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2009年3月30日 (月)

映画「ワルキューレ」

ヒトラー暗殺未遂事件を描いた映画「ワルキューレ」を観た。昨秋、予告編を見た時には、有名な事件の本格的な映画化という印象から期待感もかなり高まると共に、トム・クルーズ主演のハリウッド映画ということで、どこまで脚色が入るものか少々懸念めいた思いも抱いていたが、実際見てみるとかなりマジメな作り方になっていて、その辺はやや意外というか安心したというか。

この事件の映画というと、自分はソ連映画「ヨーロッパの解放」の中で映像化されたものしか観たことがない。独ソ戦を「再現」したこの映画は、自分には基本的な参照資料となっていて、ナチスドイツ関係の映画(最近では「ヒトラー最期の12日間」)が公開されると、まず比較対照する作品だ。「解放」(DVD全3巻のⅡ・大包囲撃滅作戦)では、全篇130分のうち後半の30分で1944年7月20日当日の事件を再現。主要な戦闘場面よりも見所になっていると思う。今回の「ワルキューレ」は、暗殺実行者のシュタウフェンベルク大佐に焦点を当てながら、周辺人物も含めて、より詳細に事件の経緯を描き出している。暗殺失敗という結末は史実として分かっている観客にも、反乱者たちの緊張が同時進行的に伝わってくる仕上がりだ。

それにしても「ヒトラー最期の12日間」に続き、今回のゲッベルスも何か違うな~って感じ。インテリっぽくなきゃダメだよ。やっぱり「解放」のゲッベルスさんがベストだな。

最初の方のアフリカ戦線シーンにドイツ4号戦車が置いてあって、本物みたいに見えるんだけど、既存戦車の改造らしい(こちらを参照)。確かに本物よりキャタピラが幅広になってるけど、全体的によく出来てる。

終わり近くの裁判シーンでは、映画「白バラの祈り」でも登場した人物、フライスラー裁判長が例によって強い口調で被告を責め立てていました。

「白バラ」抵抗運動の学生たちも、「7月20日事件」のクーデター首謀者たちも、愛国的な信念から行動を起こしたものの不運にも失敗し、新しいドイツを見ることなく命を奪われた。その無念と絶望の深さは、我々の想像などはるかに及ばないものだろう。

この暗殺・クーデターが成功していたら、当然ヨーロッパの戦争終結は早まり、日本の戦争遂行意欲にも影響を与えたに違いない。もしかすると、日本に原爆が落ちることもなかったのではないかと考えると、この事件に対して無関心ではいられない。

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2009年3月29日 (日)

先進的大衆国家ニッポン

あらためて世界を見回してみれば、日本は特異な進化を遂げた社会なのかも知れない。『格差社会論はウソである』(増田悦佐・著、PHP研究所)からメモ。

世界中で約200の国や地域がある。そのうちで、人口が1億人を超えている国は、たった11ヵ国しかない。人口の多い順に列挙しておけば、以下の通りだ。中国、インド、アメリカ、インドネシア、ブラジル、パキスタン、ロシア、バングラデシュ、ナイジェリア、日本、メキシコ。この11ヵ国のうちで、日本とアメリカを除く9ヵ国は、国民一人当たりの国内総生産が日本よりはるかに低い。一億人クラブのメンバー諸国の中では、アメリカと日本だけがこれだけ大勢の国民が平和で豊かな暮らしをエンジョイし、ひとりひとりが持っている能力を目一杯発揮できるような社会を築いているのだ。

日本の大衆は、敗戦以降一貫して知的エリートの支配を脱却した真の大衆社会を構築してきた。日本人はすでに戦後60年あまりにわたってポストモダン社会を生きている。ポストモダン社会とは何か? 知的エリート支配という、あらゆる階級支配の中でもいちばん厄介な階級支配のくびきから大衆が解放された社会だ。

大衆が知的エリートから主導権を奪ったことによって欧米諸国が防げなかった排除型社会への転落を阻止した日本は、世界で唯一の包摂型社会を持つ先進国、つまり社会から、あれやこれやの少数派を切り捨てていくのではなく、みんな仲良く仲間に入れて、社会を形成していこうとする国だ。だからこそ、日本が直面する最も深刻な課題は、いじめ・自殺なのだ。包摂型社会の抱える「少数派」問題は、排除型社会の少数派問題より根が深い。知的エリートの支配を受けない本物の大衆社会に特有の問題を解決することは、世界でただ一国「現代史」に足を踏み入れてしまった日本だけが背負った課題でもある。

