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2008年12月28日 (日)

2008年の経済書

「週刊東洋経済」と「週刊ダイヤモンド」の年末年始合併号に、今年2008年の経済書ランキングが掲載されている。ベスト10の書名と著者を以下に。

東洋経済
 1.資本主義は嫌いですか(竹森俊平)
 2.現代の金融政策(白川方明)
 3.大暴落1929(ジョン・K・ガルブレイス)
    なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか(チャールズ・R・モリス)
 5.すべての経済はバブルに通じる(小幡績)
 6.暴走する資本主義(ロバート・B・ライシュ)
 7.市場リスク 暴落は必然か(リチャード・ブックステーバー)
 8.なぜグローバリゼーションで豊かになれないのか(北野一)
     波乱の時代 特別版(アラン・グリーンスパン)
10.禁断の市場(マンデルブロ、ハドソン)

ダイヤモンド
 1.現代の金融政策(白川方明)
 2.暴走する資本主義(ロバート・B・ライシュ)
 3.アダム・スミス(堂目卓生)
 4.ルポ 貧困大国アメリカ(堤未果)
 5.経済は感情で動く(マッテオ・モッテルリーニ)
 6.雇用、利子および貨幣の一般理論(ケインズ)
 7.格差はつくられた(ポール・クルーグマン)
 8.現代税制改革史(石弘光)
 9.松下電器の経営改革(伊丹敬之ほか)
10.反貧困(湯浅誠)

同じ「ベスト経済書」という企画ながら、かなり趣きの異なったランキングかと。両誌のベスト10に共通しているのは、『現代の金融政策』と『暴走する資本主義』の2冊のみ。また、東洋経済1位の『資本主義は嫌いですか』は、ダイヤモンドでは20位と、個別では評価の分かれる本もある。

アンケート対象者数は東洋経済が61人、ダイヤモンドが213人。回答者は学者、エコノミストなどだが、東洋経済の氏名一覧を見ると、実務家であるエコノミストの比率が高いことが影響して、金融市場関係の本が多く選ばれているのかなと思う。自分も証券会社勤めなので、東洋経済のランキングの方に馴染みがある。『資本主義は嫌いですか』『すべての経済はバブルに通じる』は、いちおうこのブログにもメモしてみたし。

いくらランキング上位でも、白川日銀総裁の本は、ワタシのような一般人は読まないし、多くランキング入りしている翻訳モノも、テーマには興味を持てるとしても、正直なかなか手が出ない。ダイヤモンドの6位は岩波文庫から出た新訳だけど、こういう古典は誰かに教えてもらいながら読む方が良いのかなと思ったり。貧困も重要な問題だけど、本を読むよりもテレビで関連モノを見てしまうという感じです。

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2008年12月27日 (土)

改革派経済学者の「懺悔」

最近、リチャード・クー、野口悠紀雄、中谷巌、紺谷典子など、90年代に活躍していたエコノミストの新刊が本屋で目に付く。なかでも中谷巌の『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)は、構造改革派の「懺悔の書」との惹句が帯にあるものだから、何だか只事じゃないなあ、と思って読んでみた。

なぜ「懺悔の書」か。若い頃アメリカで経済学を学び、自由主義や市場原理の信奉者となった著者は、バブル崩壊後の日本において、改革派経済学者として規制緩和などの旗を振ることになったのだが、小泉改革以後の格差拡大などの事態に直面して、「構造改革やグローバル資本主義は日本人を幸福にしたのか」という疑問が生まれた。そこにアメリカ発の金融危機が起き、世界が不況へと突入する中で、自らの「転向」について書き上げたのがこの本ということだ。

グローバル資本主義が社会を破壊する、との問題意識から出発するこの本の内容は、経済学的というよりは多く文明評論的である。それは基本的なスタンスが、「グローバル資本主義が暗黙の前提としていたアメリカ的な価値観や思想のどこに問題があったかを検討する」、もっと言えば「そもそもアメリカ流資本主義、さらに近代西洋思想のどこが誤っていて、どのように修正をしていくべきかを、根本に遡って考える」、というものだからだ。

