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2009年10月16日 (金)

言語と自己と神と貨幣と

資本主義はニヒリズムか』(新書館)は佐伯啓思と三浦雅士の論考・対談本。書名と同じ「資本主義はニヒリズムか」と題された対談から、「言語」に関する三浦雅士の発言をメモしてみる。

もともと言語は超越論的なものです。というより、言語が超越論的な次元をつくったと言ったほうがいい。自分の生き方を決める自分は自分に属しているのではなく、自分を超えた超越論的な次元、生死を超えた次元に属している。だからこそ人間は自分の生死を、まるで他者の生死を決めるように、決めることができるわけです。

言語がもたらしたこの超越論的な次元というのは、要するに神が存在する次元がなければならないということです。私という現象は言語によって成立する、そして成立したときにすでにその私というのは超越論的な構造になってしまっている。自己意識と言っても同じですが、この仕組みは自分で自分を評価する仕組みです。

自己処罰であれ、自己犠牲であれ、自分から離れている自分、自分を外側から見ている自分がいなければできない、それが超越論的であるということだ。つまり、言葉をもってしまったものは最初から超越論的であるほかなくなったわけです。それができた以上、お墓もできるし、貯金もできる。貨幣は、いずれ使える、使う可能性をとっておくということですから、それ自体が貯金であり投資である。つまり、それが将来とか未来とかの実質であって、死後の観念と最初から連動しているわけです。言語の必然として貨幣があり蓄財がある。言語をもった以上、人間は必ず神にかかわり、死後にかかわり、つまり自分を超えた自分にかかわることになってしまった。

・・・自己、神、死後(未来)、貨幣はすべて連なる観念だ。言語を持ってしまった人間というヤツは、まっこと奇々怪々な存在であることよ。

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