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2008年9月29日 (月)

「格差」と「日本的雇用慣行」

先日の池田信夫ブログに、格差の原因は「長期不況と、若者を犠牲にして中高年の雇用を守る日本的雇用慣行」であると書かれていた。後者の要因に関連して、『この国の経済常識はウソばかり』(トラスト立木・著、洋泉社新書y)の「第4講」からメモする。

高度成長期以来、大企業の従業員や公務員の場合、中年社員が新入社員の2~3倍程度の給与をもらう日本独特の年功序列型賃金が定着しました。この賃金制度は高度成長、人口ボーナスと言った好条件がそろっていればよいのですが、低成長で人口減の時代になり、社員も高齢化が進むと、中高年社員が給与原資の大半を独占してしまい、企業は儲からなくなるという状況に陥りました。

定年に近い先輩社員から我先に給与をもっていくことになりますから、若者の給与を上げる原資も、新入社員を雇う余裕もなくなってしまいます。つまり、年長者優先の賃金制度があまりにも硬直的になり、合理的に賃金を配分する調整機能が働かなくなってしまったのです。バブル経済がはじけた90年代以降、大半の企業は年功序列により麻痺した賃金の調整機能には手を付けず、新規参入(若者)の市場を「雇用の調整弁」としてフルに活用し、これを目いっぱい活用する方向に動きだしたのです。

「年功序列型の正社員の賃金」を調整するには、企業も大変な時間と労力を要しますので、何もいわない若者という新規参入者の賃金を「激安」にすることで、トータルの労務費を圧縮する道を選んだといえます。

その結果、企業は雇用において「派遣社員制度」に目をつけました。労働者派遣制度の自由化は、過剰な設備、雇用、借金で四苦八苦していた企業側からの要請で生まれたのです。その後、日雇い派遣や二重派遣など派遣社員がどんどん酷使される状況に進んでいきました。

こうして若者が、使い捨ての労働力として必要以上に「商品化」されてしまったのです。若者だけが「調整弁」として、賃金を下げるための「調整力」を「発揮」させられている状況はあまりにも不公平なのです。

この本の「第3講」では、経済成長が望めない状況の中で、政策の合理的な優先順位をつけることが最重要課題になっているにも係らず、マスコミや政治家の関心領域は、既得権を持つ年長者の利害が絡む問題に偏っているため、若者の貧困や結婚難などの「新しい問題」に対応できていないことが指摘されている。

指導者層の世代交代、または発想の転換が無いと、日本は滅びるよ、ホントに。

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2008年9月28日 (日)

グリーンスパンが見た金融危機

グリーンスパン米FRB前議長は、著作『波乱の時代』ペーパーバックス版に追加したエピローグの中で、金融危機に対する考え方を語っている。「日経ヴェリタス」先週と今週(9/21、28付)の2回に分けて掲載された、前議長の言葉とその解説記事(金融危機 グリーンスパン氏のエピローグ)からメモ。

「誰もがリスクを異常に取り過ぎていることを知っていた」
これまで米住宅ローン会社は信用力の低い人にも平気で住宅ローンを供与してきた。リスクを自ら抱えることなく、すべての債権を市場で売却できたからだ。複雑な金融錬金術のおかげでローン債権を束ねた証券化商品には米国債と同じ最上級の格付けがつく。金融機関は収益と資産の拡大につながる証券化商品を買いあさった。
金融業界では住宅の値上がりが止まれば、証券化商品が焦げ付くのは暗黙の了解。だが値上がりピッチに陰りが見えても、収益性の高い住宅ローンや証券化商品の組成ビジネスから手を引
こうとしなかった。収益や資産規模の拡大競争でライバルに後れを取りたくなかったからだ。

「我々が使うリスクモデルや経済モデルは高度かつ複雑になってきたが、それでも世界経済の動きをとらえるには単純すぎる」
モデルに頼りすぎる危うさを当局や金融危機が思い知ったのはわずか10年前(のLTCM破綻)。奉加帳方式でLTCMを救ったのは、今回苦境に陥っているウォール街の金融大手だ。にもかかわらず、教訓はわずか数年で忘れ去られた。

