、のか。だとすれば、何だか凄いとしか言いようがない。(汗)

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2009年11月21日 (土)

「小林・益川理論」の誕生

日経新聞「私の履歴書」、現在の連載はノーベル賞物理学者の益川敏英先生。共同研究者の小林誠先生と、「CP対称性の破れ」に取り組むことになった経緯が、11月19日付の第18回に記されている。益川先生は1970年に京都大学に赴任してほどなく、CP対称性の破れの問題に本格的に取り組む時期が来たと思い始めた。

私と小林誠君の研究は、素粒子のクォークが6種類存在すれば、CP対称性の破れが起こせるということだが、その当時クォークは3種類しか見つかっていなかった。これに対して名大では素粒子の中でも基本をなすものは4つであるとする「4元モデル」が牧二郎教授らによって唱えられていた。69年には、グラショウ、イリオポウロス、マイアニという3人の学者が、弱い相互作用を考えるとクォーク4つのモデルが優れているとする研究を発表する。

そうなると、素粒子のクォークは3種類ではなくて4種類と考えたほうがよいのではないか。そのことを手がかりにCP対称性の破れの性質について予言できるのではないかと思った。

72年の春に京大にやってきた小林先生も、同じ問題を意識していたので、二人は自然に共同でやろうかという話になったそうだ。
そして、論文の誕生については本日付の第20回に記されている。理論を生み出す作業を始めてから約1ヵ月。

運命の日がやってきた。私はその夜に風呂の中で問題を考え続けていた。どう考えても4元モデル(クォークが4種類というモデル)で対称性の破れを説明できるものがない。この仕事を終わらせよう。そう決心して、湯船から立ち上がったところで別の考えが浮かんだ。「いっそのことクォークが4つではなく、6つのモデルを考えればいい」。

そして益川先生が草稿を作り、それを小林先生が英訳し構成を整えて、1973年、学術雑誌の2月号に掲載される形で論文発表となったのである。

・・・しかし19日付の話は、物理学の理論についていろいろ書いてあったけど、読んでも内容がさっぱり分からない「私の履歴書」というのは珍しいんじゃないかと。(汗)

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2009年11月17日 (火)

対馬に行く

秀吉の朝鮮戦争を考える一環として?先日11月14日、対馬を訪ねた。何しろ電車では行けない所だし、当地にも鉄道は無い。ということで今回はツアー参加。飛行機、船、バス利用の対馬・壱岐2泊3日の旅。特にこれが是非見たいというポイントは無いのだが、とりあえずどんなところか見ておこうという感じ。

P1030341_2 で、とりあえず写真右は万松院(本堂)。対馬の支配者、宗氏の菩提寺。写真下は、同寺院内にある、宗家19代目にして初代対馬藩主、宗義智(そうよしとし)の墓。豊臣秀吉の戦争の時も、徳川家康の和平交渉の時も、朝鮮と日本の間に立って苦労の多かった殿様。奥さんのマリアは小西行長の娘。行長はいわずと知れたキリシタン大名。関ヶ原では西軍として戦い敗北、処刑された。

P1030344_2 対馬は9割方が山地の島、主な収入は朝鮮と日本の貿易を仲介することで得ていた。朝鮮と戦争になれば貿易の道が断たれる。それは対馬にとってまさに死活問題だった。秀吉から朝鮮を服属させる意向を受けた宗義智は、出来る限り穏便に事を運ぼうとしたが、結局は戦争に突入。商家出身の武将、小西行長も隣国とは戦争ではなく交易を行いたいと考えていた。しかし、戦争を望まない義理の親子は皮肉にも、文禄・慶長の役では秀吉軍の先鋒として朝鮮軍と相対した。最前線にいた行長は常に講和の道を探っていたが、結局7年に及ぶ戦争が終わりを迎えたのは、秀吉の死によってであった。

対馬から壱岐まではフェリーを使った。冷たい風の吹く玄界灘の蒼い海。この広い海原をかつてモンゴルや秀吉の軍勢が押し渡り、朝鮮通信使の船団が進んでいった。昔の人は何だか勇気に溢れていたのだなあと思う。

山の島である対馬と違って、壱岐は平らな島である。その壱岐の一番高い所である「丘の辻展望台」からは、九州本土も対馬も見える。ガイドさんに「あちらが呼子の港です」と言われて、つい10日程前に向こう側の名護屋城から壱岐を望んだことを思い出した。

今回のツアー参加で多少土地勘?が付いたので、次の機会には秀吉関連遺跡である対馬・清水山城、壱岐・勝本城に足を踏み入れてみたいと思った。

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2009年11月 9日 (月)

朝鮮出兵と石田三成

文禄・慶長の役 空虚なる御陣』(上垣外憲一・著、講談社学術文庫)の第四章(陶工と朱子学)から、朝鮮出兵における石田三成の立場と思想についてメモ。

石田三成は奉行として全軍を督励する立場にあったから、その指揮を受けることを不快に思う者たちは多かった。一方、三成は徳川家康、前田利家が一兵も渡海させないことを不快に思っていた。彼が島津に対して「国家」の軍役ということを強調していることからも、三成がこれを日本国全体の戦争と考え、それに対する負担は公平であるべきだと考えていたことが知られる。いうなれば彼は、戦争をてことした日本全国の中央集権的な支配をもくろんでいた。
三成は文禄・慶長の役を日本の戦争という形にしようとしたが、それは結局、秀吉の戦争に終わった。