階級意識の残る欧米においては、新自由主義的経済学も結局はエリートが大衆を支配するための道具であった。今や、世界的な格差拡大や環境破壊をもたらしているグローバル資本主義、その根本にあるアメリカ流の近代西洋的、キリスト教的価値観の是正は急務である。そこで日本の価値観の出番となる。日本的な平等観や自然との共生感覚こそが、これからの世界に求められる・・・著者の危機意識は充分に伝わってくるものの、西欧的価値観が行き詰まったところに、日本的価値観を対置する著者の批判に特に目新しいものがある訳ではない。経済学者である著者には、やはり経済学の枠内で、グローバル資本主義を内在的に克服する道を示してもらうことを期待したい。

かつて、「世界で一番成功した社会主義国」と冗談交じりに語られた日本。だが冷戦終結で社会主義の敗北が明らかになると共に、バブル崩壊後の日本も自らの社会主義的部分の修正を迫られ、自由市場主導型の経済改革を進めた訳だが、今度はその大本であるアメリカ流の新自由主義が大きく躓いたために、次の改革の方向性を見失ってしまったように見える。振り返れば90年代は、日本経済システムあるいは日本的経営の建て直しが活発に議論された時期だった。その90年代に活躍したエコノミストたちが今、自らの意見を開陳しているのは偶然ではないと感じる。いずれにせよ、再び日本経済の在り方について幅広く議論を呼び起こす時が訪れたのは間違いない。

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2008年12月26日 (金)

VaRって有効なの?

本日付日経新聞、投資・財務面のコラム記事「株価 金融技術の限界・下」からメモ。

金融危機で投資家のリスク管理は根本から揺らいだ。金融機関はバリュー・アット・リスク(VaR)と呼ばれる統計的手法で株、債券などの損失可能性を予測し、資産配分している。1978-2007年の30年間の日経平均の値動きを前提に計算すれば、一日で5%以上動く可能性は一万分の一以下。これを「無視しうる頻度」と判断して、見合った資金を投じていく手法だ。

バリュー・アット・リスク(VaR):金融資産を運用する上でのリスク管理手法の一つ。株、債券などの過去の値動きを統計的に分析し、今後のある期間において、一定の確率で生じる最大の損失額を推計する。取り寄せるデータは数年程度の場合もあれば、数十年にわたることもある。投資家はVaRの大きさに合わせて、資金の投入量やポートフォリオの構成を決める。比較的計算しやすいことや応用が利くことなどから、多くの金融機関がリスク管理に利用している。

現実には、10月は取引があった二日に一回の頻度で5%以上の騰落を記録した。一番下げがきつかった16日の下落率(11.4%)について、発生確率を逆算すると224京年(京は兆の一万倍)に一回という天文学的数値となった。

農林中央金庫は積極運用が裏目に出て、9月末時点で有価証券の含み損が約1兆5000億円に拡大した。期待していたVaRなどによるリスク管理は機能しなかった。

経済環境が良好な時期のデータに基づいて行動すると、過大なリスクを負いがちだ。「定量モデルに依存するだけでなく、定性的な判断を重視する必要性が高まっている」との指摘もある。

・・・投資を行う前に、統計の確度を高めるため充分に長期間のデータを集めようとしたら、命がいくつあっても足りないな。(苦笑)

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2008年12月25日 (木)

「おひとりさま」の老後

上野千鶴子の『おひとりさまの老後』が75万部売れたという。驚異。その上野千鶴子「責任編集」と銘打たれた『おひとりさまマガジン』(文藝春秋12月臨時増刊号)の巻頭に、上野、香山リカ、酒井順子の鼎談がある。おひとりさまの損得、親の介護、男の「負け犬」など、様々な話題が語られるが、やはり老後については、上野先生に一日の長があるというのか、その言葉には経験と思考に裏打ちされた確信が込められていると感じられたので、ポイント的にメモ。