「陶酔感の蓄積を抑えるのは極めて難しい。私は強くそう感じる。この見方が正しければ、行き過ぎた投機熱が自らの力で崩壊するまでバブルは続くことになるだろう」
「金融市場の急変をすべて予測することはできない」
「市場はほぼ一夜にして陶酔感から恐怖心に振れた」

中央銀行はそもそもバブルの生成、膨張、崩壊を制御できるのか。グリーンスパン氏の回答は否定的だ。人間の本性がもたらすバブルは予測や管理が困難で、当局の意思では進路を大きく変えられない。従ってバブルをいかにつぶすかではなく、つぶれた後にどう対処するかを重視する。

「どの危機や調整過程も予想通りの形では起こらない。だからこそ私は適切な資本と流動性の余裕を持つよう金融機関に求める方法を好む」
「保護
主義や硬直的な規制に縛られず、柔軟性と弾力性のある市場を維持し、危機の衝撃を吸収できるようにしておくのが最善の方法だ」

グリーンスパン氏の危機管理にはいくつかの哲学があった。1つは「リスクマネジメント・アプローチ」。最悪の事態に備えて厚めに保険をかけておく手法で、大胆な利下げで金融危機の深刻化や景気の悪化を未然に防ぐのが一般的だった。

「景気循環や金融を扱うモデルでは、今でも人間本来の反応を十分にとらえることができない」
もう1つは「ルールより裁量」だ。グリーンスパン氏は経済の理論やモデルに縛られるのを嫌がり、自由で柔軟な金融政策運営を好んだ。

・・・グリーンスパンが「予言」するように、「今回の危機の先に待つ経済は、これまで慣れ親しんだ世界とは大きく違っている」のだとしても、中央銀行とバブルの闘いは将来も繰り返されるのではないかと思える。

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2008年9月24日 (水)

投資銀行の「バブル」経営

今週の「週刊エコノミスト」(9/30号)の特集記事は「米国金融崩壊」。倉都康行氏(『投資銀行バブルの終焉』著者)執筆コラムからメモ。

レバレッジへの寛容さや利益への飽くなき追求、格付けという偶像崇拝への傾斜、流動性への盲信などによって醸成されたバブルが、サブプライム問題で破裂した。
(同時に)投資銀行の経営に内在するバブル性が引きずり出され、そのビジネスモデルが問われている。

誤解を恐れずに言えば、バブルは金融ビジネスにとっての「怪しい友」である。収益面で楽しませてくれる一方、つきあい方を間違えるととんでもない目に遭う。投資銀行はこの友人とともに発展してきたと言えるのではないか。(その時々の市況環境に応じた金融商品、ジャンク債や資産担保証券などを販売して収益を挙げてきた)
ところが、その過程において、投資銀行の商品開発は、次第にニーズに対応するものから、ニーズを作り出すものへと怪しく変質し、サブプライム問題ではバブルを演出する側に立ってしまった。

バブルを作り出しながら生き延びる戦略は、永続しないビジネスモデルである。
当局によって金融支援を受ける投資銀行に、レバレッジ規制やディスクロージャー強化などが要請されるのは確実だ。実体経済から遊離したビジネスで利益を生み出せる環境の復活は期待できない。今後、投資銀行はM&Aのアレンジャーなど特定部門に特化する企業を除いて、商業銀行の1部門として内在する形に収斂していくのではないか。

・・・まさに投資銀行というビジネスモデルは自壊作用を起こして破綻し、投資銀行バブルは終焉を迎えることとなった。資本取引の自由化を進めて投資銀行にビジネスチャンスの拡大をもたらした、英米主導の「新自由主義」も曲がり角を迎えているとしたら、投資銀行の蹉跌は「冷戦後」という時代の終わりすら示しているような気がする。

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2008年9月23日 (火)

