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2008年7月 5日 (土)

翻訳の力

7月3日付日経新聞1面コラム「春秋」で紹介されていた、国際交流基金の雑誌『をちこち』(6,7月号、隔月刊)掲載の鼎談「日本語は翻訳によっていかに鍛えられたか」(鹿島茂、亀山郁夫、鴻巣友季子)を読んでみた。とりあえず鹿島先生の発言からメモ。

一般的に言って、考え方も何から何まで違う外国の言語に衝突することは、絶対的にいいことだと思います。今は「英語が話せればいいんだ」と、若い人が外国語に衝突しなくなっている。それは、日本語を鍛える上でもよくないことじゃないでしょうか。考え方も体系も違う外国語をいったん入れないと、日本語をつくる上でも、豊穣にならないと思います。

要するに、翻訳は他者を自分の中に育てることですね。他者がないと自己肥大になってしまう。

それは外国語に限らず、本を読むということ自体がそうだと思います。T・S・エリオットが『読書論』で言っています。本を読んで、その中に没入することは、作者に自我を占領されてしまうことである。違う読書体験をすると、また占領される。この繰り返しによって、いろんな他者を育てていく。それが読書だということですね。
今の人は読書をしない。外国語を学ばない。これでは占領されることがない。他人の思考法と格闘して苦しむことがないのですね。そうした経験がないから、ますます自己中心的になってしまう。

・・・本当に、自己を構築し展開していくためには、他者と衝突し他者を自己の内に取り込みつつ自己も変容していくという過程が欠かせないと考える。翻訳にしても読書にしてもまさしくそういう行為なのだ。それが外国語であれ、自国語であれ、人は「他者の言葉」と衝突しながら生きていく。たとえ同じ言葉を話す人間同士でも、人は他者の言葉を常に自分に理解可能なものへと「翻訳」しているはずである。翻訳とは解釈であるとはしばしば言われることだ。人間は世界の内で他者と関わりながら、常に理解困難な言葉を理解可能な言葉に転化する翻訳=解釈を行っているのだ。言語の動物である人間にとって翻訳=解釈は本源的行為であると考えられるだろう。

周囲を見渡してみれば、今どき外来語はカタカナにしてそのまま流通させてしまう事が多いようだ。振り返れば明治の文明開化の時代、先人たちは外来語を一旦は漢語の伝統の中に消化しようと試みた。彼らにとって翻訳とは、単に外国の考え方を輸入するだけでなく、自国の歴史を背負いつつ新たな文化を創造する行為でもあっただろう。その業績に改めて敬意を払いつつ、その労苦と意欲と気概に学ぶことができればとも思う。

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