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2009年6月28日 (日)

安土を歩く

今日のJR東海さわやかウォーキングは、滋賀県安土で開催。これまでも長浜、近江八幡、多賀大社など、しばしば近江地域でも開催されていたさわやかウォーキングだが、安土は初めて。新コースに参加しなければと、東京から遠征しちゃいました。

今回、JR東海ツアーズがおそらく初めて企画した、さわやかウォーキングを組み込んだ日帰りツアー商品を利用した。4月~6月の開催地の中から、東京出発の商品が設定されたのは佐久間レールパーク、豊橋・葦毛湿原、近江長岡の三島池、そして安土の4つのイベント。安土は往復新幹線+在来線そしてドリンク引換券のセットで13,400円である。偉いぞJR東海ツアーズ。(ただし申し込みはあんまり無かったみたいだけど・・・)

P1030070 さて米原まで新幹線、そして在来線に乗り換えて午前10時半頃に安土着。当地の天気は曇り。いつもと変わらない中高年の大群。皆さん熱心です。駅前では地元関係者と思しき人たちの歓迎を受ける。今秋公開予定の映画「火天の城」のパンフや、JR東海と西日本の合同製作らしき記念バッジなど諸々の配布物を受け取った後、まずは観音寺山のふもとにある信長の館、安土城考古学博物館を目指してウォーキングスタート。

P1030080_2 信長の館の入口には長蛇の列が出来ていた。館内では安土城の天守最上階部分の復元を展示している。が、今回はウォーキングコースを歩くことに専念するつもりだったので、信長の館も博物館も通過。次はJR線路を挟んで向かい側にある安土城跡へ。久しぶりに来たら有料となっていた。史跡を維持保存するためには仕方ないかな。今回はとりあえず入口で大手道の石段を写すだけで先に進む。後は常浜水辺公園、浄厳院、沙沙貴神社と回って、午後1時に安土駅に戻った。コース距離約8.8㎞。

P1030082 特に寄り道はしないで午後4時過ぎには東京駅着。安土は昼頃には陽射しが出て暑くなったが、東京に帰ったら結構まともに雨が降っていた。場所が変われば天気も変わる、日本は広いよ。

もう少しJR東海ツアーズ商品について書くと、新幹線はこだま自由席を利用せよとの事だったけど、貰った切符には「新幹線自由席」と記されていたので、ひかりにも乗ってしまいました。もしまた企画する時があれば、少し値段を高くしても構わないから、東京出発の商品は、こだま・ひかり利用可にしてもらいたいね。

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2009年6月27日 (土)

ケインジアン対新古典派?

ニューケインジアンと新古典派は「対立」している、という訳ではない。『経済成長って何で必要なんだろう?』(光文社)の「序章」から、飯田泰之・駒澤大学准教授の発言をメモ。

ニューケインジアンというグループが生まれたのが80年代、そして90年代末には主流派のなかの主流派になります。ちなみにもう一つの主流派は新古典派、または新新古典派です。しかし、現在ではニューケインジアンと新古典派では分析手法はまったく同じなんです。

いずれのグループも景気変動はショックに対する経済システムのリアクションであると考えます。違いは景気を動かす最大のショックは何かという点ですね。新古典派は生産効率の変化が最大の源泉だと考える。生産技術が変わったり、労働者の能力が変化したことによって効率が変化し、その結果景気がよくなったり悪くなったりすると考えます。一方、ニューケインジアンは生産効率の変化は景気変動の「結果」だと考える傾向があります。むしろ景気変動を起こすショックは需要や政策によって生じていると考える。この両者は排他的なものではなくて、どちらが量的に重要かで意見が分かれているんです。

その結果、新古典派はあくまで生産側の効率やシステムなどが変動の原因だから、さらなる市場システムの純化によって経済問題は改善すると考える。一方のニューケインジアンは問題解決のためには市場システムがしっかり稼動することが重要で、そのためにはちょっと手を加えなければいけないと考える。あくまで市場システムが回ることが重要だという点については両者に違いはありません。

・・・どっちにしても、経済学は「市場が基本」ってこと。当たり前っちゃ当たり前ですが。

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2009年6月22日 (月)

バラバラ殺人と「責任能力」

2006年末に東京・渋谷区で起きた2つの「バラバラ」殺人事件の裁判では、いずれも被告人の「責任能力」が争点になった。『あなたが猟奇殺人犯を裁く日~裁判員なりきり傍聴記~』(扶桑社新書)からメモしてみる。まずは兄が妹を殺害した事件。

