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2009年5月 6日 (水)

資本主義と歴史の「反復」

柄谷行人 政治を語る』(図書新聞)は書名が示すとおり、評論家柄谷行人へのインタビューをまとめた本。第三章「現状分析」からメモ。

僕がいう反復は、構造的なものです。資本主義には反復的な構造があります。景気循環がそうです。恐慌・不況・好況・恐慌――。なぜこのような循環があるのかといえば、資本主義経済は、その発展において、恐慌と不況を通して、暴力的な淘汰と整理をするほかないからです。だから、この反復はいわば反復強迫的なものです。

恐慌よりも大事なのは、そのあとの慢性不況です。
現在の事態は1929年に似ているというのは、さまざまな意味で、まちがっています。というのは、第一に、1930年代は、アメリカが没落するどころか、アメリカがイギリスに代わって、覇権を握ることがはっきりした時期だったからです。
第二に、1929年の時点では、自動車・電気製品などの耐久消費財への移行が起こりかけていた。大量生産・大量消費という時代がそこからはじまったのです。
しかし、今後の慢性不況にはそのような可能性がないのです。

レーニンは、帝国主義段階を歴史的に特徴づけることとして、「資本の輸出」をあげています。資本は、国内市場だけでやれなくなったために、グローバルな市場を求めて外に出る。ハンナ・アーレントは、1880年代に顕在化した帝国主義を、国家-資本がネーション(国民)の軛から解放されることだと述べています。つまり、国家はネーションの要求を斥け、自国の労働者を見捨てて海外に向かう資本を制度的・軍事的に支援したわけです。ネオ・リベラリズムに生じているのは、それと同じことです。

1990年以後、新自由主義というか、ネーションを犠牲にした資本と国家の運動が続いたわけですが、それが破綻したからといって、資本と国家が終わるわけではない。新自由主義がもたらした階級格差、さらに慢性不況という現実のなかで、結局、人が行き着くのは、国家によってそれを解消しようというものです。

慢性不況で、人が国家による援助や介入を求めるのは、ある意味で、当然です。しかし、僕は、それは真に社会主義的な方向には向かわないと思う。それは、実際は、国家資本主義です。

国家を抑え込むには、国家に対抗できるような「社会」が強くないとできません。僕が社会主義というのは、そういう意味ですね。

僕は80年代に、「単独者」というようなことをいっていました。単独者とは、他人と連帯できる個人をさすのです。単独者が創る共同体が、アソシエーションなのです。

アソシエーションを創ること。それがとくに日本では大事なんだと思います。個人(単独者)はその中で鍛えられるのです。日本では、もっと「社会」を強くする必要がありますね。そして、それは不可能ではない、と思います。

・・・このほか、「資源と市場をめぐる国家-資本間の対立が世界戦争につながる可能性がある」とか、「現在の日本は、国家官僚と資本によって完全にコントロールされている専制国家だ」という刺激的な発言も目に付く。その妥当性はともかく、今回の「経済危機」については、回復時期や対策など政治経済的に論じるのとは別に、「我々はどこにいて、どこに向かうのか」という歴史哲学的な事柄を考えるきっかけにもしたいものだ。

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