批評の無力、希望の不在
雑誌「朝日ジャーナル」が「怒りの復活」だそうだ。17年ぶりの復刊号から、とりあえず浅田彰、東浩紀、宇野常寛の鼎談を読んでみる。浅田と東の発言をメモ。
浅田:ネットで誰でも発信できるようになったことで、大文字の批評家はいらなくなった。書評でも、本屋の店員がポップを立てる、さらにアマゾンで読者がコメントを書く、というふうになる。そこで批評が雲散霧消したのは、メディアの変化による必然でもあるわけよね。
東:今は経済しか話題にならない。どうしてそうなったかといえば、それはやはりイデオロギーの時代の終焉、冷戦構造の崩壊まで遡るわけで、批評の衰退といっても、ここ20年くらいかけてどんどん衰退していったものが、末期にきているだけではないですかね。社会全体がカネの力しか信じていない社会で、嘆こうがなんだろうが、その社会は続くだろうし、こういう状況を批評で打ち破るのにどうすればいいかと言われても、すごく難しいことだと思いますね。
浅田:まったく希望がないのに戦い続ける大胆さ。
東:今は希望がない世界をいかに生き抜いていくかを考えるべきで、大胆に希望を語っても摩耗するに決まっている。
・・・最近の「池田信夫blog」でも、「すべての対立軸が溶解したいま必要なのは、ニーチェが説いたように、希望が存在しないという根源的不安に向き合うことかもしれない」と記されていたのだが、しかし「希望」ってそんな大層なものか? 大文字の批評が要らなくなったように、大文字の希望も消えたのだと思って特に不都合は無い。
別に希望なんか無くても生きていける・・・というのは言いすぎだけど、現実には「ささやかな希望」を持って人は生活しているはずなので、希望のない世界で生きねばならぬ、という力を込めた言い方には、屈折したヒロイズムの匂いを感じてしまう。
もちろん、「ささやかな希望」ですら抱くのが難しいのだとしたら、そんな社会はおかしいと声を挙げなければならないのだが。
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