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2009年6月 8日 (月)

雑誌「大航海」終了

人文思想誌「大航海」が、この5日発行号で終刊となった。いわば「ニューアカ」系の最後の砦?が消えたことになる。当初隔月刊で出発、その後季刊に移行して通算14年以上続いてきた、この雑誌の終了は何を意味するのか。昨日7日付日経新聞の読書欄コラム記事(雑誌休刊が物語る虚無)からメモしてみる。

新書館の編集主幹として「大航海」に携わる文芸評論家の三浦雅士は「人文関係の雑誌で『売れないからやめる』という考え方は本来、ありえない」と打ち明ける。

だとすれば、深層には何があるのか。三浦は端的に「世界の変容」と語る。「経済が文化の下部構造という位置づけを超えて全面化し、文化は顧みられなくなった。この地殻変動の衝撃はあまりにも大きく、あまりにも深刻」

三浦の見方によれば、人が生き方の規範や価値、知的な楽しみを活字メディアに求める時代は過ぎ去った。かつて「現代思想」や「ユリイカ」といった雑誌の編集長として「ニューアカデミズム」ブームをけん引した手応えと現在の感覚はかけ離れている。「以前は浅薄だったかもしれないが、うねりを起こすことはできた。今はどんな特集を仕掛けても反応が薄い」という。

・・・「経済の全面化」という言い方は、自分にも実感がある。80年代中頃のポストモダン、ニューアカデミズム・ブームの後、バブル経済が出現し、エコノミストの語る言葉に多くの人が耳を傾けるようになった。いわばエコノミストが「思想家」と化したのであり、「世界認識の方法」の中心は人文知から経済的な知へと移った。その傾向はバブル崩壊後の90年代も続き、日本型経済システムの見直しについて、エコノミスト中心に百花繚乱の議論が繰り広げられた。それは金融危機でピークを迎え、その後世の中の動きは、いわゆる「新自由主義」的な経済政策や企業経営へと舵を切っていくことになる。

一方で人文知自体も、既にかつての「教養」の主役の座を失っている。教養とはほぼイコール「古典」と言えるだろうが、次から次へと新たな「知識」が生産されて「情報」として流通し処理される昨今では、そもそも「教養」自体が成り立たなくなっている。むしろ人は実用的知識を仕入れることに日々追われている。「脳」や「DNA」についての知見が幅を利かす世の中で、いわば「(近代的主体としての)人間は死んだ」(フーコーの言葉)のであれば、その人間観に基づいた人文知もまた衰退していくのは避けられないだろうという感覚はある。良し悪しではなく。

ただ今回の不況で「新自由主義」的な経済の考え方が曲がり角を迎えたのならば、そこに人文知による社会批判が拠って立つ場所が出来たのかも知れない、という気は(少しだけど)する。

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