« 備中高梁へ行く | トップページ | 第3期パープル「Live in London」 »

2008年7月26日 (土)

戦艦山城の最期

夏だ。夏は戦争を語る季節だ。(無理矢理)

近所の本屋で『悲劇の軍艦』(吉田俊雄・著、光人社NF文庫)という本が目に付いた。新刊ではなく「新装版」、更に元の単行本発行は昭和41年と相当古い。まあ、いわゆる「戦記もの」の最盛期はその辺りか。戦艦や空母など軍艦8隻の戦いが取り上げられているが、その中に戦艦「山城」の名前を見つけて、何となく読むことに。

自分の場合、「戦争」の入口は映画やプラモデル。連合艦隊といえば、もちろん700分の1スケールモデルのウォーターラインシリーズ。模型等の資料から軍艦の生涯を知るのだが、山城(と姉妹艦「扶桑」)の最期は、余りにも悲惨なものとして記憶に残った。

旧式戦艦の山城と扶桑は、日米開戦後も概ね内地に留め置かれていたが、戦局の悪化に伴い昭和19年10月、フィリピンにおける乾坤一擲の反撃作戦に駆り出される。しかしスリガオ海峡の夜戦で魚雷攻撃を受け、さらに敵戦艦6隻の集中砲火を浴びて、殆ど為す術も無く海底に消える。両艦とも生存者はほぼ皆無という無惨な最期だった。

山城と扶桑を中心とする西村艦隊は、主力である栗田艦隊のレイテ湾突入を支援する、いわば「捨て石」の覚悟を持って前進を続け、ほぼ全滅した。しかもその犠牲は、栗田艦隊のレイテ湾突入中止により、報われることは無かった。いわゆる「謎の反転」である。思えば、この最終目標達成の意志の不徹底、目標の優先順位の不明確は、戦争の初期から日本海軍がその行動パターンの中に「病理」として抱えていた。真珠湾では戦艦を破壊したものの空母を打ち漏らし、ミッドウェーでは敵基地と敵空母の「二兎」を追った挙句に大敗。連合艦隊が最後の力を振り絞ったレイテ沖海戦でも、栗田艦隊の反転で所期の目的は達成されることなく、戦艦「武蔵」や空母「瑞鶴」を失うなど壊滅的な打撃を受けた。日本海軍の戦いの跡を辿る事には、何とも気が滅入るものがある。

世界最強の戦艦「大和」、その最期は悲劇として語られることも多いが、本質的には山城の運命と大きく違わないような気がする。大鑑巨砲主義から航空兵力へと時代の主役が移り変わる中で、過去の遺物となってしまった大和は、最後は沖縄の米軍に向けた「特攻」という無謀な作戦で沈んでしまった。『悲劇の軍艦』の「あとがき」には、その大和の最後の出撃の際、ある下士官が語ったという言葉が記されている。

「日本は、俺たちの国だ。俺たちの手でどうあっても守らにゃならん。それが俺たちの責任だ。生きる、死ぬとクヨクヨするな。戦場で戦うのも、いま、この世に生をうけているものの務めじゃないか」

人は自分の生きる時代を選べない。そんな当たり前のことが、ひどく不条理で残酷なことに思えてくる。

|

« 備中高梁へ行く | トップページ | 第3期パープル「Live in London」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/174032/22569132

この記事へのトラックバック一覧です: 戦艦山城の最期:

« 備中高梁へ行く | トップページ | 第3期パープル「Live in London」 »