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2009年1月31日 (土)

天皇というお仕事

昨日30日付日経新聞で目に付いた一文。

「天皇という職務に定年はない」

言われてみれば、そっかー、天皇って結構大変だよなーと思った。

件の記事は、天皇陛下の公務等の負担軽減策発表(29日、宮内庁)を受けた解説で、引用した冒頭の文に続けて、「憲法で定められた国事行為や慣例となった重要行事などは、天皇が高齢になったからといって簡単に削減することはできない」、とある。

とりあえず『天皇陛下の全仕事』(山本雅人・著、講談社現代新書)を参考にメモ。
天皇の行為は「国事行為」「公的行為」「その他の行為」に分かれる。
国事行為は憲法6条、7条、4条第2項に規定される首相任命、法律などの公布、国会召集、大臣らの任免など。
公的行為は、外国訪問、地方訪問、拝謁、一般参賀、園遊会、賓客接待など。
平成16年の行事710件を、仕事の性質で分けると、「人と会う」53%、「事務処理」14%、「儀式・式典出席など」11%。
外国関係の仕事は24%を占める。また、行事の場所としては皇居内が8割以上と。

否応無く「生涯現役」状態なのだが、逆に言うと、極端な話、介助やら介護やらを必要とする状態になっても仕事しなきゃいけないのか、という感じで、事実上の引退の道もありにしないと、何だか非人間的な扱いじゃないかなと思ったり。

一時期、「女帝」問題で皇室典範改正の動きがあったけど、「天皇の退位」も皇室典範に拠るということなので、今度はそこんとこ改正とかどうでしょう。天皇にも自分から退位する自由がないとまずいんじゃないのかねえ。

ついでに一世一元の制も止めて、昔みたいに時々「人心一新」とか言って、元号を改めるとか。戦国ファンとしては「天正」みたいな語感のやつがいいな。(おいおい)

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2009年1月27日 (火)

「オバマ演説」の魅力

オバマ大統領の演説が人気だ。その魅力の秘密は何か。ベストセラー「オバマ演説集」の解説を担当した鈴木健・津田塾大学准教授の分析をメモしてみる。(本日付日経産業新聞記事より)

最初と最後が大事だ。「変化」「希望」と最初に分かりやすい概念を提示し、次に具体的に展開して、最後に決めのクライマックスを作る構成がうまい。ネット時代になり、人の注意が持続する時間はいっそう短くなった。簡潔な言葉を繰り返すのは的を得ている。

オバマ氏は「こう言います、願います、信じます」のように三回繰り返すテクニックも多用する。リズムが生まれ、聴衆の注意を引きつける。

主語の使い分けも戦略的だ。オバマ氏は「あなた」や「我々」を勘所よく使った。聴衆と同じ目線に立つ姿勢が共感を得ている。

・・・導入部は単純明快に、展開は具体的に、クライマックスまで持っていく構成を充分に整えておく。繰り返しの生み出すリズムの力を効果的に使う。要所要所で聴衆との一体感を盛り上げる。これらは、演説のテクニックという程でもない、基本的なハウツーとも思えるが、だからこそオバマ演説は、演説のお手本と言ってよいのだろう。とはいえ演説も人前で行うパフォーマンスである以上、話の内容に工夫が求められるだけではなく、やはり演説者その人のキャラも大きな要素。真っ直ぐに人々の心に届く演説を行う時の、オバマ大統領の勢いを感じさせる姿は、「絵になる」ということなのだろう。大統領選挙中、遊説するオバマ氏は「ロックスター」にも例えられたようだが、確かにロックのライブのように人々に感動と興奮を与えるのが、最高の演説ではないかと思える。

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2009年1月26日 (月)

「こころ」と「無」

無宗教こそ日本人の宗教である』(島田裕巳・著、角川ONEテーマ21新書)の第四章(日本人はなぜ「無」に惹かれるのか?)からメモ。

日本人にとって、神という存在は必ずしも重要ではない。むしろ、私たちが重要だと感じているのは、「こころ」ではないだろうか。
ここで重要なことは、こころが個人のなかで完結していない点である。「こころを一つにする」という表現を思い浮かべてもらえばいい。
二人以上の人間が、同じ気持ちになって事にあたらなければ、こころは一つにならない。

