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2008年8月 4日 (月)

コミュニティの意義

「生きづらさ」について』(光文社新書)の中で、萱野稔人がニューアカ的思想の影響を受けた世代を批判している箇所がある。いわく、この世代はベタなものが嫌いで何でもネタにして戯れる。共同体的なものを否定して、脱アイデンティティでいくという発想がとても強い、と。

思い当たるフシもある。その当時、共同体を拒否して社会の中で交通せよ、みたいな言い方を自分もカッコイイと感じていた。しかしポストモダンの流行から20年以上が過ぎ去り、なかなか現実はそういうもんじゃない、共同体は簡単には否定できないし、ベタに認識してベタに取り組むべき問題もある、ということも感じている。ていうか単に自分が年を取ったということなんだろうけど。

確かに、他者となんじゃかんじゃコミュニケーションして自分のことを認めさせる社会はそれなりにシンドくて、単にそこに所属しているだけで自分のことを認めてもらえる共同体の方がラクな訳だし、だからこそ、高いコミュニケーション能力を求められる今の社会の中で、自分の居場所になる共同体を見つけたり作ったりする意義は大きいということはよく分かる。

おそらく、単にコミュニケーション能力が求められるだけなら、そのことが「生きづらさ」に直結するというものでもない。それは「競争的な」コミュニケーションであるから、人を疲れさせるのであり、つまるところは常に企業にコスト意識を強いるグローバリゼーションの反映なのだよ、という話になるのだろう。激しい競争の中にある企業にも、膨大な借金を抱える国にも、余裕はない。日本は豊かだけど余裕のない社会になっている。その中で人々も「普通の生活」を維持するのに多かれ少かれ疲れている。だからこそ余計にラクになれる共同体やコミュニティが必要なのかな、とも思う。

この本の中で萱野が「だめ連」の名前を出していた。あったよなあ、「だめ連」。テレビに出たりして「脚光」を浴びていたのは、もう10年位前か。彼らも毎日働くという「普通の生活」を放棄して、いろんな人と「交流」して生きる、みたいなことをやっていたっけ。

少し話は変わるが、「隣人祭り」という活動がある。パリで始まったもので、要するに、たまにはご近所さんで集まって飲んだり食べたり話をしましょうよ、という活動。たまたまNHK「クローズアップ現代」で見たのだが、本も出ていた(『隣人祭り』ソトコト新書)。あの個人主義的なイメージの強いパリの人たちが始めたコミュニティ作りの運動は、国境を越えた広がりを見せているとのこと。

ベタに言えば「友愛」の情を持って、人と人が繋がるという事は可能なのだと思いたい。

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