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2008年10月30日 (木)

「戦国ギャル」に注目!?

「今、戦国武将に萌えている20~30代の女性が急増中」とか。「SPA!」今週号(11/4)の特集記事によれば、史跡巡りや戦国イベントに若いOLさんが集まっているのだという。小生も戦国時代好きであるから、とりあえず喜ばしい傾向ではあるのだが、ホントならそれは一体どういうことなのであろうかとも怪しみつつ、記事を読む。

戦国時代に興味を持つきっかけはゲーム、という人が圧倒的多数というのはいまどきの感じだが、彼女たちが関心を向けるのは信長や秀吉、家康といった超メジャーな人物よりも、真田幸村、石田三成、伊達政宗、あるいはその家臣など、ややマイナーというかローカルというか、何とも渋い趣味であることにまた意表を突かれたりする(・・・そういえば最近、ゲームの影響で長宗我部元親が人気という話を何かで見た時はタマげたな)。で、男の戦国ファンは、武将の合戦や知略などから人生訓や経営哲学を学ぼうとするのに対し、女性はキャラ優先、一人の武将に深く入り込むタイプが多いとか。「SPA!」は、知的で一途、古風な雰囲気の漂う戦国ギャルこそ理想の花嫁、という仮説まで提示。以下に、石原壮一郎と辛酸なめ子の対談からメモしてみる。

石原:戦国武将ってみんなリーダーシップがありますよね。常に女性をぐいぐいひっぱってくれるんでしょうね、武将が現実にいれば。
辛酸:生命力も強そうだし、戦国ギャルは彼らに尽くしたいんじゃないかしら。現代は優しい男は多いけど、尽くしたくなるような男は少ないから。
石原:つまり、彼女たちは「尽くしたいエネルギー」がタマってるんですよ。エビちゃんの出来損ないみたいな女のコばっかり見てないで、彼女たちの良さを知り、発掘したほうが絶対にいい!
辛酸:彼女たちは、知的で縁の下の力持ちタイプ。経済観念がしっかりしていて、嫁・姑問題にも一歩引ける女性……なのでは。
石原:まさに理想の花嫁!……なのかな(笑)。

辛酸発言の「尽くしたい男が少ない」というのは、うーんそうかもって感じがする。女性には「尽くしたい」というか「尊敬したい」という気持ちはあるみたいだから、戦国ギャルと仲良くなりたいならば、まず自分が尽くしたいと思われる、尊敬されるオトコにならないといかんかな。

しかし戦国時代に限らず、ある分野に関して余りにマニアックな女子には「引く」ものがあったりするけど。(汗)

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2008年10月29日 (水)

ハイエク的自由と市場

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(新自由主義は市場万能主義にあらず)からメモ。

米国発の金融危機が世界的な株価の乱高下を引き起こす中で、その主犯と見られる市場万能主義と新自由主義を混同する議論も少なくない。だが二つの「主義」は似て非なることを忘れてはならない。

ハイエクは社会に広く分散している知識を効率よく利用するためには、少数の人間が権力を握る政府に知識を集中するよりも、「市場を通して人びとが自由に知識を交換できるほうが望ましい」と指摘した。市場に任せるのが最善だと主張したわけではない。ハイエクにとって市場における自由競争は、少数のエリートが権力を握る政府よりも相対的に望ましいという意味で、あくまで次善の選択だった。

ハイエクが新自由主義者と呼ばれたのは、「既得権を擁護しようとしたり伝統に固執したりするオールド・リベラリスト」に反旗を翻し、自らの信念「人は法の前で平等」に反する慣習や制度の改革を積極的に説いたからである。必ずしも市場が万能だと喧伝したからではない。

・・・おそらく、人間社会の知的な働きの在り方を示したハイエク的な自由主義は、投資主導経済のイデオロギーとなった「新自由主義」とは異なるものなんだろう。でも、ある言葉が実は何を意味するのか、よく分からないまま世の中に流通してしまうのは有り勝ちなこと。今年8月14日付日経新聞「経済教室」でも、経済学者の小宮隆太郎が、「新自由主義」と「市場原理主義」は、意味不明のおまじないのような言葉だと書いていて、確かに学問的厳密さを欠いている、どちらかといえばジャーナリスティックな用語だと思われるし、これが「ネオリベ」になると、格差社会の元凶、貧困を生み出す悪へのレッテル貼りという感じ。まあ、学者さんほど言葉を厳密に使うための勉強をする時間もないけれど、何とか「主義」というと、経済学よりは文学の方に足を突っ込む危うさもあるので、何となく雰囲気で言葉を使うことは戒めたいものだな。

