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2008年7月27日 (日)

第3期パープル「Live in London」

夏だ。夏はハードロックを聴く季節だ。(無理矢理)

といって今さらディープ・パープルかよと、さすがに自分でもどうかと感じるのだが、たまたま「ディープ・パープル・ライヴ・イン・ロンドン」のリマスタリング盤(2枚組)が「完全版」との触れ込みで登場したので、いちおう買ってみた。

内容はディープ・パープル第3期、あのカリフォルニア・ジャムから一ヵ月後の1974年5月ロンドンにおけるライヴで、オープニングのMC、ジョン・ロードのメンバー紹介MC、スペース・トラッキンがノーカットで収録されている。

自分がこの音源を初めて耳にしたのは、NHK・FMの番組、渋谷陽一の「ヤング・ジョッキー」で、エアチェック(死語)した覚えあり。放送されたのは、このCDでいえば1枚目の紫の炎から始まる5曲(ただしスモーク・オン・ザ・ウォーターは最後のグレン・ヒューズのボーカルの途中でフェードアウト)。その後LPやCDを買ったけど、このライヴのスペース・トラッキンは自分は初めて聴いた。さすがに30分は長いぞ。グレンのボーカルが入りすぎだな。しかしイアン・ペイスのタフなことに感心。ユー・フール・ノー・ワンも20分もあるし、延々と演奏を繰り広げる、この辺はいかにも70年代的。

レイジーのイントロを奏でてから、スモーク・オン・ザ・ウォーターに入るとか、ユー・フール・ノー・ワンの途中で例の間奏的なブルースを弾くとか、そんなリッチー・ブラックモアのライヴにおけるパターンは、レインボーの初期にも踏襲されて、ライヴでは銀嶺の覇者に入る前にレイジーが、曲の途中でブルースも演奏されていた。また、スペース・トラッキンのインプロビゼーションの一部は、第4期のゲッティン・タイターのライヴ・バージョンにも引き継がれている。スリリングな構成や展開で楽曲に新たな命を吹き込む演奏の巧みさは、ライヴ・バンドとして他を引き離すディープ・パープルの力量を示している。

ジョン・ロードはMCで「私はリック・エマーソン」と自己紹介?している。CD解説によると、リック・ウェイクマンとキース・エマーソンを合わせた冗談だったということだが、一番最初に聞いた時に「あれ、この人ジョン・ロードじゃなかったの?」といささか混乱した覚えがあるので、今回やっと疑問が氷解したという感じだった。(・・・30年以上も経ってから分かってどうすんねん)

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2008年7月26日 (土)

戦艦山城の最期

夏だ。夏は戦争を語る季節だ。(無理矢理)

近所の本屋で『悲劇の軍艦』(吉田俊雄・著、光人社NF文庫)という本が目に付いた。新刊ではなく「新装版」、更に元の単行本発行は昭和41年と相当古い。まあ、いわゆる「戦記もの」の最盛期はその辺りか。戦艦や空母など軍艦8隻の戦いが取り上げられているが、その中に戦艦「山城」の名前を見つけて、何となく読むことに。

自分の場合、「戦争」の入口は映画やプラモデル。連合艦隊といえば、もちろん700分の1スケールモデルのウォーターラインシリーズ。模型等の資料から軍艦の生涯を知るのだが、山城(と姉妹艦「扶桑」)の最期は、余りにも悲惨なものとして記憶に残った。

旧式戦艦の山城と扶桑は、日米開戦後も概ね内地に留め置かれていたが、戦局の悪化に伴い昭和19年10月、フィリピンにおける乾坤一擲の反撃作戦に駆り出される。しかしスリガオ海峡の夜戦で魚雷攻撃を受け、さらに敵戦艦6隻の集中砲火を浴びて、殆ど為す術も無く海底に消える。両艦とも生存者はほぼ皆無という無惨な最期だった。

山城と扶桑を中心とする西村艦隊は、主力である栗田艦隊のレイテ湾突入を支援する、いわば「捨て石」の覚悟を持って前進を続け、ほぼ全滅した。しかもその犠牲は、栗田艦隊のレイテ湾突入中止により、報われることは無かった。いわゆる「謎の反転」である。思えば、この最終目標達成の意志の不徹底、目標の優先順位の不明確は、戦争の初期から日本海軍がその行動パターンの中に「病理」として抱えていた。真珠湾では戦艦を破壊したものの空母を打ち漏らし、ミッドウェーでは敵基地と敵空母の「二兎」を追った挙句に大敗。連合艦隊が最後の力を振り絞ったレイテ沖海戦でも、栗田艦隊の反転で所期の目的は達成されることなく、戦艦「武蔵」や空母「瑞鶴」を失うなど壊滅的な打撃を受けた。日本海軍の戦いの跡を辿る事には、何とも気が滅入るものがある。