日本はまだ差別社会、偏見社会であって格差社会ではない。根拠のない差別、偏見であるうちに格差社会への芽を摘み取れば、一億人クラブの優等生日本はもっとすばらしい国になる。世界でただ一国すでに現代に突入している日本が、お手本のない課題を解決したあかつきには、前人未踏の豊かで共感に満ちた社会が待っている。

・・・かつての吉本隆明の「大衆」、飯田経夫の「ヒラの人たち」なんて言葉も頭の中をよぎるが、いすれにしても、意欲や能力の高いフツーの人がたくさんいる、ってことが日本の強さの基盤なんだろうから、それは何があっても維持していかないとまずいんじゃないかと思う。

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2009年3月28日 (土)

リスクヘッジという幻想

やっぱり、金融工学によるリスクヘッジは疑わしい。少なくとも過信は禁物。『リスクをヘッジできない本当の理由』(土方薫・著、日経プレミアシリーズ新書)からメモ。

金融工学では、価格変動も(サイコロの動きと)同じような規則性をもっていると考えている。すなわち、市場価格の変化率とその発生頻度をプロットすると、それが正規分布になるとしているのだ。

価格モデルはあくまでも理論上のモデルであるため、現実をそのまま反映するわけではない。つまり、価格モデルには限界がある。ひとつは、価格モデルによるシミュレーションによってできあがった価格分布が正規分布に従うと仮定していることである。

(実際の市場は)全体的には、それとなく正規分布に近似しているのだが、価格下落方向に正規分布から大きく外れた値が出現する。理論値には現れないような異常値が、もっとも用心しなければならない価格下落方向に多く発生している。しかし現実的には、私たちが日々経験するほとんどの価格変動が、正規分布の範囲内に収まってしまうため、市場が平常である限りにおいては、金融工学者が描いたとおりに価格は変動してしまう。しかし、市場が常に平常であるはずがない。

価格モデルに対する二つ目の問題は、過去のデータに基づき将来の価格のブレの大きさ(ボラティリティ)を見積もっていることである。過去の価格の値動きから、将来の値動きのブレを予想するのだ。

本当に、過去から将来が覗けるだろうか?
どう工夫しようが、熱しやすく冷めやすい非合理的な市場と、心理的バイアスに蹂躙されたトレーダーの行動と、そしてこれからの新たに発生する未体験の値動きを映し出すことなど、できやしないのである。

これまで市場から撤退を余儀なくされたトレーダーは口をそろえて、「予想外のことが起こった」といってきた。では、この予想外のこととは何なのか。それは「不確実性」のことだ。つまり、私たちが市場で相手にしているのは、リスクではなく不確実性であるということだ。リスクは将来の出来事に対してあらかじめ確率分布が与えられており、リスクはそのなかで収束する。一方、不確実性は確率分布の情報がないため、市場は常に不安定で、価格がどう動くかは約束されていない。もし市場にリスクしか存在しないのであれば、市場が崩壊することなどないだろう。

どうあがいても、私たちは市場のことを何もわかっていないようなものだし、市場のことを知る術もたいして持っていない。結局のところ、私たちは何ひとつわからないまま市場経済のなかに放り込まれている。

・・・結局、将来のことは分からない。ひとたび不確実性と異常値の支配する局面に巻き込まれてしまったら、いずれ物事は平常に戻ると腹を括るしかないんだろうな。

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2009年3月25日 (水)

中国で北海道ブーム

今日の日経新聞市況欄コラム「大機小機」の冒頭は「おやっ」と思わせるものがあった。北海道を舞台にした中国映画が大ヒット、という話題を取り上げていたからだ。この映画の話は何かで見た覚えがあるなあと探したら、「週刊東洋経済」2月7日号の記事(P90~91)だった。何しろ、あの「レッドクリフ」をしのぐ大ヒットだというから、只事ではない。とりあえず以下に「大機小機」からメモする。

世界的な経済危機のなか、中国で北海道ブームが起きている。きっかけは正月映画として大ヒットした「非誠勿擾(フェイチェンウーラオ)」で知床や阿寒湖など北海道東部も舞台になったからだ。
映画の邦題は「誠実なおつき合いができる方のみ」。中国で結婚の相手を本気で募集するときの決まり文句である。中国版“婚活”のラブコメディーだが、銀幕の雄大で美しい大自然が評判となり、今年に入って北海道ツアーが急増しているという。経済が厳しさを増している北海道にとっては、中国映画が図らずも景気対策につながった。