「アラフォー」関連銘柄

今週の「日経ヴェリタス」(9/21付)に「アラフォー」が取り上げられている。まあいちおう経済と投資の専門誌ですから、40歳前後の独身女性「シングル・アラフォー」向け市場と関連銘柄、という感じですけど。

「シングル・アラフォー」はバブル期に20代を過ごし、モノやサービスに対する感度が磨かれ、「自分なりの価値観」を大切にする世代。結婚に関しても「必ずしもしなくていい」と割り切れる。一般論だが可処分所得もかなり高い、とのこと。

彼女たちの消費対象として、まず挙げられるのは美と健康。資生堂(4911)は10月21日に新ブランド「リバイタル グラナス」を発売予定。富士フイルムホールディングス(4901)グループも、化粧品「アスタリフト」を発売している。小林製薬(4967)の肥満改善漢方薬「ナイシトール85」は54億円の売上。購入者の半分は女性という。

住宅購入にも前向きなアラフォー女性。三井不動産(8801)は、独身者らを対象にした「パークリュクス」シリーズを投入。全戸が単身もしくは小世帯向けでセキュリティーに優れている。スルガ銀行(8358)は、女性向けローンの草分け的存在。

少子高齢化や景気減速に伴う消費減退を補う手段として、今後ますます独身アラフォー女性の需要喚起は重要になる、とのこと。

・・・記事によれば、30代後半から40代半ばの女性の独身比率は2~3割に達する、ということらしいのだが、何だか凄い世の中になりました、という感じ。

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2008年9月22日 (月)

「上げ潮」政策の幻

財政出動でも増税でもない成長重視、いわゆる「上げ潮」の経済政策は、現状では空念仏に過ぎないようだ。『この国の経済常識はウソばかり』(トラスト立木・著、洋泉新書y)からメモ。

上げ潮政策は、もともと具体的な成長政策の提示に乏しく、世界経済の成長と軌道を合わせて日本経済も成長を果たそうという面がありました。しかし、上げ潮の前提条件になる生産性の急速な向上や国際競争力のある経済構造へ移行できる制度的な保証は何もなかったわけです。

振り返れば、この数年間の景気回復は、円安と米国市場、BRICs市場の成長に支えられて「外需依存型」でやってきました。それがサブプライム問題を発端とした原油高、資源高、食糧高による世界不況により、今や「上げ潮」の前提は総崩れに近い状況になりました。

齢化、人口減少、財政赤字など日本の成長を妨げている要因に本格的なメスを入れることを避け、自分自身の改革という自助努力を抜きにした成長策は、初めから失速することが目に見えていました。

株式ストラテジストの北野一も、「上げ潮」について意見している。雑誌「論座」10月号(この号で休刊)の鼎談「マネーは国家を超えるのか」における発言。

自民党の上げ潮派の人たちは、「成長率を上げましょう」と言っているわけですね。でも、簡単にできっこない。「生産性を上げるなんてあなた、具体的な方法を教えてください」という感じですよ(笑い)。方法論にリアリティーがないから政権内で説得力を持てないんですよ。

・・・「上げ潮」が実現できれば理想的なんだろうけど、それを具体的に政策化するのが一番難しいワケで。結局、麻生総裁もすんなりと誕生しちゃったし、「上げ潮」派も何となく消えるのかな。ていうか、経済対策か財政再建か、はたまた成長かというような従来型の経済政策の選択よりも、今の日本がやるべきことは、思い切った人口減少対策か、さもなくば道州制も含めた国家的制度改革か、って感じだけどね。

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2008年9月21日 (日)

投資銀行と新自由主義

リーマン・ブラザーズ消滅で『投資銀行バブルの終焉』(倉都康行・著、日経BP社)を読む気になった。巻末近くにある「後退する新自由主義」の章からメモ。

1970年代後半から1980年代の英米において、レーガン、サッチャーの両首脳が主導した「新自由主義時代」が生まれた。投資銀行が勢いを増した背景には、規制を排除して自由市場を中心とする経済システムを構築しようとした米国流の政治的意識も、強く働いていたと見るべきだろう。誤解を恐れずに言えば、投資銀行の隆盛やサブプライム問題はこの新自由主義の申し子である。