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2008年10月28日 (火)

ドル帝国の終焉

水野和夫・三菱UFJ証券チーフエコノミストは、グローバル化は止まらないだろうが、混沌とした時代は続く、と見る(「週刊金融財政事情」10/27・11/3合併号)。以下にメモ。

新自由主義は、マネーが国境を自由に越えて動く世界を構築するのに最適なイデオロギーだった。95年以降のアメリカにおいて「強いドル」政策が、国際資本の完全移動性を実現させることによって「ドル帝国」を実現させた。95年からパリバ・ショックの07年8月まで「世界のすべてのおカネはウォール街に通じていた」のである。この間、世界の金融資産は102兆ドル増加したことになる。

ところが、サブプライムショックは収まるどころか、08年7月になると米住宅金融公社2社の経営危機が表面化した。外国人投資家はアメリカから256億ドルの資金を引き揚げてしまった。07年8月のパリバ・ショック時の引揚げ額は過去最大の377億ドルだったが、実は今回のほうが米「ドル帝国」にとっては深刻である。現在は米銀が外銀から資金調達できなくなり、米資本は外国から資本を回収せざるをえなくなったからである。

サブプライムショックは08年7月以降、ドル帝国の資金繰り難という新しい局面に入ったのである。経常赤字額を上回る外国資本の流入を図り、その差額を投資利回りの高いアジアなど新興国や日本の不動産に投資する米「ドル帝国」の根幹が崩れているのである。

米金融システムを安定化させるには、国有化も辞さない米銀への公的資本注入と同時にドル防衛が不可欠である。
不良債権買取りに公的資金7000億ドルを投入し、新たに必要となる米銀への公的資本注入
を加えれば1兆ドルを超える国債が新たに発行されることになる。現在、アメリカの財政赤字は年間4500億ドルであり、それに1兆ドル以上の国債発行が追加されれば、外国中央銀行のドル買い介入がないとドルが急落する懸念がある。米金融システムの安定化とは、外国中央銀行のドル買いがあって初めて成功するのである。

「ドル帝国」が凋落しても、グローバル化が止まるわけではない。新自由主義にかわる新たなイデオロギーが出てくるまでは、混沌とした時代のなかで、経済の中心が先進国から新興国へ移行することが予想される。

・・・今後の世界経済は、「ドル帝国」崩壊の悪影響を最小限に留めるための措置を講じながら、調整を続けた後に新興国が中心的な位置を占める、方向性としてはそんな感じ。経済データを踏まえつつ、ひとつの思想とも呼べるような現実認識を呈示する水野氏は証券業界の宝です。

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2008年10月25日 (土)

恐慌プライシングの是正

武者陵司・ドイツ証券副会長は、現在の恐慌価格ともいえる資産価格の下落は、合理的な妥当性があるというよりも、売りが売りを呼ぶ悪循環が生み出した心理による部分が大きいと見ている(「週刊金融財政事情」10月20日号)。つまり、この心理を反転させれば、恐慌価格も是正される、ということで以下にメモ。

ここで決定的に重要なのは恐慌プライシングの是正である。そのためには、恐慌の可能性を否定することである。現在、住宅ローン債権をはじめさまざまな資産価格が恐慌価格となっている。恐慌つまり大失業と大倒産が現実のものとなれば、平時から考えれば極端な売られすぎの資産価格も正当化される。

何が恐慌を食い止める力となるか。それはレバレッジの肯定、リスクテイクの肯定の心理を強めることである。ここでは徹底的なリレバレッジ政策、心機一転の総合的なデフレ対策が必要である。その焦点は金融機関への資本注入に加えて、より根源的な不安である住宅価格の底入れを確信させる財政政策となろう。減税や公的低利住宅融資スキームの創設は必至であろう。恐慌対策の専門家たるバーナンキFRB議長に率いられたアメリカにおいては、対デフレ政策は結局勝利するだろう。