日中両国の往来は1972年の国交正常化当時、年間1万人にも満たなかったが、既に500万人を超えている。日本の観光業はもはや中国人なしでは成り立たない時代に突入した。それどころか、中国人が世界中を巡る「大旅行時代」を迎えている。海外旅行者は昨年、前年比11.9%増の4500万人強に達した。中国人の海外旅行熱は世界経済の回復にも役立つ。

・・・内需の盛り上がらない日本としては、アジアの需要を取り込むためにも、輸出だけでなく観光にも本腰を入れて取り組まないといかんな。まあとにかく、この映画は必見だろう。日本公開が待ち遠しいのであった。

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2009年3月24日 (火)

国宝4城を巡る旅

先週末、国宝4城を少々駆け足ながら2日間で回ってきた。今年秋までの達成を目指す現存12天守訪問、(その一)です。

20日(金・春分の日)
P1020597 まずは4城の中で最も西にある姫路城目指して、朝6時50分東京発のぞみに乗り込む。乗車中の天気は概ね曇または雨。しかし東に向かう雨雲とは逆方向に進んで、10時に姫路に着いた頃は晴れに。駅から見えるお城を目指して真っ直ぐ北上。徒歩20分程で着く。自分が訪ねたのは10年以上も前なので、初めてに近い感覚。やはり天守は非常にデカい。さすが世界遺産、登城者多数。大天守に上った後は、西の丸にある長い櫓の中にも入ってみた。

P1020631 見学後、12時51分姫路発のひかりに乗車。新大阪でこだまに乗り換え、午後2時25分米原着(駅が改造されてた)。在来線で駅を一つ戻る格好で彦根へ向かい、駅から20分程歩いて3時前に彦根城に到着。入場券売り場に隣接する博物館の前で、「ひこにゃん」が愛嬌を振りまいていた。彦根城に来るのは3年ぶり。ここでも天守見学に並ぶ。播州は暖かく感じたが、近江は寒い。天守から下りてきた後は、お城の出入り口にある多聞櫓の内部も公開されていたので、ざっと見る。5時過ぎに彦根駅に戻り、JRに乗って東へ。岐阜で降りて夕食後、名鉄を使って夜8時過ぎに犬山着。当地で一泊。

21日(土)
P1020641 天気は晴れ。朝一番で犬山城へ。午前9時の開城時間前でも入れてくれた。ここに来たのは5年前。「JR東海さわやかウォーキング」のコースだった。さすがに姫路や彦根に比べたら人は少ないが、それでも朝から訪問者は途切れることなく続く。人が少ないと、天守内で行列しなくていいので有り難い。天守の最上階では外に出て回廊を歩けるので眺めは良いが、ちとコワくもある。

お城を後にして、古い町並みの風情が残る本町通り(道路の整備工事中だった)から犬山駅に向かう。20分程歩いて10時頃駅に着く。ここから名古屋に出るのもあるが、今回は新可児に向かい、隣接している太多線可児駅からJRに乗り換え。中央線の多治見まで行き、特急しなの号に乗車した。約1時間40分後の午後1時過ぎに松本に着く。

P1020646 駅から市内を20分程歩いて、目指す松本城に到着。ここは自分は全く初めてのお城。これまでの3城が平山城だったせいか、お堀と天守閣の取り合わせが新鮮な感じ。しかしここも登城者多数。行列して進み、急な階段を上り下りする。天守内部には鉄砲の歴史が展示されていて、これはなかなか面白いんじゃないかと思った。

帰り道は、お店が並ぶ「なわて通り」「中町通り」を回って駅に戻り、夕方4時58分松本発の特急「スーパーあずさ」で帰京。以上、国宝4城を巡る旅でした。移動は新幹線と特急が大部分だったので、交通費結構使ったなあ。(概算3万4千円)

しかし有名城に行くなら、平日に休暇を取る方が良いのかなと思う。お城見学の記憶が、行列して上り下り、というのはちと味気ない感じなので・・・。

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2009年3月22日 (日)