上野:ご自分の老後についてはどう思っておられますか?
酒井:それがこわいので、飛行機事故とかに遭わないかなあ、と思っているんですけど。
上野:突然死願望ですね。
香山:私は北海道に帰省しているときに、大地震が起きて、両親もろとも死ぬのが一番かな、と(笑)。そうすれば、介護問題も、自分の問題も一気に全部片づく。
上野:今のおふたりの反応で、ご自分の老後にまだリアリティがないということが、逆によく分かりますね(笑)。
私はこう思いますよ。国が滅びようが、焼け野原になろうが、人間というものはなかなか死ねないもんだ、と。高齢者施設へ行くと、生気を失った人がそれでも死なないで生きている。それを見ると、ああ、人間というのは死にきれんもんやなあ、と思います。脳梗塞で後遺症が残っても、生き延びる人もいます。人間は、そんなに簡単に死ねません。死ねない、っていうのをしみじみ味わうのが老化ってものです。だからこそ、死にきれない老後をどうやって過ごそうか、っていうのをマジメに考えるようになるんですよ。
おふたりとも、地震だの、事故死だの、そんなに突然死願望があるとは思わなかった。みんながみんな認知症になるわけでもないし、老化ってゆっくり進んでいくものなので、考える時間は十分にありますから大丈夫です(笑)。

・・・多分、当たり前だけど「老後」というのは全くの身体問題なので、現実に身体の不自由を少しでも感じるようになるまでは、リアルに考えられないと思う。身体の自由がきかなくなる状態になりつつも、簡単には死ねないのだなあと感じながら生きる時間が「老後」ってことですかね。それはそれで味わい深い・・・ような、そうでないような。

(自分も今年入院を経験したので、身体が思い通りに動かなくなるのはある程度までで食い止めないと、老後を味わう気分的な余裕も持てないのは想像できるようになった)

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2008年12月23日 (火)

追悼2008

今年2008年に亡くなった各界著名人の中から、例えば俳優やジャーナリストなど一般的に知られている人ではなくて、まあ知っている人は知っているだろう、って感じの人を記して哀悼の意を捧げたい。

佐々木英信
証券業界では知られたテクニカル・アナリスト(相場の値動きを示したチャートの分析を行う専門家)。6月13日にセミナーの席上で昏倒、意識の戻らないまま3ヵ月後の9月25日に他界。享年58歳。
自分が佐々木氏の株価分析の話を初めて聞いたのは1997年の8月。相場には、過去に重要な転換点となった高値から安値、安値から高値などの期間や値幅が繰り返し現れるというのが、その分析の基本。その場では11月の中頃が相場の「変化日」に当たると説かれた。しかし何しろ3ヵ月先の話である。何が起こるかも分からない。半信半疑だった。ところが、実際に北海道拓殖銀行が破綻し、銀行への公的資金投入が進むという思惑から、株価は大きく上昇。その後山一証券破綻などから、基調として下げ相場が続いたのだが、それ以来佐々木氏の分析には注目するようになった・・・あれからたった10年余りで亡くなるとは。その分析手法は若手に引き継がれたとはいえ、自らのレポートに「流転」と題するなど、哲学的思考にも裏打ちされた個性は唯一無二のものだった。まさに生々流転は世の常とはいえ、早すぎる死だと言わざるを得ない。嗚呼。

草柳文恵
9月9日、タワーマンション高層階の自宅ベランダから外側にぶら下がる格好で首吊り自殺。病苦によるものだという。享年54歳。
評論家草柳大蔵の娘にしてミス東京にも選ばれた才媛。というか、自分のような古い将棋ファンには、棋士・真部一男との結婚で記憶される女性。実は、最近棋界の事情にとんと疎くて、彼女が自殺した際の報道から、およそ一年前に真部が死去していた事を初めて知った。後に別れたとはいえ、かつての棋界に華やかな話題を提供した美男美女が、二人とも50代で相次いで世を去るとは、何とも無常感に捉われるほかない。嗚呼。

アラン・ロブグリエ
フランスの作家。2月18日病没。享年85歳。
ヌーヴォー・ロマンとかアンチ・ロマンと呼ばれた実験的な小説の旗手。サロート、シモン、ビュトールと並ぶ四天王、だったか。読もうとしたけど、読めなかった覚えあり。もう20年以上も前、文学者主催の反核運動の集会に招かれて来日した時、講演の模様がNHKで放送されたのを見たことがある。確か「現実とは何か」という話で、結論は「現実とは解らないものです」と言われて、何だか実に「らしい」なあという感じだった。死をきっかけに、作品を何か読もうかと思ったが、やっぱり読んでない。嗚呼。