そして首尾よく恐慌の可能性が否定されたときには、劇的な資産価格の暴騰が起こるはずだ。

・・・理屈っぽく書かれてはいますが、要するに適切な経済対策が打たれれば、株価は反転上昇するってことなんでしょう。当たり前っちゃ当たり前ですが。
(まあ現状は対策云々より、ファンドの売りが収まるのを待つしかない、って感じですが)

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2008年10月24日 (金)

資本主義純粋化の失敗

本日付日経新聞・経済教室「自由放任は第二の終焉」(岩井克人・東京大学教授)からメモ。

新古典派によれば、資本主義は純粋になればなるほど理想状態に近づく。非効率性や不安定性があるのは、市場の「見えざる手」を阻害する「不純物」があるからである。不純物さえ取り除けば、後は自由放任主義に徹すればよい。

これに対してケインズが示したのは、資本主義には理想状態などないということであった。効率性と安定性とは二律背反の関係にあり、資本主義が一定の安定性を保ってきたのは、労働慣行や資本規制など市場を阻害する数多くの「不純物」があったからにすぎない。確かに資本主義を純粋化すると、効率性は高まる。だがそれはマクロ的な不安定性を増幅し、恐慌やハイパーインフレを絶えず引き起こしてしまうという。資本主義の存続のためにも、自由放任主義というイデオロギーから資本主義を解放し、何らかの安定化政策を導入する必要があるというわけである。

ケインズの革命は、長続きしなかった。新古典派経済学の反革命が始まり、80年代には再び学界を制覇したからだ。それと軌を一にして、英米を中心に経済政策が自由放任主義に大きく転換し、効率化を旗印に規制緩和が進められた。あらゆるリスクを証券化していく金融革命を先頭に、市場は世界全体を覆い尽くすことになった。「グローバル資本主義」の成立である。

グローバル資本主義――それは、資本主義の純粋化は効率化も安定化も実現するという新古典派経済学の壮大なる実験でもあった。そして2008年米国のサブプライム問題に端を発した金融危機は、その実験の破綻を告げた。現実が立証したのは、資本主義の純粋化は効率性を増す代償に不安定性を増幅させるという「不都合な真実」であった。

・・・論述はさらに「自己循環論法」、「投機」の純粋形態である「貨幣」の本質的な不安定性、など岩井ファンにはお馴染みの概念(出た出たって感じ)を使いながら進められていくのだが、それはさておき、新古典派経済学の実験が破綻したのだとしても、その後に来るものは何かなと。いったんは貨幣の不安定性を抑える方向に行くのは間違いないんだろうけど。

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2008年10月23日 (木)

レーガン主義との訣別

今週の「ニューズウィーク日本版」(10/29号)掲載の「アメリカ株式会社の没落」(フランシス・フクヤマ)からメモ。

(レーガン主義において)とくに神聖視されたのが、減税を行っても財政赤字は拡大しないという考えと、金融市場には自主抑制メカニズムがそなわっているという考えだ。

実際には、レーガン主義者の考えは誤りだった。支出を減らさずに減税すれば、結局は赤字に苦しむ羽目になる。減税に関するレーガン主義の誤りを見えにくくした要因の一つは、経済のグローバル化だ。外国人がドルを買い続けたおかげで、米政府は赤字をかかえながらもかなりのペースで経済を成長させることができた。

レーガン主義者がめざした金融業界の規制緩和は、ウォール街の金融機関の賛同の下で推進された。
規制緩和は、確かに商品開発に役立った。しかし今回の金融危機の元凶は、債務担保証券など、規制緩和で生まれた商品だ。
規制緩和はシリコンバレーのような場所ではプラスに作用するが、ウォール街ではそう簡単にはいかない。金融機関にとって最も重要な信頼を守るには、政府の監督の下で経営の透明性を維持するとともに、リスクの高い取引には手を出さない堅実路線を取る必要がある。

今回の危機から立ち直るには、根本的な変化を起こす必要がある。われわれはまず、税金と規制に関するレーガン時代の考え方を捨てなければならない。減税は必ずしも成長を刺激するわけではないし、最終的に税収増をもたらすかはわからない。
今の金融危機を見てもわかるとおり、規制緩和が生む問題や市場のスピードに監督当局が対応できないと、大混乱を招くおそれがある。