「貧困」を生む社会

湯浅誠と堤未果の対談を中心にまとめられた『正社員が没落する』(角川ONEテーマ21新書)は、それぞれの著作である『反貧困』『ルポ 貧困大国アメリカ』のどちらも読んでないワタシにとっては、お得感のある一冊(苦笑)。以下に両者の発言からメモ。

湯浅:日本のすべり台社会はセーフティネットが崩壊しているので、いちど転落した人は、ホームレスのラインまで堕ちてしまう。
ヨーロッパの社会保障は公的セーフティネットがしっかりしている。アメリカの公的セーフティネットは日本以上にひどいですが、民間のセーフティネット(NPO、教会)がそれなりに頑張っている。
欧米では、失業してもセーフティネットがあるから、そのまま野宿に直結するなんてことはないんですね。でも日本では、失業=ホームレスになる。

:国が社会保障を削り、企業が労働者を人間ではなく低コスト労働力というモノ扱いして切り捨てる。それは国民を捨てていることと同じ。企業の生産性や国力を損なう大変なロスだということに、全ての人々が気づく必要がありますね。

湯浅:40代、50代になって賃金のピークに達する賃金体系は、子供が十代から十代後半にさしかかると家計負担がピークになる。日本の支出というのは、山型なんですね。それに対応してきたのが年功型賃金だと思うんです。年功型のカーブは下がってきている。しかも社会保険料は上がり続けていますから、支出の山型カーブはきつくなってきている。この異常な高コスト体質を、もうちょっと下げていかないと、「正規、非正規、どっちにしたって暮らせないよね」ということです。

:正規も非正規もバラバラに見てる場所をコストの高い部分に向けたら、支出の山型を減らすという同じ目標ができますね。

湯浅:「貧困」は、公的ネット、家族のネットと地域のネットの問題を考えるきっかけになります。また、日本の極端に低い政府の教育費負担の問題や、異様に高い公共事業費。この分配構造を見直す必要まで考えなければなりません。

:政治家には、何を芯にして国を作るのかというビジョンをまず示してほしい。日本という国が世界に向かって誇れるような価値観が、真ん中に一本通っているかどうか。それを見極めるために必要なものは、今起きていることについての正確な情報と、それを中立的な視点から報道するメディア、そして何よりも連携です。

・・・「人間に投資しない国は滅びる。人間への投資が社会の活力につながる」という見解で二人の認識は一致。また、アメリカの貧困問題について堤は、「最重要課題は医療改革」と指摘。「民営化/市場原理」の波に呑まれて日米両国の生み出した「貧困」は、それぞれの社会の構造問題の在りかを、グロテスクなまでに露にして解決を迫っているように見える。

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2009年3月17日 (火)

「貧困」を放置するな

今週の「週刊ダイヤモンド」(3/21号)の特集は「あなたの知らない貧困」。記事の中から識者のコメントをメモする。

経済学者の中谷巌は、貧困層切り捨ては日本企業の弱体化につながる、と指摘。

戦争を繰り返し、奴隷制度による階級社会を是としてきた欧米と違い、日本は歴史的に中流階級が国民の多くを占めてきた。企業でも一部のエリートが従業員をこき使うのではなく、社員は平等。だから、現場が強い。だが、「構造改革」「グローバルスタンダード」の名の下に貧困層を切り捨てれば、日本企業の強みである従業員の能力は大幅に低下していくことになる。

貧困を放置すれば日本経済を支える人材が劣化するという危機意識を、社会学者の萱野稔人も共有する。

貧困問題のなかで最も深刻なものの一つが、貧困の世代間連鎖だ。国民全体を底上げするような、平等な教育機会を整えることが、この問題の解決につながる。
日本経済の基礎にあるのは、ものづくりの技術とイノベーションを支える優秀な人材の層の厚さだ。日本の経済力を支えるためにも、教育格差を下から縮めるような貧困対策が必要だ。

作家の佐藤優も、貧困は労働者の質を低下させて資本主義を崩壊させると語る。

資本主義では、ある程度の格差が出るのは当然のこと。むしろ、それが活力の源泉になる。しかし、今の日本で問題になっているのは「絶対的貧困」だ。マルクスの『資本論』によると、①衣食住とレジャー費用、②家族を持って子ども(次世代の労働者となる)を産んで育てる費用、③技術革新に伴う自己教育費、の三つを賄えるだけの賃金がなければ、労働者の質が低下し、資本主義は崩壊してしまう。