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2008年12月20日 (土)

「現代思想」の時代

80年代ポストモダン、ニューアカデミズムのブームを準備した雑誌『現代思想』。70年代の『現代思想』のスタンスについて、当時の編集長である三浦雅士が語る。以下は、『戦後日本スタディーズ3 80・90年代』(紀伊国屋書店)に収められたインタビュー「現代思想の時代」からのメモ。

1970年代の一番大きな問題は、その段階では漠然としたままであったにせよ、マルクス主義は終わったということ、そしてポストマルクス主義といったときに何がありうるかということだったと思います。

趨勢としては構造主義だということははっきりしていた。構造主義というのは、バルトでありフーコーでありラカンであり、そして中心はもちろんレヴィ=ストロースだというふうになっていた。それで人類学も脚光を浴びたわけですが、それは実存主義に対するアンチテーゼだったわけで、その場合の実存主義というのはサルトル的な実存主義、つまり実存主義的マルクス主義だった。それが終焉を迎えていたわけです。

思想の全体を眺めた場合、19世紀が自然科学においても人文科学においても実体的なものを追究したとすれば、20世紀は関係的なものを追究してきたわけです。現象学、解釈学、言語論、記号論、科学史、美術史、もっとも典型的なものは動物行動学ですね。動物行動学というのは動物とともに生きてみる、動物の眼で世界を見てみるというもので、明らかに意味の科学であり、関係をめぐる理論なわけで、実体をめぐる理論ではない。現象学の親類みたいなものだ。一方ではどんなふうにマルクス主義は終わろうとしているのか、マルクス主義が終わった後にはどうなるのかを考えていくこと、それが、70年代にしなければならないと思っていたことだったと思います。

・・・戦後から間もない社会全般が貧しく荒々しい時期は、革命を意識するマルクス主義と、ニヒリスティックな実存主義が人々を惹きつけたが、その後経済的豊かさと産業社会的秩序の確立がある程度実現された段階で、構造主義が登場してきたという印象はある。さらに西洋哲学史的に見れば、マルクス主義と実存主義が共有していた主体概念(まさにサルトル)を、否定してみせた(ニーチェの「神は死んだ」に倣って、フーコーは「人間は死んだ」と告げる)のが構造主義・・・なのだろう。さらにポスト構造主義というと、構造主義と別物という訳でもなく、構造主義の新たな展開という感じ。まあ何にせよ、レヴィ=ストロース100歳は凄いとしても、フーコーもドゥルーズもデリダも既に亡く、やっぱり「現代思想」の時代は遠くなりにけり、だなあ。

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2008年12月14日 (日)

グローバル経済と中小企業

エコノミストの水野和夫の新刊『金融大崩壊 「アメリカ金融帝国」の終焉』(NHK出版生活人新書)を読んだら、書名のイメージとは違うけど、中小企業について述べた部分が印象に残ったのでメモ(第6章 日本経済の生き残る道はどこか)。

これから日本が本当に成熟した形で輸出株式会社を続けようと思うなら、これまでの経済の常識は捨てて、知恵を絞る必要があります。
世界金融危機によって、日本の輸出数量は08年6月にマイナスに転じ、8、9月もマイナスになっているのは、輸出先の好景気が、金融資産バブルに依存した消費によるものだったからです。今度は実体経済の成長に基づいて、1人当たり実質GDP、すなわち生活水準が上がっていく新興国の中産階級を相手に据えるべきでしょう。新興国に暮らす人々の1人当たりGDPが1000ドルから1万ドルに成長することは、バブルではありません。そうした実質成長に基づいた地域と一体化すること。それが真のグローバル化です。世界はこれからが本当のグローバル時代、グローバル競争に入っていきます。