(被告人に対する精神鑑定結果では)殺害行為の精神状態と遺体解体時の精神状態は違うとし、解体のときまでは解離性障害、解体時は強迫性障害であると述べていました。素人には何がなんだかさっぱりです。結局、鑑定医の結論としては、遺体損壊時は責任のない状態(心神喪失)、殺害時はある程度の判断能力を有しており責任能力は限定的だけどあった(心神耗弱)とのことでした。

後日行われた論告求刑。ここで検察側は鑑定人が出した結果を完全否定し、被告人には犯行当時、全ての場面において完全責任能力があるとしたうえで懲役17年を求刑。対する弁護側は鑑定結果に乗っかって、責任能力はないとし、強気に無罪を主張して結審しました。

判決は懲役7年でした。裁判所は、殺害時の被告人は完全責任能力があったものの、遺体を損壊しているときには責任能力がなかったと結論付けました。
検察側も弁護側も控訴。09年4月28日現在、東京高裁にて言い渡された判決は一審破棄、懲役12年。死体損壊時も責任能力があると認定されました。

次に妻が夫を殺害した事件。

弁護側の鑑定人は「犯行時、死体遺棄時には短期精神病障害に罹患しており、責任能力が欠如していた、心神喪失状態と推認できる」と結論付け、同様に検察側の鑑定人も「責任能力を喪失していたことは十分想定できる」と結論付けました。弁護側の鑑定人がこのような結論を出すことは想定できますが、まさか検察側の鑑定人まで。驚きです。

そして論告求刑。やはり鑑定人がこのような結果を出しても、検察は「被告人には完全責任能力があった」として、懲役20年を求刑。対する弁論。改めて被告人に責任能力がないと主張し、結審しました。

判決は懲役15年でした。(裁判所は被告人に完全責任能力を認めた)
被告は控訴。09年4月現在、東京高裁は三度目の精神鑑定を行う方針です。

・・・事件が「猟奇的」な様相を呈しているからといって、犯行者が「異常な」精神状態の中で判断能力を失っていた、とはいえないだろうなあ。殺害後の遺体の分断・分解は、死体を運ぶとか捨てるとかしやすくするためにポータブルにするってことで相当「合理的な」行動であり、当人としては「証拠隠滅」という「目的」のために、なりふり構わず「意思的」に進めているはずだから、当然責任能力は認められるだろうなと思う。この本にはより最近のバラバラ殺人、08年4月東京・江東区で起きたOL殺害事件の裁判も取り上げられているけど、こちらは別に「精神鑑定」はしてないみたいなので、06年末の2つの事件で「責任能力」が問われたのは、「猟奇的」であるってことよりも、「家庭内殺人」というのか、兄と妹、夫と妻という当事者の関係性から見て「異常」ってことなのかも知れない。でも夫婦も元は他人だし、きょうだいは「他人の始まり」だったりするが(苦笑)。まあ何にせよ「責任能力」を問うというのは、裁判をややこしくするだけのような気がしてしまうのだ。

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2009年6月20日 (土)

石垣山一夜城に行く

天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原城包囲の際に築いた石垣山一夜城。関東初の本格的な織豊系城郭、つまり城といえば土の城が作られる地域に初めて登場した石垣の城を訪ねた。
今回は近ツリ系の旅行会社が主催するバスツアーを利用。豊臣軍の北条征伐における2つのポイント、関東防衛線の激戦地となった箱根山中城と石垣山一夜城を回る歴史ツアー。参加者17名、中高年中心、です、やっぱり。
新宿を朝7時30分に出発して、10時過ぎに山中城に到着。日本100名城にも選定された城とは知らなんだ。山の地形を利用した曲輪の配置や特徴のある堀など、史跡として良く整備復元されている遺構を、歴史ガイドさんの話を聞きながら、3時間かけてほぼ端から端まで歩いて回った。

P1030055 昼食後、小田原に移動して石垣山一夜城へ。1時間程で二の丸、井戸曲輪、本丸などを見て歩く。写真は二の丸から見た本丸の石垣。山城ではよく見る眺めとはいえ、結構高い山の上に大きな石が大量に積んであるのは、やっぱり驚き。小田原城を見下ろす標高約260メートルの笠懸山に、将兵約4万人を使って天守と石垣のある城を2ヵ月半程で作り上げ、完成と同時に周囲の木を切り払い、一夜で出来たように見せたことから、俗に「一夜城」といわれる。本丸の天守台からは、現在の小田原城(復興天守)が望める。背景の市街地に埋もれるような感じだけど。(下の写真)

