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2008年12月 7日 (日)

『ナチスと映画』

今年の夏に、ナチスの記録映画「意志の勝利」をDVDで観たんだけど、中公新書の新刊『ナチスと映画』(飯田道子・著)は書名がモロに来たので、読んでみた。

この本は前半で、ナチスのプロパガンダとしての映画政策(記録映画、ニュース映画、劇映画)を、後半で戦後の映画におけるナチス像の変遷を見ていくのだが、全体的に踏み込み不足の感あり(後半の映画紹介及び巻末の映画リストに、ソ連映画「ヨーロッパの解放」が入っていないのは、自分的には何とも不可解)。とりあえずレニ・リーフェンシュタール絡みの部分をメモする。

政治も経済も壊滅的だったが、文化的にはヴァイマル(共和国)時代は、「黄金の1920年代」と呼ばれるほどに爛熟を極めた時代だった。なかでもひときわ輝いていたのが、映画だった。綺羅星のごとき才能がベルリンへ結集し、さまざまな実験を繰り広げた。

ナチスはプロパガンダとして映画を利用したが、同時に映画から学び、自らのスタイルとして定着させてきた。ヒトラーとゲッベルスは、政権獲得以前から映画の大衆への影響力を評価していた。それが政権獲得後、映画を統制し、積極的にプロパガンダ利用することにつながったのは言うまでもない。
だが、ナチ時代の映画の技術・手法・ジャンルは、ほとんどがヴァイマル時代にすでに基盤が築かれていたものである。ナチ時代の映画は、その遺産を踏襲したに過ぎない。

ナチ党大会を記録した『意志の勝利』、ベルリン・オリンピックを撮影した『オリンピア』は、リーフェンシュタールの独自の美的視点から作られたものだった。
いま目にすることができるのは、リーフェンシュタールによって再構築された映像である。それは彼女の「作品」であって、もはや純粋な記録ではない。
リーフェンシュタールは、無意識のうちにナチスの持つスペクタクル性の真の効果がどこにあるかを読み取り、最も魅力的に見えるように、党大会を、オリンピックを、つまり「素材」を作り変えたのである。

映画を作る過程で彼女が重視したのは、彼女なりの美意識だった。だが、その美意識は、ナチスの思惑と重なってしまっていた。
党大会の「魅力」と熱狂をあますところなく伝えた映像は、ナチスにとってこのうえない宣伝効果があったことは疑いの余地はない。
リーフェンシュタールは『意志の勝利』と『オリンピア』の二本の作品によって、映画監督としての名声を不動のものにしたが、同時にヒトラーの協力者としても、歴史に名を残すことになった。

・・・効果という面から考えてみると、プロパガンダ映画の在り方は、何とも逆説的であるように思う。というのは、プロパガンダの効果が最も期待できるのは、観る者にプロパガンダと意識されない時であろうし、逆に言えば、観る者が「これはプロパガンダである」と認めてしまえば、その効果も大きく損なわれるだろうから。ナチスは紛れも無くプロパガンダの手段となる映画を望んだのに対し、リーフェンシュタールはあくまで自らの美意識を表現するために、膨大な撮影フィルムを編集して映像作品を構成した。彼女の生み出した質の高い「記録映画」は、時代の文脈の中で、やはり逆説的に、効果的なプロパガンダ映画として成立したように思われる。

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コメント

善良な意図が邪悪な結果をもたらすことって、ありますよね。

ていうか、善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは真実ではなく、しばしばその逆が真実となるっていうことかも。

理性的自我が及び知らぬ権力。

投稿: はっしー | 2008年12月13日 (土) 18時16分

何だかんだ言っても権力はその時の正当性の上に成立するんだろうから、当時の権力の下にいる当事者の行いについて、後から善悪の判断を下すのは、事後法による処罰みたいなもので、何となく感じ悪い。という気がする。

投稿: donald | 2008年12月14日 (日) 15時51分

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