この米国が主導してきた新自由主義的なイデオロギーに基づく投資銀行スタイルの金融は、結果的に、その「自由」を拡大解釈し、大きく躓くことになった。住宅価格の上昇を前提としつつ証券化市場でのリスク・テイクを見込んで、信用力の低い借入れ人に対して無造作に住宅ローンを提供していった行為は、当局の視野の外側で急激に増加し、当局の監督外で急速にそのレバレッジ行為が進んだのである。
住宅ローンをアレンジするモーゲージ会社は、リスクは投資銀行が引き取るものと考えた。投資銀行は、そのリスクは投資家である保険会社やヘッジファンド、商業銀行などが引き取ると考えた。だが、投資家は、数多くのローンがパッケージされて切り分けられた証券化商品に、個別リスクを感じることはできなかった。リスクが分解され、分散される中で、責任感は雲散霧消してしまったのである。

民主社会と同じように金融市場においても「自由」は必要である。だが、それは同様に一定の社会責任能力を備えて初めて主張できるものだ。自由を武器にするなら、成熟した倫理感を持つ企業でなければならないが、利益優先哲学に溺れた投資銀行は、自らモラルを粉砕してしまったのである。

新自由主義は、強い批判を受け始めている。一時的にせよ、新自由主義が後退するのは世界の潮流であり、その中で一度破裂した「投資銀行バブル」が再び蘇るとは考えにくい。

・・・金融市場の主要プレイヤーが、過度の利益追求に走り、モラルを低下させるところにバブルが生まれる。経済主体が自律性を保てれば、規制の少ない環境でも構わないのだろうが、一方で競争も激しくなるため、どうしても利益追求への誘引が強まるのは避けられない。「規制」と「モラル」と「利益追求」のバランスを保つことは容易ではない。

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2008年9月18日 (木)

裁定型金融の「破綻」

リーマン・ブラザーズの破綻は、投資銀行に解体的出直しを迫っている、と指摘するのは池尾和人・慶応義塾大学教授。本日付日経新聞「経済教室」からメモ。

世界的に金融資本市場の自由化が開始された1980年代以降、しばらくは資産価格に関して多くの歪みが存在し、裁定型金融(流通過程での価格の差異に利益の源泉を求める、要するに「安く買って、高く売る」)で利益を上げる余地は大きかった。
同時に、従来は適切な取引手段がなかった種々のリスクに関し、それらを取引対象化するような、デリバティブに代表される金融技術革新が実現した。こうした革新の当初、米国の投資銀行は、まさに先駆者として各種のデリバティブ市場の開拓を主導し、価格体系の歪みの鞘を抜くことで多額の「創業者利得」を稼いできた。

しかし裁定が成功して、価格体系の歪みが解消されていけば、裁定取引でそれ以上の利益は上げられなくなる。裁定型金融のビジネスモデルは成功したがゆえに、世界的な金融資本市場の効率化をもたらすとともに、自らの収益機会を枯渇させることになっていった。

だが収益機会が乏しくなる中でも、米国の金融サービス産業には依然、高収益を求める圧力がかかり続けた。こうした状況の中で、高収益を維持するため、(金融商品のリスク特性を隠蔽する、あるいは金融商品や取引の内容をいたずらに複雑化することでリスクの過小評価をもたらす等の)「不公正取引」が増殖していったと考えられる。それが顕在化したのが、今般の信用市場危機であるということができる。

裁定型金融のビジネスモデルに基づく米国の金融サービス産業が、今後もこれまでと同様の高収益性を維持できるとは考えがたい。裁定型の金融活動は、その本来的な存在意義に見合う規模と範囲に縮小せざるを得ないだろう。

・・・このような高い見識を持つ先生が、日銀審議委員の候補者で終わったことを改めて残念に思う。日銀人事を政争の具にした民主党の愚に呆れる。

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2008年9月14日 (日)