こころを一つにするということは、個人と個人を隔てている壁をとっぱらうことを意味する。個人が自分だけの考えで行動していれば、とてもこころを一つにすることなどできない。

日本社会では、「利己主義(エゴイズム)」に否定的な価値が与えられてきた。自分だけの利益を考えて行動したり、自分の利害にこだわることは、間違ったこと、また卑しいことと考えられてきた。それは、村社会の原理と関連する。

まずは自分が所属する集団全体の利益を考える。それが共同体に属する人間に求められるもっとも好ましい姿勢である。共同体は一つのシステムである。そのシステムを担う人間たちが、それぞれ集団全体のことを視野に入れ、その上でこころを一つにして行動することで、システムは円滑に機能する。

こころを一つにすることを重視する日本社会では、「無私」ということが言われる。他に、「無我」や「無心」という表現もある。それぞれの意味するところは異なるが、どれも自分に対するこだわりを捨て、自分と他者を隔てていた壁を取り払う点では共通している。

一見すると、無私や無我になるということは、私を殺し、ひたすら公に奉仕する滅私奉公と同じように感じられることだろう。
自分を無にするとは、いったいどういうことなのだろうか。

日本人が無に求めてきたのは、私という小さな存在の限界を超えることである。もっと広い世界、もっと豊かな世界に出て行くことをなんとか可能にしようということのはずである。

・・・現実の生活において自分は限定されたもの、限界を持つものである。無私や無我とは、その自分を無にすることで、自分の限界を超えると共に、あわよくば自分を超えたものとつながろうとする願いを秘めた境地ということになるだろうか。そして、そのような自分を超えたものへの想いとは、宗教の根本にあるもののような気がする。

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2009年1月25日 (日)

「無宗教」という「宗教」

無宗教こそ日本人の宗教である』(島田裕巳・著、角川ONEテーマ21新書)の第二章(日本人はなぜ「無宗教」なのか?)、第三章(日本人はどうやって「無宗教」に至ったのか?)からメモ。

今日の日本人が知っている仏教信仰が確立されるまでには、密教や浄土教信仰、さらには禅などが取り入れられ、それが日本人の宗教生活に深く浸透しなければならなかったのだ。とくに密教と浄土教信仰は、当時の仏教界を席捲し、日本人の信仰生活を大きく変えていくのである。

密教の修法の実践は、国家鎮護や病いの治癒、あるいは願望の成就などに効果を発揮した。密教がもっぱら現実の世界、現世における救済を目的としているのに対して、浄土教信仰は来世における救済を目的としていた。浄土教信仰が広まっていくことで、仏教は死後の世界と密接な関係を持つようになり、やがては死者を「仏」と呼ぶ、日本独自の信仰が確立されるまでになる

仏教の世界に、密教、浄土教信仰、禅が取り入れられ、豊かな宗教世界、宗教文化が形成されていくのと併行して、土着の神道との融合も進んだ。こうして神仏習合という事態が生まれ、本地垂迹説などが深く浸透していくことになる。

日本で、宗派の教えという意味ではない、一つの独立した信仰世界の意味で宗教ということばが使われるようになるのは、明治に入り、近代化がはじまってからである。
(キリスト教をモデルとして)宗教を信じるということは、その宗教だけを選び、その宗教が説く教えを実践することだと考えられるようになった。

明治の時代になるまで、日本人は仏教と神道が習合した信仰を保持しており、まだ宗教として区別されていなかった二つの世界は、分かち難く結びついていた。
(近代化以降)一つの宗教を選ぶべきだという考え方が生まれたが、神道と仏教のどちらか一つを選ぶということは難しかった。
そこに一つの方針が持ち出された。神道は宗教にあらずと、宗教の枠から外し、それを国民全体の習俗、ないしは道徳に位置づける試みがされたのだった。
こうした体制は、戦後、「国家神道」と呼ばれることになるが、これによって、従来のように、両者を明確には区別しないまま、同時に信仰することが許容されたのである。

(日本人が結婚式は神道で行い、葬式は仏教で行う)慣習の背景には、神仏習合という、長い歴史を経て形成されてきた信仰のあり方がある。決してそれは、いいかげんなものでも無節操なものでもない。それは、日本人なりに、日常の生活に合う形で、独自に形作ってきた信仰のあり方である。