・・・貧困の放置は人材を劣化させて経済社会基盤の毀損につながる。とすれば、貧困は当然のように政治が対処するべき社会的問題である。

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2009年3月16日 (月)

世界不況と日本の宿題

日本経済は、構造改革も株主資本主義もまだ足りない。「集中講義・金融危機と経済学」との副題が付いた『なぜ世界は不況に陥ったのか』(池尾和人、池田信夫の共著、日経BP社)から、まず「第6講 危機後の金融と経済の行く末」の池尾発言をメモ。

輸出型の製造業だけが生産性が高く、国内市場でのみ活動している産業については生産性の水準は高くないし、伸び率も低い。そうした構造は、80年代以降、何ら変わらない。われわれは何も問題を解決してこなかった、何の構造改革も実はやってこなかったということだと思います。

日本経済は深刻な体質改善を必要とするような疾患を抱えている。要するに投資機会不足病とでも言うべきものです。国内の貯蓄を国内での投資に使い切るだけの投資機会が不足しているために、貯蓄超過になって経常収支が黒字になっています。

それゆえ、今回の需要不足を解決するためにも、財政出動や金融緩和による需要喚起ではなくて、投資機会をいかにして増やすかを考えることの方が重要だと思っています。これは投資機会の拡大につながるような構造改革を進めるべきだというタイプの話になります。経済を実力通りの姿にもっていく(振れの縮小)のが、金融政策とかの役割です。しかし、経済の実力そのもの(水準)を向上させるのは、構造改革の課題です。

次に「エピローグ」(池田)からメモ。

現在の需要ショックには一時的な要因もあるでしょうが、基本的には円安バブルが突然終わったことによって日本企業の実力相応の水準に戻っただけでしょう。
こうした状況では、短期的な財政・金融政策に大した効果はありません。民間の経済主体が、自分のリスクでチャレンジするしかないでしょう。このようなチャレンジを可能にするためには、やはり資本市場の機能が重要です。

資本市場は撤退(イグジット)のメカニズムだと考えることができます。アメリカ経済を苦境から救ったのは、ジャンクボンドを使ったLBOによって企業を買収し、資本効率を高めて利益を上げる投資銀行や投資ファンドでした。LBOによってレバレッジを高めることは、資本効率を上げないと金利も払えなくなって倒産するという緊張感を作り出し、経営者を規律づけるメカニズムとして機能したのです。

客観的にみて、日本にはまだ株主資本主義が足りないと思います。産業間で物的・人的資本を移転するには、株主資本主義の原理で企業を売買する「企業コントロールの市場」が必要なのです。今回アメリカの投資銀行の教訓で、情報の非対称性などの欠陥を放置したまま市場が野放図に拡大すると深刻な問題が起こることが分かったので、そうしたルールを整備した上で資本市場を充実する必要があります。

・・・昨今「構造改革」批判の論調も見受けるが、改革修正を唱えるのはともかく、改革を否定するのは現実的とは思えない。「長期衰退をどう防ぐかという問題設定」(池田)を念頭に、構造改革で国内の投資機会を拡大し、株主資本主義で産業界の再編を進めるなど、やるべきことはやり続けなければならない、というほかない。

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2009年3月15日 (日)

カントとニーチェ

人生に生きる価値はない』(新潮社)と題された中島義道の哲学的エッセイ集を読む。なかなか面白い。書名もそうだが、とにかく実も蓋も無い書き方が中島先生の真骨頂。例えば、「すべての人は、ごまかし通すのでない限り、常に自分が死ぬことに怯え、何が正しいか悪いかもわからず、生きている意味も見出せず、虚しさを呑み込んで死ぬだけ」(「哲学と心の病」)、という按配だ。

そんな中島先生は最近、突如としてニーチェの思想が腑に落ちた、らしい。

私のニーチェとの「出会い」は、「永遠回帰」の思想がある時はっとわかったからである。それは、単純この上ない真理であって、この世の何ものもいかなる意味(目的)もない、ということ。すべては偶然である、いや偶然とは必然との関係においてある用語だから、すべてはただ生ずるだけなのだ。

だが、ほとんどの人はこのことを承認しようとしない。打ち消そうとしても、気がつくと人生に何かしらの意味=目的を求めてしまっている。そうした弱さを完全に拒否すること、それをニーチェは延々と言い続けているだけである。(「ニーチェの季節」)