レーガン革命は50年に及ぶ民主党支配を打破し、当時のアメリカがかかえていた問題に解決策を提示した。だが、時代は変わった。

・・・フクヤマといえば、冷戦終末期に「歴史の終わり」(自由な民主主義の勝利)という概念を呈示したことで印象の強い知識人。なので、冷戦終末期以降の新自由主義やグローバル資本主義の勢いに一区切りを付けるような昨今の情勢について、何を語っているのかと気になった。けど、金融危機によってアメリカのブランド力は損なわれている、とかそんな話で、あんまり感心しなかった。

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2008年10月20日 (月)

一つの時代の終わり

今週の「日経ヴェリタス」(10/19付)の「危機原論」(末村篤・特別編集委員)は、今起きていることは一つの時代の終わりを意味する、と説く。以下にメモ。

まず21世紀初頭に姿を現した、高成長・低インフレ・低金利という「ゴルディロックス経済」の終焉である。
ゴルディロックスは先進国の10億人に新興国(BRICs)の30億人が加わるグローバル化の過渡期の現象だった。米国の住宅バブルの資産効果による消費主導の成長と、BRICsの輸出産業中心の投資主導の成長が世界経済を牽引。低賃金労働力の市場参加が先進国の賃金も抑制して歴史的な価格(コスト)革命が起きた。

ゴルディロックス経済は1980年代以降ほぼ30年続いた先進国経済のトレンドの最終段階で咲いたあだ花でもあった。「80年代パラダイム」とは、米大統領と英首相の名前を冠して「レーガン・サッチャー革命」と呼ばれる新保守主義・新資本主義革命である。
旧ソ連の崩壊で拮抗力を失った新自由主義イデオロギーは世界を覆い尽くし、大恐慌の経験から生まれた修正資本主義(福祉国家)の解体、労働者の既得権剥奪と中産階級(ホワイトカラー)の没落が進行した。

この時代を特徴づけたのが金融文化革命で、実体経済の僕だった金融は経済の主役に躍り出る。金融産業は高収益を生む成長産業となり、金融立国として米英を空前の繁栄に導いたが、金融の暴走が招いた世界危機で米英型金融システムは80年代パラダイムとともに寿命を迎えた。

先進国にBRICsを加えた40億人の世界経済は、潜在的な有効需要(モノ需要)が本格的に顕在化することで、80年代以来のディスインフレ経済からインフレ経済に転換する。
物価の上昇だけではない。40億人の経済が直面する深刻な環境、資源、エネルギー、食料の制約を克服するために、膨大な研究開発や設備投資が必要となり、余剰資金が実需に吸収されて、金融主導経済は実物主導経済へシフトする。
金融肥大経済が爛熟し自壊を起こしたパニックは、金融に振れすぎた振り子が実物に回帰する正常化のプロセスの摩擦であり、生みの苦しみでもある。

・・・冷戦後の、あまねく市場化されていく世界を、投資資金が駆け巡るという時代は、大きな曲がり角を迎えたという思いを強くする。

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2008年10月19日 (日)

株主資本主義の欺瞞

強欲資本主義 ウォール街の自爆』(神谷秀樹・著、文春新書)の「第五章 資産運用ゲーム」からメモ。

損益計算書は、「トップ・ライン」とも呼ばれる「売上げ」から始まる。これはお客様に支払っていただいたお金だ。次は製品を生産するコストである「製造原価」で、仕入れ先に支払わなければいけない金額を表す。以下は、たくさんの経費項目が並ぶ。従業員に支払う賃金、銀行に支払う金利もこれらの項目にある。売上げからこれらの諸経費を差し引いたものが「税引き前利益」である。この利益から税金を支払うと、「ボトム・ライン」、すなわち株主に配当できる金額および役員報酬に充てる金額が出てくる。

この損益計算書は、企業活動のあるべき姿を実によく現している。
まずは「何よりもお客様(売上げ)」である。お客様があってこそ、仕入先や従業員にきちんと支払いをすることができる。借金をしていれば金利を支払い、元本も返済しなければならない。儲かっていれば税金を納める。こうした「社会的責任」を十分に果たして、初めて配当と役員賞与に充当するお金が出てくる。

