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2009年1月26日 (月)

「こころ」と「無」

無宗教こそ日本人の宗教である』(島田裕巳・著、角川ONEテーマ21新書)の第四章(日本人はなぜ「無」に惹かれるのか?)からメモ。

日本人にとって、神という存在は必ずしも重要ではない。むしろ、私たちが重要だと感じているのは、「こころ」ではないだろうか。
ここで重要なことは、こころが個人のなかで完結していない点である。「こころを一つにする」という表現を思い浮かべてもらえばいい。
二人以上の人間が、同じ気持ちになって事にあたらなければ、こころは一つにならない。

こころを一つにするということは、個人と個人を隔てている壁をとっぱらうことを意味する。個人が自分だけの考えで行動していれば、とてもこころを一つにすることなどできない。

日本社会では、「利己主義(エゴイズム)」に否定的な価値が与えられてきた。自分だけの利益を考えて行動したり、自分の利害にこだわることは、間違ったこと、また卑しいことと考えられてきた。それは、村社会の原理と関連する。

まずは自分が所属する集団全体の利益を考える。それが共同体に属する人間に求められるもっとも好ましい姿勢である。共同体は一つのシステムである。そのシステムを担う人間たちが、それぞれ集団全体のことを視野に入れ、その上でこころを一つにして行動することで、システムは円滑に機能する。

こころを一つにすることを重視する日本社会では、「無私」ということが言われる。他に、「無我」や「無心」という表現もある。それぞれの意味するところは異なるが、どれも自分に対するこだわりを捨て、自分と他者を隔てていた壁を取り払う点では共通している。

一見すると、無私や無我になるということは、私を殺し、ひたすら公に奉仕する滅私奉公と同じように感じられることだろう。
自分を無にするとは、いったいどういうことなのだろうか。

日本人が無に求めてきたのは、私という小さな存在の限界を超えることである。もっと広い世界、もっと豊かな世界に出て行くことをなんとか可能にしようということのはずである。

・・・現実の生活において自分は限定されたもの、限界を持つものである。無私や無我とは、その自分を無にすることで、自分の限界を超えると共に、あわよくば自分を超えたものとつながろうとする願いを秘めた境地ということになるだろうか。そして、そのような自分を超えたものへの想いとは、宗教の根本にあるもののような気がする。

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