グリーンスパンの見立て

グリーンスパン・FRB前議長は、『波乱の時代』ペーパーバック版に書き加えたエピローグの中で、サブプライムローン問題に端を発する今回の金融危機が収束する時期はまだ先であるとの見方を示している、とのこと。今週の「日経ヴェリタス」(9/14付)記事から、グリーンスパン氏の言葉をいくつかメモする。

「歴史を見ると、リスクの過小評価が長引いた時期はいくらでもある。問題はそれがいつ、毎度のように突然の終わりを迎えるのかであった」
「(バブル崩壊の)恐怖心は(バブル膨張の)陶酔感よりもずっと強い力を持っているのである」

「(今回の金融危機は)私が過去に見たどの危機とも違う。銀行業界と証券業界の主要部分を同時にマヒさせてしまったからだ」
「計上した評価損が銀行の実際の損失を正確に反映したものかどうかは今後何ヵ月も分からないだろうし、おそらくは何年も分からないだろう。この不確実性だけでも、今回の危機が完全に収束するまでにはまだ時間がかかることを意味する」
「米国の住宅が実際にどの程度の価値を持つのかは今後1年かそれ以上にわたって分からないだろう。従って不確実な状況はしばらく続く」

「冷戦後のディスインフレの圧力が徐々に消え、インフレ圧力が幅広い分野にあらわれてきている。これが手に負えなくなるのを防ぐことが今後、世界各国の中央銀行にとって主要な課題になるだろう」

・・・金融危機後の世界はインフレが復活する。その予測が意味するのは、世界のほぼ全域に市場経済が広がり、競争激化や労働コストの低下で物価が安定し、新興国で膨らんだ余剰資金が市場に流れ込んで金利が低下し、バブルの膨張と破裂が繰り返された「冷戦後」の時代の終わりでもある。

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2008年9月10日 (水)

昔の将棋ファンは驚いた

自分はオールド将棋ファンである。今の将棋界の事には全くと言っていいほど疎い。たまにNHK杯トーナメントを見るとか、タイトル戦の話が何となく目に入るくらい。だから、草柳文恵が自殺したというニュースの記事を読んで初めて、元亭主だった棋士の真部一男が去年死んだことを知った。何だか二重に痛ましい気分になった。

実際、彼らの結婚生活は短いものだったし、結婚そのものがもう大昔のことではある。それでも当時は、文字通りの才媛である草柳さんと、若手有望棋士だった真部という、異色の美男美女カップルは、将棋界に華やかな話題を提供した記憶がある。だから自分のようなオールド将棋ファンには何年、何十年経っても真部一男といえば草柳文恵ということで、ずーっと印象が残っているのだ。

真部は病死、草柳さんも病を苦にしてのことという。二人ともまだ50代、しかも元夫が世を去って1年も経たないうちに元妻が逝くという展開には言葉を失う。自分の気持ちの中に、そこはかとなく無常観ってやつが流れるのを感じる。彼らの結婚と同様に、彼らの最期もまた、自分を含めたオールド将棋ファンの心に深く刻み付けられたに違いない。

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2008年9月 7日 (日)

シチリアという場所

新潮社・とんぼの本『シチリアへ行きたい』の改訂版が出ている。カラー写真が多数掲載されたページをぱらぱらと眺めながら、シチリアというのは何となく行ってみたいと思いつつ、まだ行ってない場所だなあ、と思う。

シチリアに行きたい理由といえば、御多分に漏れず、まずは「ゴッドファーザー」の影響であるけれど、最近はこれに加えて、シチリア出身の神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の魅力、さらにはその十字軍の時代を超越したような皇帝を生んだ、多様な文化が共存した風土への関心が強くなってきた。以下に『ヨーロッパとイスラーム世界』(高山博・著、山川出版社)からメモ。