・・・宗教に限らず文化の在り方は、当然ながら今と同じものが昔からあったのではなくて、長い時間をかけて様々な考え方が、いわば地層のように積み重なって出来上がってきたものだ。日本人の信仰の在り方は、キリスト教的観点からは「無宗教」と見なされるかも知れないが、そこに歴史的背景を持つ「信仰心」があることは疑いない。とすれば、むしろキリスト教的「宗教」モデルを相対化しつつ、日本人の「信仰心」の歴史的背景を深く探ることで、日本的な「宗教」の在り方もよりはっきりと見えてくるのだろう。

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2009年1月24日 (土)

『殿といっしょ』(戦国4コマ)

殿といっしょ』(大羽快、メディアファクトリー発行)という、戦国武将4コマギャグマンガの存在を自分が知ったのはごく最近で、つい先頃第1巻と第2巻を読んだところに、昨日23日付日経新聞朝刊に堂々と広告を出して第3巻発売が告知されていたものだから、「な、何と」っていう感じで思わず目を瞠ってしまった。しかも「大ヒット戦国4コマ、大好評発売中! ビジネス・自己啓発にまったく役立たない!!」って、あんたねぇ~、日経新聞にそんな広告出すなんて大胆な会社だよ、メディアファクトリー。(笑)

毎回変な眼帯作りに勤しむ伊達政宗、笑いを取ることに自信満々の秀吉、やたらに火を点けたがる信長、忍耐と我慢の道を極めようとする家康、人にダメ出しするのが大好きな直江兼続等々、名だたる戦国武将がキャラ化されて登場。主要キャラのルックスは、ちょんまげ姿はむしろ少数派、政宗や兼続は少女マンガのイケメン風だったりするのも型破りな感じ。(兼続は「フッ」と前髪を軽く払い上げるのがキメの仕種)

そんな人並外れて個性的な「殿」たちの言動に、家臣たちも引き摺られて繰り広げられるお家騒動、じゃなかったドタバタの数々・・・。真田家では長男の信之が、鬼嫁の小松姫、父・昌幸と弟・幸村のイタズラ、徳川秀忠のイジワルに翻弄されっぱなし。島津家では、義久、義弘、歳久、家久4兄弟が戦隊ヒーローごっこに熱中、父・貴久やライバルの大友宗麟も巻き込まれる騒ぎに。長宗我部家では、ひ弱で「姫若子」と呼ばれた幼少の元親に、家臣たちが萌え萌えになってしまい、父・国親の頭を悩まし続ける。この他、武田、今川、上杉、北条、浅井、朝倉も、それぞれに悩みの種、というより笑いの種を抱えて、弱肉強食の乱世でドタバタに明け暮れる日々を駆け抜けていくのだった・・・?

余りのくだらなさゆえに面白すぎる、このマンガ。とりあえず「史実」(最低限のね)は踏まえているので、戦国時代に少しでも興味のある人が読めば、大笑い必至だな。

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2009年1月18日 (日)

一人当たりGDP、変動

本日付日経新聞コラム記事「けいざい解読」からメモ。

経済協力開発機構(OECD)が毎年まとめている各国の一人当たり名目国内総生産(GDP)は、各国の生活の豊かさを比べる一つの尺度である。2007年の日本の順位は19位に低迷。ただし、これは07年の為替レートを基にドル換算して並べたもの。例えば、同年の円相場の平均は1ドル=117円台だった。

昨年12月の円相場は1ドル=91円台と、07年の水準と比べて2割以上、円高・ドル安が進んだ。同月の為替レートで計算し直してみると、日本は米国に次ぐ9位と、10位ランクが上がる。1位ルクセンブルク、2位ノルウェーは同じだが、3位アイスランドは19位へ転落、イギリスも10位から18位へ順位が下がる。「金融立国」組が沈んだ格好だ。

・・・一年前に、日本の国力の衰退を示す指標として引き合いに出されていた「一人当たりGDP」。ドル換算のため円安の影響も指摘されてはいたが、実際に円相場上昇後の順位を示されると為替レートの影響は大きいなあと納得。もちろん「ランクアップ」に安心するのではなくて、このランキングは為替要因で上下することを心得ながらも、それはそれとして日本は自らの課題に引き続き取り組まなければならないということ。

(ブログ内関連記事)
2008年1月25日付日経新聞「大機小機」メモ
2008年2月8日付日経新聞「経済教室」メモ

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2009年1月17日 (土)