しかし、ファンド・マネージャーは、そのようにはこれっぽっちも考えない。
近年では欧米流の会社は株主のもの、株主重視という考え方が広がっている。経営の教科書的にいえば、企業が将来
どれだけのキャッシュフローを生み出すかを評価したものを「企業価値」といい、そこから負債を差し引いたものを「株主価値」という。従って「株主価値」の最大化を目指すことが優れた経営の目標であり、ファンド・マネージャーの興味もここにある。もっとも、それは歪んだ発想である。

彼らに興味があるのは、「株主の利益」と「自分の収入」だけなのだ。会社は自分たちだけのものであり、自分たちの儲けを最大化するために「トップ・ライン」と「ボトム・ライン」の間にあるすべての支払い義務をいかに圧縮するかに熱心に取り組む。給料を減らす。社員を減らす。仕入先を泣かす。最大限に借り入れてレバレッジを効かし、支払い金利を膨らませ、税金は極力圧縮する。彼らにとっては、これが「株主価値」を高める行為なのだ。通常の人であれば、これは文字通り「本末転倒」と考えるのではないか。「株主資本主義」は欺瞞に満ちている。

・・・ヘッジファンド化した投資銀行の滅亡に伴い、ファンド資本主義的な原理である株主価値経営の在り方にも、強い批判の目が向けられるだろう。冷戦後のグローバリズムを主導してきた米国型資本主義に対する全面的な見直しは避けられない。

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2008年10月18日 (土)

リスクテイクバブル

昨年夏、日経新聞紙上で「リスクテイクバブル」なる概念を唱えていた小幡績・慶應大学大学院准教授が、『すべての経済はバブルに通じる』(光文社新書)で自説を詳細に展開。リスクテイクバブルは、構造的に市場に組み込まれている21世紀型のバブルであるという。その根本にある要素として考えなければならないのは、「証券化の本質」と「投資家と運用者の分離」。まずは「証券化」についての要点。

「証券化」の本質は、資産の「商品化」である。資産は証券化により、「市場価格」の付く投資商品となる。証券化により生み出された投資商品は、その資産の特性の全てが、リスクとリターンとして標準化されている。このため多くの投資家が買い手として現れるので、流動性が飛躍的に高まる。その結果、売りたいときに売れないという流動性リスクは減少する。

次に「投資家と運用者の分離」について。

現代金融市場において、投資家と運用者は別の存在である。これを株式会社の「資本と経営の分離」に倣って、「資本と頭脳の分離」と呼ぼう。頭脳たるプロの運用者は、顧客である投資家の資金引き揚げの可能性に制約され、取るべきでないリスクを取ってしまうという罠に陥る。一方、投資家も、資金を預けた運用者の能力について、結局はパフォーマンスの結果だけで判断して、過大なリスクを取りがちなファンド運用者に資金を預けてしまうこととなる。
この結果、ファンドマネージャーたちは、取るべきでないリスクを過大に取ってしまい、これにより金融市場全体で、リスクテイクが過多になってしまう。これが、リスクテイクバブルの第一の要素である。これに、証券化による投資家の拡大と流動性の増大が価格上昇につながるという連鎖が、第二の要素として加わることにより、リスクテイクバブルは膨張する。

さらに、バブルにおける運用者の行動について。

バブルが発生しているとき、ライバルに勝つためにも運用者はバブルに乗らざるを得ない。しかも目いっぱい乗らないと意味がない。ほとんどのヘッジファンドは、いわゆるレバレッジを効かせている。借金をして投資額を膨らませているのだ。運用の利回りがプラスのときは良いのだが、バブルが崩壊した瞬間に地獄となる。マイナス幅が倍増するだけでなく、借金の担保に提供した証券も値下がりして、即座に借金返済を迫られるためだ。こうして、投資した証券の投売りが始まる。流動性がない資産は売ろうとしても売れないので、流動性のある証券など他の資産まで投売りされることになる。
この負のスパイラルにより、世界の金融市場全体が同時多発的に暴落に見舞われる。現代の金融市場は、「金融恐慌の日常化」という可能性を孕んでいる。