フリードリヒ二世にみられる合理的で現実的な態度は、おそらく、彼が生まれ育ったシチリアで育まれたものである。彼は、神聖ローマ皇帝としてドイツ王国の伝統を継承する立場にあったが、実際はまぎれもなくノルマン・シチリア王国の伝統を受け継ぐシチリア王だった。かつてのノルマン王たちと同じく、イスラーム教徒の役人やイスラーム教徒の軍人をかかえ、その宮廷ではイスラーム教徒を含む優れた学者たちが活躍していた。彼はまた、イスラーム世界の政情にもつうじ、イスラーム教徒をたんに異教徒だからだという理由で敵視することもなかった。フリードリヒ二世は、キリスト教世界しか知らない他のヨーロッパ君主たちと違い、キリスト教徒を中心とした世界観から自由だったといえるのである。

シチリアは実際に、イスラームとキリスト教の文化的学問的中継地点であった。

1927年、中世史家チャールズ・ハスキンズが『12世紀ルネサンス』という書物を刊行し、12世紀の西ヨーロッパがそれまで考えられていたような「暗黒時代」ではなく、ルネサンスと同じように文化活動が盛んな時代であったことを明らかにした。このハスキンズの12世紀ルネサンス論において重要な位置を占めるのが、イベリア半島とシチリア島の翻訳活動である。

イスラーム教徒たちは、かつて古代ギリシアやインドの学問を輸入して、イスラーム哲学や自然科学の基礎を築いた。12世紀に、今度はキリスト教徒たちが、イスラーム教徒たちの学問を、イベリア半島やシチリア島経由で西ヨーロッパに輸入する。このように、イベリア半島やシチリア島における翻訳活動は、アラブ・イスラーム文化圏から西ヨーロッパへと学問や芸術が伝わる文化移転の一部とみなすことができるのである。

・・・イベリア半島と共に、異なる宗教・文化の交流・中継地点だったシチリアという場所は、多文化共存の道を探る現代人に何かしら示唆を与えてくれるように思う。
12世紀ルネッサ~ンス!(乾杯)

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2008年9月 6日 (土)

劇画「信長」(池上遼一)

劇画「信長」(工藤かずや・作、池上遼一・画)が文庫版(全5巻)で登場。版元はコミックス版(全8巻)と同じメディアファクトリー。「幻のコミックス」といわれた小学館版(7巻まで発行後、未完のまま絶版)から13年を経て、メディア社が2003年に「完全版」として再刊した時は、それはもう長生きしてよかった、という位の一大事であった、ホントに。

5巻本の体裁は、やはりメディア社が廉価版というのかコンビニ・コミックの形で一度出していたので、初めてではない。個人的には小谷城攻めの話が途中で切れることなく読めるのが満足、全体的にも話の区切りの良いところで次巻に続く感じがする。

後半、やや画が粗くなった感じがするのだが、これは掲載誌の「ビッグコミックスペリオール」が、当初の月刊から月2回発行に変わった影響もあるのかなと、勝手に推測。

当時、池上は「ビッグコミックスピリッツ」で「クライング・フリーマン」を連載。「信長」の雑賀衆・陣兵衛のキャラが、「フリーマン」の敵役とかなりかぶっていたのはご愛嬌。

この劇画の信長は最後まで月代を剃ることはないのだが、これは池上・信長のダンディズムなんだろうな。

正直、この劇画で初めて知った史実もある。香木「蘭奢待」の話がそうだ。とても印象に残ったので、確か1997年の秋だったか「正倉院展」で蘭奢待が出品された時に、奈良まで見に行ったことがある。

本能寺の変の原因は、黒幕説や四国・長宗我部攻めとの関連が唱えられる現在の目から見ると、ビミョーな感じだが、いずれにしても信長の生涯を迫真力をもって描ききったといえるこの劇画は、まさに「これ以上の信長はありえない」という作品になっているのは確かだ。次は5巻本で判型を大きくして「愛蔵版」も作って欲しい!