政府のやるべきことは

本日付日経新聞の市況欄コラム「大機小機」は、「政府と企業の責任分担を見失うな」と訴える。以下にメモ。

これまでも政府の要人は「内需拡大のために賃上げを」と、労働組合と同様の発言を繰り返してきた。しかし不況時において、非正規雇用の維持や内需拡大まで企業の責任とされるなら、政府は一体何に責任を持つのか。

政府は財政再建のため十分な景気対策ができないと言いがちだ。一方で、貴重な税財源が無意味な定額給付金に浪費され、それを閣僚が受け取るか否かという低次元の論争が続いている。無駄な農業や道路予算の削減など公共事業費の改革も進まない。非正規社員へのセーフティーネットの整備や教育・訓練、内需拡大のための投資を生み出す規制改革など政府がなすべき課題は放置されたままである。

世界同時不況のなかで、日本企業は生き残りをかけている。このまま政治の貧困が続けば、グローバル化が進む世界経済の下で、製造業が次々と日本を見捨てる日は遠くないであろう。

・・・景気対策が必要だと唱えて少額の給付金実施に執着する一方、経済回復の明確な見通しもなく3年後の消費税引き上げに拘る総理大臣の政権支持率が低いのは当たり前。政府は増減税のことは今は言わないで、ただただ行政改革を押し進めてもらいたいと思うんだけど。(小泉元首相が今度は「一院制実現」を看板に掲げるらしいが、行政改革の大きなシンボルとして持ち出すとしたら、その政治センスは相変わらず並みの政治家とは違うなあ、という気はする)

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2009年1月16日 (金)

「転換論」は劇的だけど

「パラダイム転換論」が流行る昨今の状況に対して、本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」は、「我々は大きな転機に直面している」からこそ、「バランス感覚が必要」として、以下のように説く。

第一に市場原理の考え方について。市場万能主義は間違いだったと言われるが、もともと「すべてを市場に任せるべきだ」という主張は存在しない。できるだけ資源配分を自由な市場に委ね、市場の失敗がある部分については効率的に政府が介入するという原則は不変であるべきだ。市場原理そのものを否定するのではなく、自由と介入の境界線をどう引き直すかということが問われている。

第二に金融の役割について。金融資本主義の時代は終わったと言われるが、効率的な金融部門は製造業・サービス業の発展に不可欠である。金融部門の役割についての評価を引き下げるのではなく、金融が経済全体に役立つような発展を遂げるために、制度的枠組みを再構築していくことが問われている。

第三に米国の位置付けについて。米国一極集中時代の終わりと言われるが、知の拠点としての米国は不変である。米国の過剰消費体質は是正されるべきとしても、その基礎力は依然として世界をリードするパワーを持っているのではないか。

・・・「パラダイム転換論」は劇的で人目を引きやすいけれど、市場原理優先経済も金融主導資本主義も米国(ドル)中心の世界秩序も、いきなりすべてが「終わる」訳ではないし、そもそも完全に否定するのも現実的ではない。低成長に喘ぐ先進国の経済運営は常に効率性を求められる状況は変わらないし、官民問わず経済主体の規律をいかに維持するのかという課題も重くのしかかる。危機を経た後の現実の制度的改革の進行は、手探りで方向性を見つけていく、多分に散文的で地道な変化の積み重ねだろう。

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2009年1月13日 (火)

新自由主義的改革、是か非か

新刊『資本主義はなぜ自壊したのか』を自らの「懺悔の書」とする中谷巌・三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長。今週の「週刊東洋経済」(1/17号)掲載のインタビュー記事「中谷巌氏に聞く」からメモ。

短絡した軽薄なものの考え方がまずかった。新自由主義的な、市場至上主義的な、あるいは改革派の急先鋒的な自分の行動に対して、それは浅はかであり、社会全体、あるいは人間の幸せとはと、考慮すべきだった。
小さい政府や自己責任をただ求めれば、日本社会がうまくいく、さらに経済成長がうまくでき、国際競争力もつく、そういう考え方は間違い。そう考えるようになった。一方的な新自由主義信奉者ではなくなったという意味だ。

新自由主義でいちばんまずいと思うのは、とにかく個人が分断されること。あるのは国家とマーケットだけの世界。しかし、人間にとって必要なのはその間にある社会、あるいはコミュニティではないか。そこで温かい人間的なつながりを確認しながら人は孤独に陥らず、喜んだり悲しんだりする。その中で幸せをつかむ。新自由主義的発想は社会的動物である人間を全然考慮していない。