・・・かつて司馬遼太郎は「三成には近代人のにおいがする」と述べた。まあ近代人だから良いってわけでもないけれど、朝鮮出兵における三成の構想が現実化していたら、明治維新よりはるか以前に、日本は「近代国家」へと変貌したのかも知れない。

なお、家康と利家の兵が動かなかったことについて、最初の時点で朝鮮攻撃への賛同を取り付けるため、秀吉が両者に特別の配慮を約束したのではないか、と上垣外先生は推測している。

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2009年11月 8日 (日)

秀吉「唐入り」の時代背景

P1030326 去る11月3日(文化の日)、2年半ぶりに肥前名護屋城を訪ねた。写真は本丸・天守台。秋晴れの下で、玄界灘は遠くの壱岐まではっきりと見渡せた。今回のメインの目的は名護屋城博物館の企画展(肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城)。図録も購入。全く知らないで日程を立てたのだが、当地は「唐津くんち」開催中で、唐津駅には祭り見物に繰り出す人々がうじゃーといた。(汗)

無謀とも思える「唐入り」を企てて、豊臣秀吉は朝鮮攻撃に踏み切った。その時代背景について、『文禄・慶長の役 空虚なる御陣』(上垣外憲一・著、講談社学術文庫)の第一章(開戦前夜)から要点を拾ってみる。

中国・朝鮮の官僚制・国家体制は極めて安定的に存続していたため、伝統的な東アジアの国際秩序に関する観念も保持し続けていた。これに対して日本では応仁の乱以後、従来の政治支配関係が一気に解体。戦国時代に登場してきた群雄は、伝統的な国際秩序など理解もできなければ理解しようもなかった。

中国・朝鮮が海外との交渉に消極的だったのに対し、日本は統制力ある中央政権の欠如という状態にも助けられて、海外に対してはるかに開かれていた。キリシタンの急激な増加と、鉄砲の急速な普及はその典型的な例である。当時の日本は、いわば「意図せざる脱亜入欧」の状態にあった。

豊臣秀吉は「太陽神の子」を自称し、日本は「神国」であるとして、中国皇帝を最高の支配者とする伝統的な東アジアの国際秩序を否定する。秀吉は、日本において自分が中心であるように、世界においても自分が中心でなければならないと夢想した。秀吉にとって、朝鮮や中国は、四国や九州と同様に服属させる対象であり、そこには日本とは民族的にも文化的にも異なった人々が住んでいるという意識は欠如していた。秀吉の要求は屈服か戦争であり、そこに交渉というものが入り込む余地は無かったのだ。

・・・今月最後の日曜日には、秀吉の朝鮮攻撃についてのNHK番組(シリーズ日本と朝鮮半島2000年)も放送予定だし、この近代以前に日本が起こした最大の戦争について、ぼちぼち学んでいこうかと。

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2009年11月 1日 (日)

講座「三成・兼続と関ヶ原合戦」

10月31日、長浜城歴史博物館で講座「三成・兼続と関ヶ原合戦」を聴講した。講師は太田浩司・学芸員。NHK大河ドラマ「天地人」の中の場面は、どこまで史実か、という観点からのお話。10のエピソードについて検証されていたが、3つメモしてみる。

(疑問)「関ヶ原」の一年前に、石田三成と直江兼続は、徳川家康挟撃の「密約」を既に交わしていたのか。
(答え)「密約」は文書に残さないだろうから、実証不可能。とりあえず「関ヶ原」直前の慶長5年7月から8月にかけては、三成と兼続が頻繁に連絡を取り合っていたことは、書状類から窺われる。

(疑問)「直江状」の真偽はいかに。
(答え)原本が伝存しないことや過激な文言から、偽文書説が有力だったが、最近は実在に対して肯定的な意見が多い。直江状は家康側からの文書に返答する形になっているが、その家康側の文書は残っているので、直江状の存在も確実ではないか。

(疑問)大谷吉継は負けることを承知で、三成に味方したのか。
(答え)豊臣政権内で吉継は若い頃から三成と行動を共にしていて、もともと非常に親しい仲だった。負けると思っていたとまでは言えない。

・・・そうですよねえ。と思ったのは吉継の話だけど、お家の存亡に関わる重大事を、殿様の「友情」だけで決められたら大谷の家中の者は堪らないよなあ。吉継はたぶん、「流れ」は徳川の側にあることは意識していたと思う。そうでなければ、三成に挙兵を思いとどまるよう説得したりはしないだろう。しかし三成の側に付くことを決心した後は、勝つために全力を挙げると共に、敗北すれば即ち滅亡、という覚悟も決めたに違いない。実際、関ヶ原の戦いにおいて西軍の敗勢が決定的となった時、大将クラスで自害したのは吉継のみであり、その覚悟の深さが窺い知れる。

しかし、歴史の専門家の研究というのは、結局文書の解読という地道な作業なんだなあと思う。まあ専門家が書いてくれた一般向けの本を読んで、あーでもないこーでもないと好き勝手なことを言う歴史ファンでいるほうが楽でございますね。

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