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2008年9月 5日 (金)

「あなたとは違うんです」

今週初めに辞任を表明した福田首相が記者会見の最後に吐いた捨てゼリフ、「私は自分自身を客観的に見ることができるんです。(記者に向かって)あなたとは違うんです」が各方面でネタになっているようで、最後の質問で「総理の会見は国民には他人事のように聞こえる」と発言した中国新聞の記者にも、俄然注目が集まっている。

今週の週刊新潮(9/11号)では、件の記者さんに取材。当人の説明によると、特に最初から考えていた質問ではないらしい。

「そもそも、うちは小さな新聞社ですから、会見ではなかなか最初から質問しにくいですし。でも、あの会見を聞いていてもやっぱり他人事のように聞こえましたから、最後にどうしても聞いてみたかったんです」
「首相は、自分が苦労した政治状況をお前は何も分かっちゃいないと言いたかったのかも。ならばなおのこと、国民に説明義務がありますよね」

とのこと。また、中国新聞のサイトで読める当人のコメントでは、「生意気な質問だという指摘を受けるかもしれないが、あえて聞いておきたかった」として、「福田首相は確かに自身の置かれた状況を客観視し、慎重に発言する人だと思う。しかし、それだけでは務まらないのが首相の重責だろう。国民に自身の明確な意思を伝える必要に常に迫られている」、という観点が示されている。

・・・福田首相にしてみれば、自分のキャラをネガティブに言われて過剰反応したのかも知れないが、それにしてもいい大人が「自分のことを客観的に見れる」なんて、ムキになって言うことかよ。誰だって多かれ少なかれ、自分のことを客観的に見てるだろうに。新潮の記事によれば、首相は「昔から人一倍プライドが高く、新聞記者など見下している」とのことで、「あなたとは違う」もその現れなんだろう。そもそも福田が一年前に総理になったのは、麻生に「人徳」がなかったから。要するにたまたま。もともと官房長官が適任の人かと。最近では、幹事長がお似合いの森が、小渕が倒れてたまたま首相になったっけ。まあこの10年で首相らしかったのは橋本と小泉かな。何にせよ、総理の器でない人を御都合主義的に総理にしてしまうのは、もういい加減止めてくれよ、ホントに。

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2008年9月 1日 (月)

流動性と自己循環論法

今週の「週刊エコノミスト」(9/9号)の特集は「危機の経済学」。岩井克人・東京大学経済学部教授の評論からメモ。

貨幣というのは、効率性と同時に、必然的に経済に不安定性を生み出す。なぜならば、人が貨幣を手に入れる時、誰かほかの人が受け取ってくれることを予想して手に入れるのである。すなわち、貨幣を持つことは、純粋な「投機」活動なのである。投機はもちろん不安定性をもたらす。貨幣は経済に効率性をもたらすが、その裏側で不安定性の可能性を生み出し、この2つを切り離すことはできない。

こうした意味で、サブプライム問題には貨幣の問題のエッセンスが入っている。1つはサブプライム自身が持っている不安定性だ。貨幣でも他の金融商品でも、流動性とは本質的に自己循環論法によって支えられている。多くの人が流動性があると思っている限り、いつでもどこでも簡単に手放せる流動性を持つのである。それは同時に、もし多くの人が流動性がないと思い始めたら、その流動性が消えてしまうことも意味する。そして、サブプライムローンが安全ではないことが分かり始めたとたん、関連する金融商品の流動性は一気に低下して信用収縮が生じ、世界の金融市場がパニックに陥ってしまった。

しかも、それが米国の金融市場を中心に起きたことで、さらに次の流動性の問題に発展した。ドルに対する信認が揺らぎ始めたことだ。これが2つ目の問題だ。基軸通貨としてのドルを支えているのは、もちろん貨幣をめぐる自己循環論法であり、世界の人々が基軸通貨であると思っているから、基軸通貨の地位を保っているだけにすぎない。人々のドルに対する信認が失われると、ドルの基軸通貨としての地位は低下する。

貨幣の本質的な不安定性、自己循環論法・・・。岩井節、全開!

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