自由市場信奉者の「転向」という意味ではそれなりにインパクトはある。しかし、経済が社会を破壊する、という批判は目新しいものではない。同じ「東洋経済」の巻頭コラム「経済を見る目」では、八代尚宏・国際基督教大学教授が市場中心の経済改革継続を唱えているのでメモ。

今回の危機を、小泉政権以降の構造改革を否定する根拠に結び付ける論調がある。
規制緩和で非正社員が増え、財政改革で地域格差が拡大したといわれるが、構造改革のせいではなく、経済活動の国際化や情報化、人口の高齢化等、経済社会の大きな変化に対応できない旧来型の社会システムの下で、経済停滞が長期化し、国内投資の不足で正社員や地域の雇用機会が削減されたと考えるべきだろう。

野口悠紀雄のいう「1940年体制」は、半世紀を経て、もはや維持できなくなっている。これが社会主義体制の崩壊と時期を一にしたことは偶然ではなく、それゆえに構造改革が求められたのである。
先進国のモデルを翻訳してまねるという過去の手法では、今後の日本の社会問題には対応できない。多様な主体の試行錯誤の過程で、優れた仕組みが発見される地域間の制度競争を生み
出す地方分権や、情報の宝庫である市場の活用を目指した改革を進めるべきである。

・・・改革が必要なことは誰もが分かっているだろうし、不都合が出てくればその中身を問い直すことも当然のこと。この段階で新自由主義的改革に否定的な最終評価を下せるものなのかどうか。おそらく当面は修正の積み重ねで現実は進んでいくのだろう。

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2009年1月12日 (月)

「エロイカNAVI」ゲット!

ネットを眺めていたら、「エロイカNAVI」との言葉が目に入った。「むむっ」と見れば、「プリンセスゴールド」なるマンガ雑誌の付録とのこと。青池保子の「エロイカより愛をこめて」の33年の歴史を凝縮、キャラクターおよび作品ガイドをメインとした「永久保存版」との触れ込みだ。「エロイカ」は初期の作品しか読んでないワタシも、この付録は何となく気になった。しかししかししかしだ、この雑誌(1月号)が出たのはもうひと月も前。もう売り切れてるだろうな、と思いつつ近所の本屋を回ったら4軒目で一冊残っているのを発見。中年男が少女マンガ雑誌をいそいそとレジに持っていったのだった。

雑誌本体には「エロイカ」の新作(番外編)があって、ほんとに久しぶりで作品を読んだ。キャラのモデルはいうまでもなく、最近再結成で盛り上がったレッド・ツェッペリンのメンバーだけど、今ではロバート・プラントは皺だらけ、ジミー・ペイジも髪の毛真っ白。ジョン・ボーナムはとうの昔に世を去った。でも、マンガの中の伯爵は綺麗な男のまま、ジェイムズ君も相変わらずゴミまみれ。もちろんボーナム君も健在なのだった。

「エロイカNAVI」は判型、文字共に小さい。全ページ拡大コピーしたくなる。(苦笑)
作品紹介の中で、これちょっと読んでみたいなと思ったのは、企画物である手塚治虫トリビュート作品(2004年)。ブラック・ジャックと「エロイカ」キャラが共演してるなんて楽しい。かわぐちかいじ、木原敏江など9人のマンガ家によるトリビュートイラストもある。和田慎二はタイガーⅠ型戦車を描いているが、ワタシだってタイガー戦車くらい描けるのだ、何しろタミヤのプラモデルでさんざん作ったんだから!

(ドイツ国防軍戦車隊長の息子であるエーベルバッハ少佐が「パンツァーリート」を口ずさむのは、どの話だったか確認したくなってきたな・・・)

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2009年1月10日 (土)

輸出立国モデルに限界

米国の過剰消費体質が変わると、輸出立国が成り立たなくなると指摘するのは水野和夫・三菱UFJ証券チーフエコノミスト。本日付日経新聞記事「世界この先・サバイバビリティ」のインタビューからメモ。