(国内の経済)格差あるいは二極化は、グローバル経済にリンクしているか、それとも遮断されているかの違いから現れます。
企業規模の大小を問わず、海外とどうやってつながっていくかが鍵となるのです。新興国の人たちが中産階級になっていくプロセスで、自分たちがどう手伝えるのかを考えない限り、経済格差はなくならないのです。

グローバル時代には、内に閉じこもっていることは停滞を意味します。中小企業が明日から単独で海外進出というのも非現実的です。そこで国の役割が必要となってきます。
中小企業向け金融を拡充し、海外での事業ノウハウを伝授する体制も必要でしょう。「中小企業海外進出庁」といった省庁をつくるのもアイデアの一つです。いずれにせよ、中小企業の海外進出を全面的に支援するシステムをつくることが重要です。

・・・冷戦終了後、金融資本主導でバブルを伴いつつ進行した「派手な」グローバル化はひとまず限界に達し、今後は新興国の人々が生活水準を切り上げていく「地道な」グローバル化が進んでいく。アメリカのバブル的消費を受けて、日本の大企業が輸出を拡大させた時代がいったん終わり、今後は新興国の中産階級をターゲットに、日本の中小企業が事業を海外にリンクさせることが求められる。そのことを踏まえたうえで企業は行動し、政策も実行されなければならない、ということ。耳を傾けるべき提言だと思う。

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2008年12月 7日 (日)

『ナチスと映画』

今年の夏に、ナチスの記録映画「意志の勝利」をDVDで観たんだけど、中公新書の新刊『ナチスと映画』(飯田道子・著)は書名がモロに来たので、読んでみた。

この本は前半で、ナチスのプロパガンダとしての映画政策(記録映画、ニュース映画、劇映画)を、後半で戦後の映画におけるナチス像の変遷を見ていくのだが、全体的に踏み込み不足の感あり(後半の映画紹介及び巻末の映画リストに、ソ連映画「ヨーロッパの解放」が入っていないのは、自分的には何とも不可解)。とりあえずレニ・リーフェンシュタール絡みの部分をメモする。

政治も経済も壊滅的だったが、文化的にはヴァイマル(共和国)時代は、「黄金の1920年代」と呼ばれるほどに爛熟を極めた時代だった。なかでもひときわ輝いていたのが、映画だった。綺羅星のごとき才能がベルリンへ結集し、さまざまな実験を繰り広げた。

ナチスはプロパガンダとして映画を利用したが、同時に映画から学び、自らのスタイルとして定着させてきた。ヒトラーとゲッベルスは、政権獲得以前から映画の大衆への影響力を評価していた。それが政権獲得後、映画を統制し、積極的にプロパガンダ利用することにつながったのは言うまでもない。
だが、ナチ時代の映画の技術・手法・ジャンルは、ほとんどがヴァイマル時代にすでに基盤が築かれていたものである。ナチ時代の映画は、その遺産を踏襲したに過ぎない。

ナチ党大会を記録した『意志の勝利』、ベルリン・オリンピックを撮影した『オリンピア』は、リーフェンシュタールの独自の美的視点から作られたものだった。
いま目にすることができるのは、リーフェンシュタールによって再構築された映像である。それは彼女の「作品」であって、もはや純粋な記録ではない。
リーフェンシュタールは、無意識のうちにナチスの持つスペクタクル性の真の効果がどこにあるかを読み取り、最も魅力的に見えるように、党大会を、オリンピックを、つまり「素材」を作り変えたのである。

映画を作る過程で彼女が重視したのは、彼女なりの美意識だった。だが、その美意識は、ナチスの思惑と重なってしまっていた。
党大会の「魅力」と熱狂をあますところなく伝えた映像は、ナチスにとってこのうえない宣伝効果があったことは疑いの余地はない。
リーフェンシュタールは『意志の勝利』と『オリンピア』の二本の作品によって、映画監督としての名声を不動のものにしたが、同時にヒトラーの協力者としても、歴史に名を残すことになった。