そして中島先生によれば、カントはニーチェに近い、らしい。

カントが教えてくれることは、すべての「目的」は、人間理性が自然に持ち込んだものにすぎないということ。自然にも、歴史にも目的なんぞ片鱗も含まれていない。ただ、われわれ人間の眼にはあたかも目的があるかのように見えてしまうだけ。これは、もうほとんどニーチェである。

じつは、カントは一般に考えられているよりはるかにニーチェに近い。カントは神を半殺しにし、ニーチェは神を完全に殺した、とはよく言われることであるが、カントは神に致命傷を負わせ、「殺した」のではなく、「死ぬにまかせ」たのだ。

「明るいニヒリズム」は、カントとニーチェを結ぶところに発生する。それは、まずわれわれ人間に降りかかるこの世のあるいはこの世を越えるすべての事象が完全に無意味であることを認めること、とりわけわれわれが最も関心を持つ超越的対象(神、魂、自由)の意味の確定はわれわれ人間の能力を超えていることを潔く認めることなのだ。(「明るいニヒリズム」)

・・・とりあえず、形而上学に対する姿勢としては、カントは認識論的には不可能としながらも道徳的には要請したのに対して、ニーチェはより徹底的に認識論的にも道徳的にも否定した、ということはいえるだろう。

また、カントとニーチェを直接結び付けるのは違和感があるにしても、二者の間にショーペンハウアーを入れると、影響関係としては間接的に繋がることになる。カント~ショーペンハウアー~ニーチェ。これとは違う繋がりになるけど、昔、哲学を少し齧っていた頃、カント~ショーペンハウアー~キルケゴール~ウィトゲンシュタインという「系譜」説を何かで見た覚えがある。いずれも人間(理性)が確実に知ることができる限界を見定めようとした哲学者、という繋がりだ。まあ何にしても、分かることと分からないことの境界すら分からないまま死んでいくのが人間なのかな、という気もするけど。

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2009年3月14日 (土)

レーニンの「帝国主義」

「中央公論」4月号「新・帝国主義の時代」(佐藤優)連載第2回からメモ。

レーニンは、〈もし帝国主義のできるだけ簡単な定義をあたえることが必要だとすれば、帝国主義とは資本主義の独占的段階であるというべきであろう。〉と述べた。独占によって市場が歪められ、純粋な資本主義が想定されなくなるということである。この独占資本が国家と結びつくところに帝国主義の特徴がある。帝国主義の本質を植民地主義と結びつけず、資本が集中・集積の結果生じることになる「資本の独占的段階」に着目したところに、レーニンの洞察力の優れた点がある。植民地化は、独占がもたらす現象面の一つなのである。

レーニンは、帝国主義について、もう少し詳細な定義を与えている。〈すなわち、(一)経済生活のなかで決定的役割を演じている独占を創りだしたほどに高度の発展段階に達した、生産と資本の集積、(二)銀行資本と産業資本との融合と、この「金融資本」を土台とする金融寡頭制の成立、(三)商品輸出と区別される資本輸出がとくに重要な意義を獲得すること、(四)国際的な資本家の独占団体が形成されて世界を分割していること、(五)最大の資本主義的諸強国による地球の領土的分割が完了していること。〉

レーニンの帝国主義に関する定義は、決してイデオロギー過剰なものではなく、国際関係の構造を分析する道具として、現在も有効性を失っていない。繰り返すが、植民地の有無が帝国主義の本質ではない。帝国主義の本質は、一国で処理できないほどの過剰な資本を集積、集中していることである。

・・・帝国主義の本質が「資本の集中」であるならば、現代は植民地なき新・帝国主義の時代である、ということになる。最近、論者は「週刊東洋経済」の連載で、帝国主義や社会主義を高校教科書を利用して解説しているが、ここでも「高校の政治・経済の教科書は国際関係の基本概念を理解するための良書だ」と記していて、出たあって感じ。「ビジネスパーソンが手っ取り早く質の高い教養を身につけるには、教科書を徹底的に読み込め」、と強調している。

・東洋経済連載記事のメモはこちら
(「世界史」で学ぶ帝国主義) (「政治・経済」で学ぶ帝国主義)

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2009年3月11日 (水)

お城と桜

P1020590 雑誌「旅の手帖」4月号(交通新聞社)の特集は「桜と城と春温泉」。

姫路城、犬山城、彦根城、松本城の国宝4城のほか、全国10ヶ所を超える桜名所のお城を写真入りで掲載。また、上田城、高田城、松江城、白石城は周辺の温泉街も合わせて紹介している。