米国の国内総生産(GDP)に占める消費の割合は、日本や韓国、ドイツなどの輸出の対GDP比率と連動している。輸出立国では相手国の消費が減退すれば、国内の設備投資と輸出の落ち込みに直面する。ここ数年の日本の実質GDP成長率に対する寄与度を見ると、輸出と設備投資でほぼ2ポイント押し上げている。米国の消費が落ち込めば、日本は成長の源泉の多くを失ってしまう。

米経済の落ち込みが一時的なものなら、日本企業の収益もいずれは回復する。しかし米国には「世界の消費者」や「最後の買い手」を担うパワーがもはや残っていない。今の不況を乗り越えても、かつてのような勢いの個人消費は復元できない。

米国は住宅バブルで蓄積した過剰をこれからそぎ落とすことになる。その間はマイナス成長が続く。中国などの新興国がけん引役を担うにはまだ時間がかかるため、世界経済は停滞期を甘んじて受け入れざるを得ない。

米国が平時に戻っても、日本を待ち受けているのはゼロ成長だ。我々は景気が回復しても生活水準が改善しない時代を迎えている。

・・・かつて80年代、前川レポートがまとめられるなど国策として内需拡大が提唱されたのだが、結局は膨張したバブルに頼った消費ブームで終わり、輸出主導型から内需拡大型へと経済体制を本格転換することのないまま現在に至ったツケが、ここにきて噴出しているようにも思える。

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2009年1月 9日 (金)

田村淳は歴史好き

NHK大河ドラマ「天地人」は順調な滑り出し、書店には主人公である直江兼続の関連本が積まれ、雑誌にも特集が組まれるという具合。その中から「歴史小僧」(白夜書房)なる新雑誌を手に取り開いてみたら、「田村淳流戦国時代の楽しみ方」とのインタビュー記事が目に止まった。田村淳?あのお笑いタレントの?・・・でも確かに3年前の大河ドラマ「功名が辻」に出演していたなあ。そんなことでメモ。

ものすごいベタですけど、歴史上の好きな人物をあげるとしたらまず羽柴秀吉。他の人が考えつかないことをやったり、ぞうりを懐で暖めるみたいな気の利いた行動で上司に信頼されたり、農民から天下人にまでのしあがったところに憧れますね。僕は「秀吉イズム」みたいなものは、今の時代にも通用すると思っているんです。芸能界の仕事でも、先輩の気づかないことをやって信頼されるとか、他の人が気づいていないものを仕掛けるとか、そういうのが大事。僕自身、秀吉のやり方をすごく参考にしていますね。

歴史が好きになってから、城も好きになったんですよ。今でもロケ地の近くに気になる城があって、ちょっと時間に余裕があったりすると、一人で城を見に行ったりします。僕が城に行ったら2~3時間かかるので、他の人は飽きちゃうんですよ。どうしてそんなに時間がかかるかってというと、城に行くと僕は(攻める側から守る側から)シミュレーションしながら城を見ているから。城を楽しめるかどうかは、そういう想像ができるかどうか。城の歴史をちょっと知っていると、石垣や堀を見ても楽しめるようになってくるんですよ。

女の子って歴史はあんまり好きじゃないですよね。女の子と歴史の話で盛り上がるっていうのはあまり期待できないかもしれない。でも、僕みたいにチャラそうな男が「家康の教訓が・・・」って言うと、「へー、この人そんなことも知ってるの?」って思ってもらえるわけです。女の子はギャップに惹かれるところがあるから。だからチャラいやつほど、歴史を好きになったほうがいいかもしれない。

・・・チャラい奴が熱心に歴史の話をする。このギャップは女の子だけでなく、自分のようなオヤジ世代にもかなり有効。テレビでいっつもくだらねーことやってる奴だと思ったら、意外と見所あるじゃねーか、と思ったもんね。

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2009年1月 8日 (木)

おひとりさまVS婚活

ひと月前の毎日新聞(2008.12.8付夕刊)に、「おひとりさま」か「婚活」か、と題されたインタビュー記事があるのに気がついた。語るのはもちろん、それぞれのコンセプトの提唱者である、上野千鶴子と白河桃子。ということでメモ。(桃子は「とうこ」と読む)