・・・効果という面から考えてみると、プロパガンダ映画の在り方は、何とも逆説的であるように思う。というのは、プロパガンダの効果が最も期待できるのは、観る者にプロパガンダと意識されない時であろうし、逆に言えば、観る者が「これはプロパガンダである」と認めてしまえば、その効果も大きく損なわれるだろうから。ナチスは紛れも無くプロパガンダの手段となる映画を望んだのに対し、リーフェンシュタールはあくまで自らの美意識を表現するために、膨大な撮影フィルムを編集して映像作品を構成した。彼女の生み出した質の高い「記録映画」は、時代の文脈の中で、やはり逆説的に、効果的なプロパガンダ映画として成立したように思われる。

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2008年12月 1日 (月)

『戦後思潮』(新版)

戦後思潮 知識人たちの肖像』(粕谷一希・著)の新版(藤原書店)が出たことに、ちょっとした感慨を抱いた。自分は旧版(1981年、日本経済新聞社)を発売当時から、本棚の片隅に置き続けてきた。戦後日本の思想家・知識人の「カタログ」として、余り類を見ない書物ではないかと思う。新版の「解説対談」の中で御厨貴・東京大学教授が述べる、「この本は、読書のブックガイドとしても非常によくできていて、こういう本があるんだったら次にこれを読んでみようという動機づけになった」という意見に全面的に同感。

しかしながら、優れたブックガイドというのは、それを読んだだけで、紹介されている人物や書物を分かった気になってしまうという欠点(?)があるのだなあ。ホントはそこから原典に当たらなければいけないのにねえ・・・。(苦笑)
この本でいうと、特に学者たちには余り馴染みがないというか興味がわかないというか、とりあえず「こういう人ね」ということでお終いになったりとか・・・。(また苦笑)

でも、かなりの数が登場する文学者の紹介は、実に興味深く読める。例えば第3章や第7章、文学史的には「第一次戦後派」や「第三の新人」と呼ばれる作家や周辺の批評家をスケッチした文章は、各人の輪郭や位置付けを非常に明瞭に描き出していて印象的。「文学の営みは、その時代の感受性の表現として、思想の営みと深く関わっている」(あとがき)という、著者の基本認識も確かに伝わってくる。

著者は、自らの視点の中心は「歴史・哲学・文学に据えられていた」(あとがき)と記しているが、歴史・哲学・文学はもとより、政治・経済・社会の分野まで目配りが利いている本書は、ジャーナリズムの現場に長く携わってきた著者だからこそ可能だった、まさに「力技」の成果(著者曰く「労働集約型の仕事」)と言えるだろう。

御厨は、この本で取り上げられている書物を「新古典」と呼び、若い世代に「新古典」を読むことを勧めたい、としている。そのこと自体はもっともなことであると思えるが、現在の時点でこの本に目を通すと、紹介されている新しい「古典」に学ぶよりは、著者自身の「古典的」な姿勢に学びたくなる。というのは、たとえば人間ではなく脳を考えるとか、歴史や社会よりも先に経済システムを議論するとか、教養ではなく情報が幅を利かせるとか、そういう今風の知的トレンドを前にすると、自分も古い人間なので、いわゆる「人文学」的な姿勢を完全に捨ててしまうことには、そこはかとなく抵抗感を覚えるからだ。それがある種ノスタルジックな感覚には違いないとしても、である。

いずれにせよ、先人のやってきたこと、考えたことを学ぶのは大事なことだ。先人がジタバタした結果、今の世の中があり、その中で自分たちもまたジタバタしているのだから。あるいは、先人について学ぶことが、今を生きる自分たちの存在の意味である、と言ってもいいくらいだ。従って今、「新古典」を読み直す価値はもちろん大いにある。

しかし一方で、この本に登場する思想家の中で、今考え直すに値するのは誰なのかということは問われても良いと感じる。いうまでもなく「戦後思潮」とは戦後、つまり冷戦下の日本の思想の流れである。戦後60年、というよりは冷戦後20年という時間が経過した今、戦後思想に対する相当乱暴な評価も許されるのではないかと思う。使える戦後思想、使えない戦後思想を、誰か専門家が独断的にでもいいから仕分けして示してくれないものか。

(蛇足ですが安岡章太郎には、レヴィ=ストロースのように100歳を迎えてもらいたい)

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