・・・激しい運用競争に打ち勝つために、リターンの極大化を目指す運用者たちは、バブルの中でレバレッジを目一杯効かせてリスクテイクに踏み込んでいく。そしてバブルが崩壊するや否や逆回転の動きが広がり、あらゆる資産の投売りが加速する。現在の極端に異常とも思える世界の株安も、まさにその現れと見るのが妥当なのかも知れない。

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2008年10月13日 (月)

二つのアメリカ

民主党のアメリカ 共和党のアメリカ』(冷泉彰彦・著、日経プレミアシリーズ)から、まずは民主党、共和党それぞれの「DNA」についてメモ。

過剰なまでの正義感と、自己肯定、そして「話せば分かる」という楽観性、つまり「信ずること」が民主党のDNAであるならば、共和党のDNAはその正反対である。彼等の核にある思想は「懐疑」だ。(①財政面の保守主義=小さな政府論=強大な中央政府の権力への疑念、②社会価値観における保守主義=中絶や同性愛婚、銃規制への反対=人間中心主義への疑念、③軍事面での保守主義=イラク戦争の肯定と派兵継続、一国主義=異文化への疑念)

特に「社会価値観」の問題における両党の一歩も譲らない姿勢が、「銃規制」「生命倫理」「同性愛」という、アメリカ特有の論争として表れていると本書は指摘している。

両党の価値観が、映画やスポーツ、ビジネスなどの分野でいかに現れているかを語っている第三章(民主党のカルチャー、共和党のカルチャー)はなかなか面白い。一例として女性向け人気連続ドラマによる対比について以下に。

『セックス・アンド・ザ・シティ』に登場する4人の独身女性グループの団結の固さ、とりわけお互いのことを「ソウルメイト」と呼んでいる感覚は民主党のカルチャーである。どこかに同性愛的なフレーバーを感じさせる新しさがあるのだ。このシリーズの底流にはメイン・テーマとして「自分の人生観に合う理想の男性を探したい」という思想が入っている。女性たちが「自己の尊厳」を大事にしながら「純愛」を追いかける話なのだ。「純愛」を追い求めている、正にそこが民主党的なのである。

一方、『デスパレートな妻たち』は共和党のカルチャーを代表している。登場人物たちは専業主婦という檻に閉じこめられて鬱屈し、その不満な思いが不倫を中心とした破滅的な行動に向かわせるのだ。そこに流れる人生観は、「妻たち」にとって人生はコントロール不可能という一種の諦めのような心境である。幸福になろうと思えば思うほどに、自分の人生はどんどんと思わぬ方向に行ってしまう、そんな感慨である。その核にあるのは、所詮他人の心は分からないのだから、人生というのは自分一人が「孤軍奮闘」してゆく「ほろ苦い」ものなのだ、という見事なまでにカウボーイ的な思想なのである。

もうひとつ、民主党のジョージ・ミッチェルがメジャーリーグの薬物問題を追及した事に絡めて語られる、民主党と共和党の「正義」観の違いについて以下に。

民主党のカルチャーには「究極の正義」というものがあって「その正義というものは必ず勝つし、勝たねばならない」という発想が根底にある。その一方で、共和党のカルチャーはどこまで行っても西部劇風であって「正義」というのはあくまで神のみが知るもの、人間はむしろ「正義」に翻弄される中にその存在がある、という思いが強い

・・・人間の理想と可能性を信じる民主党と、人智の及ばない領域を感覚する共和党。とっても単純に言うと、民主党は青年の政党で、共和党はオヤジ政党。現在の大統領候補者のイメージそのまま。政策的なことはともかく、社会的文化的な価値観について、自分の考え方の民主党度、あるいは共和党度を測りながら眺めてみれば、アメリカ大統領選挙への興味もより増すんじゃないかな。

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2008年10月 8日 (水)

勝間式「読書」提案

僕は勉強が嫌いだ。いわゆる「勉強法」の本など読む気にならない。だから、今時の本屋のビジネス書コーナーを席巻する「勝間和代」の何処が良いのかも分からない。でも本は好きなので、勝間サンの今度の新刊『読書進化論』にはちょっと興味を持った。そしたら、今週の「週刊ダイヤモンド」(10/11号)に、勝間サンの読書に関する提案が記事になっていたので、それを読んで済ますことにした。(苦笑)