P1030060 この城のデモンストレーション効果は大きく、小田原本城が包囲されている間に関東の各支城が次々に落とされていたこともあり、北条氏は戦意を喪失。6月26日の一夜城出現から2週間程で降伏した。関東の制圧からほどなく東北も平定されて、ここに秀吉は天下統一を達成した。
ところで石垣山一夜城の縄張りは、肥前名護屋城と似ている、らしい。小田原攻めの兵20万人と物資の大量動員も、朝鮮出兵の「演習」だったとも考えられる、らしい。既に秀吉の野望は「天下統一後」に向けられていた。

まあとにかく石垣山一夜城、関東における「石垣の山城」として貴重な城跡と実感。

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2009年6月14日 (日)

丸岡城に行く

現存天守を巡る(その四)は、丸岡城。福井県にあるこの城は、現存12天守の中ではロケーション的に、弘前城と同じくピンポイントで行くしかないお城。

P1030009 夏場の朝は早くから明るい。5時台に目が覚めたので、眠気の残る身体を何とか動かして6時26分東京発のひかりに乗車。米原に8時49分着。特急しらさぎ(自由席、運賃2770円)に乗り換えて、ほぼ10時に福井着。駅の西口を出て少し歩き、京福バス11番乗り場から「本丸岡」行きに乗る(10番乗り場からもバスがある。土休日は各コース一時間に1本)。とにかく45分前後乗って「本丸岡」の次に「丸岡城」バス停に止まる(運賃640円)ので、そこで降りれば小高い丘の上にある天守が目に入る。

P1030014 日本最古の天守、丸岡城。天正4年(1576)に作られたとのこと。築城の際に人柱となった女の墓を立てて霊を慰めたとか、井戸の中に住む大蛇が霞を吐いて城を隠したとか、ちょいとおどろおどろしい言い伝えが残る。2層3階と小ぶりな望楼型天守の佇まいは何とも渋い。内部に入ると、例によってめっちゃ急な階段。ぱっと見、傾斜70度はありそうな。階段付近の天井からは、上り下りの助けに太いロープも垂らされている。

P1030029 400年以上もよくぞ残ったと言いたいところだが、戦後に地震で一度倒壊してしまった過去を持つ。天守内部及び近接する資料館に、倒壊時の写真が掲げられている。説明文には「昭和23年6月28日の福井大震災により、天守閣は西北隅に転落散乱し、その上に三階の屋根の一部がわずかに原型を留めるに過ぎない悲惨な状態に陥った。天守閣復興事業は、23年暮より解体作業に入り古材を活用して時代色保持を方針として、30年3月に完成した。」とある。6年以上かけて再建した訳で、戦前に「国宝」指定を受けていた(現在は重文)こともあるのだろうが、「残った」というよりは「残した」、地元の人々の尽力の賜物であると感じる。

帰りのバスは福井市内の「田原町」という所で降りて、えちぜん鉄道に乗り、アテンダントさんの夏の制服をチェックして(3年ぶりに色デザインを変えたと聞いたもので)、福井駅に戻った。って何なんだ、それ。

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2009年6月12日 (金)

ダザイとハルキ

ブームの様相を呈する村上春樹の新作「1Q84」。その「波及効果」も広がっている。

本日付日経新聞(消費面)によれば、小説の冒頭で主人公が購入するチェコの作曲家、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」CDに注文が殺到。題名から連想されるジョージ・オーウェル「1984年」はもちろん、作中引用されたチェーホフ「サハリン島」も販売急増。「海辺のカフカ」など過去の村上作品も快調に売れ行きを伸ばしているとのこと。

村上春樹の人気が高いのは分かるにしても、書物の売れ方としては何かちょっと異常かなあ、と感じる。

同じ日経新聞(東京版)には、三鷹市が「生誕100年」太宰治のブームに沸いている、との記事。太宰は30歳過ぎから死ぬまで三鷹で過ごした。そのゆかりの地には、入水自殺した玉川上水や墓があるほか、昨年3月には「太宰治文学サロン」も開設されて多くの訪問者を集めている。太宰は作品だけでなく、作家の人間、生き方そのものに魅かれる熱烈なファンが多い。生誕100年を記念して、市内の各所では講演、朗読会、演劇などイベントの予定が目白押しとなっている。