(白河桃子)
早くに「おひとりさま」を決意して経済基盤や人間関係のネットワークを整えた人は問題ない。問題なのは「いずれ結婚するだろう」と思っている男女なんです。

婚活とは男女が結婚を目的とした出会いを探して積極的に活動すること。合コンに参加するとか、結婚情報サービス会社に登録することです。就職には就活が必要なように、結婚には婚活(結婚活動)が必要な時代です。なのに多くの日本人は「結婚は自然にできる」と思いこんでいる。実際は昔も自然な結婚は少なかった。昔は見合い結婚。60年代半ばを境に恋愛結婚のほうが多くなるが、それでも職縁結婚が多かった。会社にお嫁さん候補の若い女性が事務職としていたため、会社と家を往復していても結婚できたわけです。つまり社内集団見合い結婚。ところが80年代以降に恋愛市場が自由化され、誰かが世話をしてくれるというシステムが崩壊した。

日本人は元来、恋愛能力が高くない。男性はコミュニケーション能力が低く、うたれ弱い。女性には「王子様は待っていても永遠にこない。結婚したい人は受け身で待っていてもだめ。狩りに出よ」と言いたい。

(上野千鶴子)
結婚が永久就職である時代も、経済的依存を可能にする時代もとっくに終わっているのに、なんで今時、「婚活」なんていう古い話が出てくるんでしょうね。結婚というものにインセンティブ(意欲を引き出す刺激)がそれだけなくなったということですから、無理にすることはないんですよ。

結婚は生活していくための「生活保障財」から「ぜいたく品」に変わりました。だから求める条件が上がったのです。そうなれば、当然マーケットは縮小し、マッチメーキングが難しくなる。それで8割以上が結婚願望を持つにもかかわらず、結婚に踏み切らない人が増えたというわけです。

でも、どうってことはない。すべての男女が父や母になる人口爆発時代が終わったと思えばいいのです。明治時代を迎える前は、人口の2割程度が生涯非婚者でした。

人はどっちみちおひとりさまになります。遅いか早いかの違いだけ。一人でいることを基本にすればいいのです。おひとりさまはライフスタイルの一つ。家族として過ごす時間は人生のある一時期にすぎません。

・・・「おひとりさま」の覚悟ができていなければ「婚活」せよ、というのはもっともに思える。とはいえ「婚活」の具体的な形が、合コンや結婚情報サービスというのも正直サエない話ではある。しかし今時は、周囲に相手がいたという「幸運」か、相手を紹介してもらう「人脈」が無いと結婚はできないのが現実だろう。どっちも無いけど、どうしても結婚したい人は「婚活」するしかないし、そこまでして結婚する気のない人は「おひとりさま」の覚悟を決めるしかない、という感じ。あるいはある期間「婚活」してみて、願わしい成果が得られなければ「おひとりさま」コースを歩む、というのもある・・・だろう。とにかくいまや、「自然には結婚できない」のも、「おひとりさまはライフスタイルである」のも現実だと認識して、あとは個人の考え方で行動する、要はそういうこと。かな。

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2009年1月 7日 (水)

経済と信頼と希望と

日経新聞「経済教室」は今週、「危機を超えて」というテーマで連載しているが、昨日6日の執筆者として作家の村上龍が登場。要点をメモ。

サブプライムローン問題が発生する以前から、日本社会は、各層、各組織相互の信頼が失われつつあって、今回の経済危機でさらに鮮明に表面化した。与党と野党、与党内の各グループ、官僚と政治家、内閣と議会、経営と労働、正規社員と非正規社員、富裕層と中間層と貧困層、自治体と中央政府、老年層と若年層、そして国民と国家、さまざまな利害の対立が顕在化し、不信の連鎖が起こりやっかいな悪循環が始まっているように見える。

どうして日本社会は豊かになったのに希望を持つのが難しく、閉塞感に包まれているのだろうか。今日よりも明日が、明日よりも一年後が、さらに五年後のほうが、自分の人生はより良いものになっているはずだという思い、それが希望だ。経済的豊かさを実現した成熟した社会では、将来的には必ず人生はより良いものになるという思いを持つのが難しい。

経済活動を根本で支えるのは信頼であり、年金、医療、介護、福祉など社会保障の危機が国民の国家への信頼を失わせ、政治への無関心が常態化した。不信と無関心の次に来るのは社会不安・暴動かもしれない。信頼を生むためには、希望を持ちうる将来的なビジョンが不可欠である。