「読書」の幅を広げるための勝間サンの提案は以下の5つ。

①リアル書店とネット書店を使い分ける
②和書と洋書を使い分ける
③本(読む)とオーディオブック(聴く)を使い分ける
④読み終えた内容を積極的にアウトプットする
⑤複数の人たちと読書の愉しみを共有する

②③は自分には実行する可能性(というか意思)が殆ど無いので、とりあえず④について、もう少し記事からメモしてみる。

読書はあくまでも著者の体験を擬似体験するプロセス。擬似体験を自分の体験に落とし込むためには、「アウトプット」の作業が欠かせない。アウトプットの究極は、自分で本を書くことだけど、まずはブログを書いて修業してみる。アウトプットの手法はほかにも、本で読み覚えたことを会話にする、人に説明する、ものを考えるときに使う、業務改善に使う。とにかく、本の内容を徹底的に使い尽くすこと。

・・・自分も本を読んでブログにメモすることは日常生活の一部になっているけど、それはアウトプットによって本の内容を活用しながら自分のものにするというよりは、アウトプットを前提にすることでインプットそのもののレベルを上げる、という意味合いが強い。つまりブログに書くことを前提に本を読むことは、読書という行為の密度を上げてくれる、ということ。ある本の中で自分のためになった部分や気に入った部分を、できるだけ短く要約して書こうとすると、頭の活動は結構テンション上がります。

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2008年10月 7日 (火)

「現在価値」は万能ではない

本日付日経新聞のコラム「一目均衡」(筆者は末村篤・特別編集委員)からメモ。

投資銀行が担った金融文化の特徴は、あらゆる資産を市場取引の対象とするために、価格を時価で評価する会計思想である。市場価格がないものにまで「時価」を付ける「現在価値革命」の暴走と挫折が、投資銀行を葬り去った。

現在価値革命は、資産価値を過去の費用や利益の積み上げではなく、将来収益の割引現在価値で認識し、すべての金融取引に適用する金融文化を指す。会計上の資本概念は、払込資本に内部留保を加えたものから、時価評価後の資産から負債を引いたものにコペルニクス的転換を遂げた。

計測できないものも計測し、時価を利用し尽くす欲求は、80年代以降の金融資本主義に由来する。株の交換価値は時価、企業の予想収益の割引現在価値であり、高いほど歓迎された。「市場の要請」の名の下で、進行したのが現在価値革命といえる。

IT(情報技術)株バブル崩壊で、2000年代は証券化商品の時代となる。住宅ローンなどを原資産とする資産担保証券を分解・合成した金融商品の価格(時価)は金融工学がはじき出した理論値にすぎない。計算の前提が狂い、価格に疑問が生じれば、市場は消滅し価格も消える。

米金融安定化法は「時価会計凍結」を盛り込んだ。批判は簡単だが、そもそもの価格(評価)に問題があったのだ。行き過ぎた市場主義の問題の根は深い。

投資銀行の消滅で始まる金融文化の見直しでは、高レバレッジ経営とともに現在価値革命の修正が課題になる。

・・・資本主義とは「とらぬ狸の皮算用」なのかと思う。「将来収益」といい「割引現在価値」といい、計算の前提がどこまで合理的あるいは現実的なのか、疑いを挟む余地が大きければ大きい程、資産価値の妥当性も曖昧になっていく。時価評価の規律維持を担保する仕組み作りは必要と思われる。(具体的な事柄は正直思いつかないけど)

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2008年10月 6日 (月)

「承認」という「問題」

例の秋葉原事件をきっかけに、ブログ界では「承認」を巡る論議が湧き上がった。『ブログ論壇の誕生』(佐々木俊尚・著、文春新書)第10章「承認という問題」からメモ。

(秋葉原連続殺傷事件の容疑者の)「彼女がいない」という叫びは、言ってみれば「自分は承認されていない」という容疑者の悩みを象徴するものだったのだ。恋人との関係というのは、無条件での全人格的承認である。

リアル社会で承認されない、接続できない人であっても、インターネットの世界であれば簡単に接続され、簡単に承認される。しかしそこで得られる承認は、限定的でしかない。

でも人は、どこかで無条件に承認されることを本能的に求めている。いまは農村も終身雇用制もなくなってしまって、承認される安息の場所としては、家族や恋人ぐらいしか残っていない。だったら家族や恋人のいない人は、どうやって自分が承認される安心感を抱くことができるのか?