もうすぐ6月19日の「桜桃忌」。しかし太宰治・・・いかにも古いな、と思う。いまの若い人は太宰をどう読むのか、少し不思議な気がする。

しかししかし、さはさりながら、文学不毛の時代の中で、スタイルも題材もまるで違う二人の作家が衰えない人気を保っているのは、それなりの理由があるのだろうなとは思う(・・・だって今は読まないけど、昔は僕もいちおう読んでたしね)。

結局、文学(小説はじめ「作品」としてもたらされた、言語による表現活動)に対して人が基本的に求めるものは、センチメンタリズムなんだろうな。二人の作家は素晴らしく上等なセンチメンタリズムを読者に提供する。村上春樹のとてもスタイリッシュなセンチメンタリズム。太宰治は(今となってはやや昔風の)青春文学の代名詞でもあった訳だから、これはもうセンチメンタリズムの王道を行ってたのは間違いない。

センチメンタリズムとは単なる感傷ではない。「この世は訳の分からないことばかりだけど、それでも僕は生きていく」という決意なのである。

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2009年6月 8日 (月)

雑誌「大航海」終了

人文思想誌「大航海」が、この5日発行号で終刊となった。いわば「ニューアカ」系の最後の砦?が消えたことになる。当初隔月刊で出発、その後季刊に移行して通算14年以上続いてきた、この雑誌の終了は何を意味するのか。昨日7日付日経新聞の読書欄コラム記事(雑誌休刊が物語る虚無)からメモしてみる。

新書館の編集主幹として「大航海」に携わる文芸評論家の三浦雅士は「人文関係の雑誌で『売れないからやめる』という考え方は本来、ありえない」と打ち明ける。

だとすれば、深層には何があるのか。三浦は端的に「世界の変容」と語る。「経済が文化の下部構造という位置づけを超えて全面化し、文化は顧みられなくなった。この地殻変動の衝撃はあまりにも大きく、あまりにも深刻」

三浦の見方によれば、人が生き方の規範や価値、知的な楽しみを活字メディアに求める時代は過ぎ去った。かつて「現代思想」や「ユリイカ」といった雑誌の編集長として「ニューアカデミズム」ブームをけん引した手応えと現在の感覚はかけ離れている。「以前は浅薄だったかもしれないが、うねりを起こすことはできた。今はどんな特集を仕掛けても反応が薄い」という。

・・・「経済の全面化」という言い方は、自分にも実感がある。80年代中頃のポストモダン、ニューアカデミズム・ブームの後、バブル経済が出現し、エコノミストの語る言葉に多くの人が耳を傾けるようになった。いわばエコノミストが「思想家」と化したのであり、「世界認識の方法」の中心は人文知から経済的な知へと移った。その傾向はバブル崩壊後の90年代も続き、日本型経済システムの見直しについて、エコノミスト中心に百花繚乱の議論が繰り広げられた。それは金融危機でピークを迎え、その後世の中の動きは、いわゆる「新自由主義」的な経済政策や企業経営へと舵を切っていくことになる。

一方で人文知自体も、既にかつての「教養」の主役の座を失っている。教養とはほぼイコール「古典」と言えるだろうが、次から次へと新たな「知識」が生産されて「情報」として流通し処理される昨今では、そもそも「教養」自体が成り立たなくなっている。むしろ人は実用的知識を仕入れることに日々追われている。「脳」や「DNA」についての知見が幅を利かす世の中で、いわば「(近代的主体としての)人間は死んだ」(フーコーの言葉)のであれば、その人間観に基づいた人文知もまた衰退していくのは避けられないだろうという感覚はある。良し悪しではなく。

ただ今回の不況で「新自由主義」的な経済の考え方が曲がり角を迎えたのならば、そこに人文知による社会批判が拠って立つ場所が出来たのかも知れない、という気は(少しだけど)する。

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2009年6月 7日 (日)

ハードロックとクラシック

先日、音楽評論家の黒田恭一氏が亡くなった。小生はクラシックはホントにたま~にしか聴かないため、氏の本業における功績がどれほどのものか正直言って分からない。が、氏はハードロックとクラシックの接点を語れるという、その一点だけでもう充分すぎるほど記憶に残る評論家なのであった。月刊のロック雑誌「BURRN!」に「クラシックボックス」というコラム記事を20年以上、連載。ロックファンへのクラシック「啓蒙」に多大な功績があったのではないかと思う。以下のメモは、企画ものCDとして(もう20年も前になるのか)製作された「クラシックス・フォー・ヘヴィメタル・キッズ」解説書掲載の酒井康との対談から。

