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2008年12月 1日 (月)

『戦後思潮』(新版)

戦後思潮 知識人たちの肖像』(粕谷一希・著)の新版(藤原書店)が出たことに、ちょっとした感慨を抱いた。自分は旧版(1981年、日本経済新聞社)を発売当時から、本棚の片隅に置き続けてきた。戦後日本の思想家・知識人の「カタログ」として、余り類を見ない書物ではないかと思う。新版の「解説対談」の中で御厨貴・東京大学教授が述べる、「この本は、読書のブックガイドとしても非常によくできていて、こういう本があるんだったら次にこれを読んでみようという動機づけになった」という意見に全面的に同感。

しかしながら、優れたブックガイドというのは、それを読んだだけで、紹介されている人物や書物を分かった気になってしまうという欠点(?)があるのだなあ。ホントはそこから原典に当たらなければいけないのにねえ・・・。(苦笑)
この本でいうと、特に学者たちには余り馴染みがないというか興味がわかないというか、とりあえず「こういう人ね」ということでお終いになったりとか・・・。(また苦笑)

でも、かなりの数が登場する文学者の紹介は、実に興味深く読める。例えば第3章や第7章、文学史的には「第一次戦後派」や「第三の新人」と呼ばれる作家や周辺の批評家をスケッチした文章は、各人の輪郭や位置付けを非常に明瞭に描き出していて印象的。「文学の営みは、その時代の感受性の表現として、思想の営みと深く関わっている」(あとがき)という、著者の基本認識も確かに伝わってくる。

著者は、自らの視点の中心は「歴史・哲学・文学に据えられていた」(あとがき)と記しているが、歴史・哲学・文学はもとより、政治・経済・社会の分野まで目配りが利いている本書は、ジャーナリズムの現場に長く携わってきた著者だからこそ可能だった、まさに「力技」の成果(著者曰く「労働集約型の仕事」)と言えるだろう。

御厨は、この本で取り上げられている書物を「新古典」と呼び、若い世代に「新古典」を読むことを勧めたい、としている。そのこと自体はもっともなことであると思えるが、現在の時点でこの本に目を通すと、紹介されている新しい「古典」に学ぶよりは、著者自身の「古典的」な姿勢に学びたくなる。というのは、たとえば人間ではなく脳を考えるとか、歴史や社会よりも先に経済システムを議論するとか、教養ではなく情報が幅を利かせるとか、そういう今風の知的トレンドを前にすると、自分も古い人間なので、いわゆる「人文学」的な姿勢を完全に捨ててしまうことには、そこはかとなく抵抗感を覚えるからだ。それがある種ノスタルジックな感覚には違いないとしても、である。

いずれにせよ、先人のやってきたこと、考えたことを学ぶのは大事なことだ。先人がジタバタした結果、今の世の中があり、その中で自分たちもまたジタバタしているのだから。あるいは、先人について学ぶことが、今を生きる自分たちの存在の意味である、と言ってもいいくらいだ。従って今、「新古典」を読み直す価値はもちろん大いにある。

しかし一方で、この本に登場する思想家の中で、今考え直すに値するのは誰なのかということは問われても良いと感じる。いうまでもなく「戦後思潮」とは戦後、つまり冷戦下の日本の思想の流れである。戦後60年、というよりは冷戦後20年という時間が経過した今、戦後思想に対する相当乱暴な評価も許されるのではないかと思う。使える戦後思想、使えない戦後思想を、誰か専門家が独断的にでもいいから仕分けして示してくれないものか。

(蛇足ですが安岡章太郎には、レヴィ=ストロースのように100歳を迎えてもらいたい)

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