人間は「承認」を求める動物である。そんな話は最近、別の本でも目に付いた。

もともと人間って、自分の存在価値を自分では証明できないから、他者にそれを認めてもらうしかないんです。どうしても他者からの承認を求めてしまうんですよ。(萱野稔人、『「生きづらさ」について』)

自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要なのです。相互承認の中でしか、人は生きられません。相互承認によってしか、自我はありえないのです。(姜尚中、『悩む力』)

全く、岸田秀的には「幻想」である自我は脆い。おそらく、無条件の承認は基本的には母子関係においてしかあり得ない。それでも人は自我という虚構を支えるため、無条件の承認を与えてくれる(擬似)共同体的な場所を求める。それは端的に言って、幸福を求めることでもある。梅田望夫が『ウェブ人間論』の中で述べているように、「心地よく生きられるコミュニティを発見して、そこで長い時間を過ごすことって、幸福という観点からとても大切」で、「自分の居場所を見つけていく人だけが幸せに生きることが出来る」のだと思われるから。

若い世代を中心に、自分の居場所を探し続ける人は増大しているという印象が強い。それは承認を求める欲求が切実なものであると同時に、今の社会の中で自分の居場所を見つけるのはそう簡単ではないことも示しているようだ。いずれにせよ、「無条件の承認」あるいは「幸福」とは、求めても得られないのではないかという恐れを抱きつつ、それでもなお求め続けるものだ。と、言うほかない気がする。

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2008年10月 5日 (日)

バブルには効用もある、のか

資本主義は嫌いですか』(竹森俊平・著)の第Ⅰ部「ゴーン・ウィズ・ア・バブル」からメモ。

アメリカの住宅バブルの発生に重要な役割を果たした「低金利」をもたらした要因としては、FRBの政策のほかに「構造要因」も考えられる。グローバル化の進展により、新興国は高い成長率を実現し所得も拡大、それに伴い貯蓄が顕著に増加する。そのことが、グローバル金融市場に潤沢な資金の状態をもたらしたのである。

1997年のアジア通貨危機以降、アジアの新興国は資本輸入に依存した経済発展を嫌い、国内投資を抑制してまでも国内貯蓄の余剰を創出して、それを海外に輸出するようになった。これにより世界経済は「貯蓄過剰」の状態となり、世界金利が下落し、世界各地における住宅バブルを生んだ。

アジア新興国が投資を抑制すると、世界経済には「需要不足」による不況圧力が生まれる。世界各地の住宅バブルによる消費の拡大は、不況圧力を打ち消した点においては世界経済にプラスだった。

ジャン・ティロールの「合理的バブル」の研究によれば、「動学的効率性の条件」(その経済における投資収益率が成長率を上回るという条件)が満たされない時(投資がすでに過剰で、投資収益率が経済成長率以下に低下している状態)には、バブルが経済効率の改善につながりうる。すなわち、バブルは真正な投資に対する代替的な選択肢になることを通じて、資本設備を適正な水準まで縮小させる。これにより真正な投資の収益率も改善されて、「動学的効率性の条件」が満たされる状態を回復することになる。バブルは経済効率を改善させ、「動学的効率性の条件」を回復させるための「必要悪」、あるいは自己調整能力といえるかもしれない。

リカルド・カバレロによれば、新興国における投資対象の不足という根本問題が、「金融資産」市場における「超過需要」(「投資対象への需要」に比べて「投資対象の供給」が不足する)の状態を生み出す。世界各地におけるバブルの頻発は、その傾向を解消する(真正な投資対象が不足するために、代替的な投資対象となるバブル資産を次々につくり出す)ための経済の自然な反応である。

・・・実物投資の対象が見当たらない時に、不況を回避するためにもバブル投資が必要になるということなのかも知れないが、かつて実物投資からバブル、バブルから実物投資へと上手くリレーされたという覚えは無いし、バブルもやがては崩壊して経済に悪影響をもたらすというのは世界経済が何度も経験したところ。それでも金融資本市場における「超過需要」の状態が続くならば、バブルは死なず、ということになるのだろうか。

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