(現存12天守の記事もあるけど、丸亀城と宇和島城の写真と文が入れ違ってるんでないかーい)

ところで正直な話、城と桜というのは個人的にはそれ程大きくは心を動かされない風景。特に立派な天守閣と桜の取り合わせは、主役がふたつあるような印象で、かえって落ち着きが悪い感じ。その点、表紙になっている弘前城はややしょぼいというか、厳密にはヤグラである「天守」の有り様が控え目なために、城が自ずと桜の引き立て役に回っている事が、調和的で穏やかな風景を形づくっているように思える。

自分の感覚では、「天守と桜」よりも「石垣と紅葉」の方が、風情としては上位にある取り合わせなんだよね。(それは去年秋に大和高取城に行った時に感じたことであったよ)

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2009年3月 7日 (土)

現存12天守

P1020586_6 「現存天守」という括りを自分が認識したのは、ごく最近。とりあえず「国宝4城」「三大山城」は知っていたけど、江戸時代に建てられた天守の姿を現在も概ね残しているお城が全国に12あるというのは、雑誌「自遊人」3月号の特集「歴史町さんぽ」を読むまで知らなかった。12天守には、もちろん国宝4城が含まれるし、残りの8城も重要文化財の指定を受けている。

そしたら今度は「にっぽんの名城・現存十二天守」(2枚組DVD、宝島社)が書店に置いてあるのが目に入り、定価980円と安いものだから買ってしまった。弘前城、丸岡城、松本城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、高知城、伊予松山城、宇和島城の12城、各10分程度(姫路城は20分)、合計150分の映像を収録。

「自遊人」の解説(三浦正幸・広島大学大学院教授)によれば、ホントは現存10天守らしい。厳密にいうと弘前城と丸亀城は天守ではなくて櫓(やぐら)とのこと。

ウィキペディアによると戦前には現存天守は20あったが、名古屋城、大垣城、岡山城、広島城などは戦災で失われてしまった。鬼畜米英というべきか、空襲が激化しても戦争を続行した大日本帝国がアホなのか・・・。

どっちかというと山城に関心のある今の自分は、とりあえず城跡に石垣があればもう充分満足できるものだから、天守閣に対してあんまりこだわりはない。天守閣で残ってれば良かったなあと思うのは安土城だが、それは是非も無い話だし。

(といいつつ、今年は現存12天守を回ってみることを心に決めました)

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2009年3月 1日 (日)

マルクスと「市民社会」

マルクスが論じたのは資本主義というよりも市民社会だった――「池田信夫blog」2/27付記事「資本主義と市民社会」からメモ。

『資本論』で圧倒的に多く使われる概念は、資本主義ではなく市民社会である。これはヘーゲル法哲学からマルクスが受け継いだ概念である。ヘーゲルにおいては「欲望の体系」としての市民社会の矛盾は国家によって止揚されるが、マルクスは国家は市民社会の疎外態だと考え、それを廃止することによって真の市民社会を実現する革命を構想した。

つまり資本家が私的所有によって資本を独占する生産様式は、市民社会に寄生して本源的な価値の源泉である労働を搾取するシステムで、それを転倒して自立した市民が生産手段を共有して自覚的に生産をコントロールする、というのがマルクスの構想した未来社会だった。これは「強い個人」がみずからの主人になるという思想で、リバタニアンに近い。つまりマルクスは(ハイエクと同じく)きわめて正統的なモダニズムなのである。

マルクスは、階級対立を生み出さない純粋な市民社会としてのコミュニズムが可能だと考えたが、それは間違いだった。欲望を解放する市民社会は、必然的に富の蓄積によって不平等な資本主義を生み出すのである。

つまりわれわれは「不自然で不平等な市民社会が、物質的な富を実現する上ではもっとも効率的だ」という居心地の悪いパラドックスに直面しているのだ。

・・・マルクスが近代主義者であるならば、その思考に含まれるであろう人間中心主義的あるいはロマン主義的要素は、既にその限界を示している。いまや強大なシステムとなった資本主義の中で、人間はカネ=欲望の奴隷に過ぎないとしたら、マルクス的思考を見直す余地はあるとしても、その有効性に多くは期待できないような気がする。

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