酒井:様式的にヘヴィメタル(HM)とクラシックって、近い所があるような気がするんですが、先生いかがですか?
黒田:うん、近いと思いますね。このクラシックス・フォー・ヘヴィメタル・キッズのシリーズで取り上げられた曲目は、これといった傾向というのは必ずしもない訳ですけれど、敢えて言えば、モーツァルトとかハイドンといった優雅な音楽っていうのは彼等の中に残り難いんじゃないかって気がしますね。逆にバッハなんかはすべての音楽の骨格みたいなものですから、どういう風にやっても音楽になるっていうことで残り易いと思う。
HMで持ってくるクラシックの音楽というのは、HMと同種類の熱狂を内にはらんだものが多い訳です。一番いい例が「威風堂々」ですよ。これ、ロックにはうってつけの音楽だけれど、HMにはエネルギーの噴出が必要不可欠な訳で、クラシックのレパートリーの中には、それと近いものがたくさんあると思いますよ。

酒井:先生は何でHMに肯定的なんですか? 普通、クラシックの評論家の方はHMなんて聴くことありませんよね。
黒田:肯定的っていったって、否定的になる理由なんてないし・・・・・・。ひとつだけ誤解のないよう言っておきたいんだけれど、ぼくはHMにクラシックの引用があるから好きなんじゃないですよ。確かにクラシックのファンの方はクラシック以外、何も聴かないっていう人も多いけれども、ぼくの場合、酒井さんにACCEPTっていうバンドを聴く機会をつくっていただいたっていうこともあって、クラシックで味わうのと同じ種類の熱狂をHMに見つけることが出来た訳ですよ。これはやはり、HMとクラシックが音楽の魅力として共通するものを多く持っているっていうことなんじゃないかな。

・・・来月の「BURRN!」誌には、おそらく追悼記事が出るのだろうな。小生も哀悼の意を表したい。

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2009年6月 6日 (土)

ナンバー2武将に学ぶ

雑誌サピオ(6/24号)で、童門冬二と松平定知が「ナンバー2戦国武将」をテーマに対談。黒田官兵衛と直江兼続の部分からメモ。

松平:私はナンバー2の武将のなかでも黒田官兵衛の生き方が好きなんです。副官として主君を動かし、日本を動かしたナンバー2の武将としては戦国最強だった。
童門:官兵衛は信長や家康からも日本一頭脳の鋭い男だと警戒されています。秀吉にしても同様です。あまりに優秀過ぎる部下は警戒されますからね。大坂城でたわむれに、「俺が死んだら、次に天下を狙うのはだれか」と周りに聞くと、「徳川だ」「いや、前田利家だ」とみんな言うわけですが、秀吉は「違う」。「九州にいる、頭のはげた足の悪いヤツだ(官兵衛のこと)」と言う。それほど警戒していた。
松平:官兵衛はその話を聞いて秀吉の思いを察知し、すぐに家督を息子の長政に譲り、頭を剃って出家し、如水と名前を変えて隠居しましたね。しかし、いざ関ヶ原となったら、彼は立つんです。如水はナンバー2に徹して主君に仕えただけでなく、ことあらば、ナンバー1にもなろうぞという男の野心も見せた。

松平:童門先生は、おそらく日本で一番最初に直江兼続に注目なさった方なんですよ。
童門:私が直江について書いたのは20数年も前ですけどね。彼は26歳のときに石田三成と盟友の約定をしたんです。だから、義を重んじる立場から関ヶ原で石田に味方せざるを得なくなった。西軍が負け、会津120万石から米沢30万石に減らされた。
松平:収入が4分の1になるというのは大変なことですね。
童門:ええ。直江はまず給料を4分の1に減らすという原則を立てるんですが、上に行くほど減給率を高くし、下の者が生活できるように配慮した。次に、士農工商を身分制度ではなく職業区分にした。武士でも農業の技術や知識があるなら農業をやり、物作りが得意なら工の世界へ行けと。生活環境、企業環境が変わったら、意識改革をして新しい生き方をすることを求めたのです。私が直江兼続に見る非凡はそこなんです。

・・・黒田は野心を内に秘めていたし、直江の能力は主君を上回る印象もあるので、どちらも「ナンバー2」としては、やや出すぎた感のある人物。リーダーをフォローする役割に徹したという意味では、豊臣秀長(秀吉の弟)が「ナンバー2」のお手本かも知れないと思い浮かんだ。

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