・・・そして作家は、希望を生み出すビジョンとして「環境」、そして「親密で小規模な共同体」の再構築の二つが有効である、という。その是非はともかく、現実にビジョンを示す役割が期待されるのはやはり政治。しかしながら、豊かさを実現した後の低成長経済の中で、富の再配分が一段と複雑な課題になっている背景に加えて、グローバル経済や新自由主義的思想により社会的基盤が疲弊しつつあるという現実に対して、昨今の政治は全くと言って良いほど機能不全の状態に陥っている、としか見えないな。

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2009年1月 6日 (火)

資本主義とグローバル化の行方

本日付日経新聞から、岩井克人・東大教授(「世界この先・サバイバビリティ」)、末村篤・特別編集委員(コラム「一目均衡」)、そしてコラム「大機小機」の言葉をパッチワーク的にメモ。まずは岩井先生の資本主義に対する基本認識から。

資本主義は効率性と安定性という二律背反の性格を持っている。市場の自主性に任せるほど経済は効率化するが、不安定さは増す。市場に委ねる部分を抑えれば経済は安定するが、効率は悪くなる。(岩井)

市場の自主性に任せれば任せるほど、強欲の生まれる可能性も大きくなる。

サブプライム問題は、強欲で結ばれた金融機関と投資家が引き起こした大惨事だった。投資銀行に代表される金融機関の問題はリスク管理の失敗という経営問題ではなく、自由化の弊害であり、国民経済を未曾有の危機に追いやった以上、規制強化は必至だ。投資家は一方的な被害者ではなく、金融機関と共生関係にあった。過大なリターンを求めた年金などの機関投資家が、実際にはあり得ない安全、有利な投資対象を求め、結果的に受益者でもある生活者の首を占めた。(末村)

今後規制強化は避けられないが、その在り方は理念的統制ではないだろう。

資本主義を守るためには、自由放任主義というイデオロギーから離れ、政府が中心的な役割を果たさざるを得ない。それが今回の危機の教訓ではないか。
あまり変な規制をかけると将来的に問題が起きる。国がすべてを統制することもできない。規制をかけたとしても、それを逃れた新たな金融商品が必ず生まれる。これがベストというものはないかもしれないが、継ぎはぎしながら規制を加えていくという現実主義しかない。(岩井)

資本主義、自由市場経済は否定しようもなく、自由化、規制緩和の行き過ぎの是正と共に問われるのは、これまでのグローバル化の在り方である。

世界の誰もが自由競争経済の持続を望んでいるのは、新興国も参加した昨年11月金融サミットでの20カ国・地域(G20)首脳合意でも明らかだ。問題はウォール街のやり方を単線的に広げた国際金融の強引さであり、世界は成長を続け、大不況に陥ることはないと拡大路線をひた走った国際企業の過信にあった。危機に立つのは資本主義ではなく、グローバリゼーションのあり様だ。(大機小機)

要は金融資本主義とグローバル化の問題である。
実体経済の規模や成長率を大幅に上回る金融資産の肥大や収益率が持続可能なはずがない。金融から実体への回帰は正常化の基本だ。(末村)

米国中心のメカニズムは修正が始まっている。互恵・補完関係にある国が集まり、ある程度の「自律的経済ゾーン」を形成しながら、世界不況の回避と成長維持でゾーン同士が連携する。保護主義ではなく単色のグローバリゼーションでもない「自立と共生」の道だ。マルチプル(多角的)グローバリゼーションが、見えてきた再起の芽だ。(大機小機)

アメリカ中心、金融資本主導のグローバル化の修正が今後の課題であります。以上。

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2009年1月 5日 (月)

神田明神に初詣

今日1月5日は証券取引所の大発会、証券会社も仕事始め。そして取引が午前中で終了する半日立会いも今日で最後。というのは、今年の大納会と来年の大発会は終日立会いとなる予定なので。つまり次の年末年始は証券会社も半日営業からフルタイムになってしまうのだ。嗚呼。・・・という訳で、最後の半ドン(死語か?)を活用するべく、午後は神田明神に初詣に出かけた。

神田明神は比較的こじんまりしたスポットなので、例えば浅草寺や明治神宮に比べれば、短時間でお参りできると記憶していたのに、神社に着いたら人がぎっしり。商売の神さまだからサラリーマンが多いとは聞いていたが、まさしく仕事始めのサラリーマンばかりで満員電車状態なのだった。神田明神の初詣は正月三が日よりも休み明けの方が混んでいるということを実感しました。

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