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2008年10月 6日 (月)

「承認」という「問題」

例の秋葉原事件をきっかけに、ブログ界では「承認」を巡る論議が湧き上がった。『ブログ論壇の誕生』(佐々木俊尚・著、文春新書)第10章「承認という問題」からメモ。

(秋葉原連続殺傷事件の容疑者の)「彼女がいない」という叫びは、言ってみれば「自分は承認されていない」という容疑者の悩みを象徴するものだったのだ。恋人との関係というのは、無条件での全人格的承認である。

リアル社会で承認されない、接続できない人であっても、インターネットの世界であれば簡単に接続され、簡単に承認される。しかしそこで得られる承認は、限定的でしかない。

でも人は、どこかで無条件に承認されることを本能的に求めている。いまは農村も終身雇用制もなくなってしまって、承認される安息の場所としては、家族や恋人ぐらいしか残っていない。だったら家族や恋人のいない人は、どうやって自分が承認される安心感を抱くことができるのか?

人間は「承認」を求める動物である。そんな話は最近、別の本でも目に付いた。

もともと人間って、自分の存在価値を自分では証明できないから、他者にそれを認めてもらうしかないんです。どうしても他者からの承認を求めてしまうんですよ。(萱野稔人、『「生きづらさ」について』)

自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要なのです。相互承認の中でしか、人は生きられません。相互承認によってしか、自我はありえないのです。(姜尚中、『悩む力』)

全く、岸田秀的には「幻想」である自我は脆い。おそらく、無条件の承認は基本的には母子関係においてしかあり得ない。それでも人は自我という虚構を支えるため、無条件の承認を与えてくれる(擬似)共同体的な場所を求める。それは端的に言って、幸福を求めることでもある。梅田望夫が『ウェブ人間論』の中で述べているように、「心地よく生きられるコミュニティを発見して、そこで長い時間を過ごすことって、幸福という観点からとても大切」で、「自分の居場所を見つけていく人だけが幸せに生きることが出来る」のだと思われるから。

若い世代を中心に、自分の居場所を探し続ける人は増大しているという印象が強い。それは承認を求める欲求が切実なものであると同時に、今の社会の中で自分の居場所を見つけるのはそう簡単ではないことも示しているようだ。いずれにせよ、「無条件の承認」あるいは「幸福」とは、求めても得られないのではないかという恐れを抱きつつ、それでもなお求め続けるものだ。と、言うほかない気がする。

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コメント

配偶者がいて(恋人がいて)数人の仲の良い

友人がいて、自分の快適な居場所があれば、それで十分に人は幸せなのですね。 国家が世界がどうであれ。

去年買った本に、「お金より名誉のモチベーション論」という面白い本があります。社員のやる気を引き出すのは承認欲求なのだというもの。

でも、この本に書かれているような承認を会社すべてに預ける生き方をする人は減っているのでしょうね。

 いくつかのコミュニティーに所属し、自我を複数のコミュニティーに分散しておけば、どこかの集団で傷ついても自我の痛みは少なくなるような気もします。

今の自分は全くできていません。中年にさしかかり、自我とコミュニティーとをうまくかかわらせていく対策を取っておかないと、孤独な人生が待っているのではないかという危機感もあります。

そう言えば、今、僕が執着しているお金も、自我の問題でした。適度のお金があれば、自我は安定する気がします。


投稿: はっしー | 2008年10月 7日 (火) 22時27分

そうだ、チャップリンも言っている、
「人生に必要なのは愛と勇気と少しのお金」ってね。

(今ちゃちゃっと検索したら、原文は愛ではなく想像力らしい。でも愛の方がセリフとしては決まっている感じ。)

投稿: donald | 2008年10月 7日 (火) 23時17分

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