世界最強の戦艦「大和」、その最期は悲劇として語られることも多いが、本質的には山城の運命と大きく違わないような気がする。大鑑巨砲主義から航空兵力へと時代の主役が移り変わる中で、過去の遺物となってしまった大和は、最後は沖縄の米軍に向けた「特攻」という無謀な作戦で沈んでしまった。『悲劇の軍艦』の「あとがき」には、その大和の最後の出撃の際、ある下士官が語ったという言葉が記されている。

「日本は、俺たちの国だ。俺たちの手でどうあっても守らにゃならん。それが俺たちの責任だ。生きる、死ぬとクヨクヨするな。戦場で戦うのも、いま、この世に生をうけているものの務めじゃないか」

人は自分の生きる時代を選べない。そんな当たり前のことが、ひどく不条理で残酷なことに思えてくる。

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2008年7月21日 (月)

備中高梁へ行く

昨日20日、備中高梁へ出かけた。とりあえず目指すは備中松山城。現存する天守を持つ山城としては最も高い所(標高約430m)にある。

P1020427 前日19日の夕方岡山に入り、翌朝8時18分の列車で出発。倉敷を経由して伯備線の備中高梁駅に9時11分到着。駅近くの観光案内所で、お城までの乗合タクシー(片道420円)を申し込む。9時50分に出発、約15分で山頂に近い「ふいご峠」に着く(山の麓の駐車場からシャトルバスも運行)。そこから山道を歩いて20分程でお城に到着。

P1020408 天守の完成は300年以上前と伝えられているが、昭和14年に「解体修理」を行っているということで、地元の人々の熱意と努力なしには現存することは無かったと思われる。大手門跡付近の積み重ねられた様な高石垣は圧倒的。ピラミッドの建設方法は不思議であると言われるけど、山城の石垣もどうやって作り上げたんだか、充分謎だあ。

P1020445 城を見た後は市街に戻って、武家屋敷や頼久寺などを見て回る。写真は頼久寺の庭園で小堀遠州の作。近江に生まれた遠州は、千利休、古田織部と続いた茶の湯の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となる。1604年から1617年まで備中国奉行を務めた。

・・・何しろ暑かったので少々へたりました。

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2008年7月18日 (金)

MRI検査

手術から3ヶ月が過ぎ、今日は退院後初めてMRI検査を受けた。

身体内部の画像を撮るため、狭いトンネルの様な装置の中に身体ごと入れられて、ビーとかブーとかドドドドとかの騒音に晒されながら、計40分程じっとしたまま過ごす。初めて経験した時はウンザリした。これで3、4回目になるけど、やっぱり嬉しくない検査。

1時間後に画像を確認しながら診察を受ける。

自分が手術した病気は脊髄腫瘍。字面が物々しいし、響きも何だかデンジャラス。診断されるまで全く知らない病気だった。年間10万人に1~2人程度の発症率で、脳腫瘍よりもはるかに少ないのだという。いやはや。脊髄腫瘍と呼ばれる病気は、さらに硬膜外腫瘍、硬膜内髄外腫瘍、髄内腫瘍に分けられて、自分の病気は硬膜内髄外腫瘍の神経鞘腫というもので、とりあえず良性の腫瘍・・・なんだけど、具体的には未だに何がどうなっていたのかよく分からない。ていうかあんまり知りたいとも思わないけど。(特に手術の具体的な様子なんて、ちょっと想像するだけでも超スプラッターだし・・・)

左足先に充分力が入らないのが自分の症状で、手術で腫瘍を取り除いた後も、それまで圧迫されていた神経が回復するのに時間がかかる見込み。次回の診察は3ヵ月後。

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2008年7月17日 (木)

アイルランド躍進の理由

本日付日経新聞1面の連載記事「都市と地方」で、地方が採用可能な成長政策の実例として引合いに出されていたのが「アイルランドの奇跡」。かつての貧国アイルランドは、いまや一人当たりGDP世界第4位の豊かな国。日本の3分の1という法人税で外資企業を呼び込み急成長を遂げた。日本でも地方分権を進めれば、地方が特色ある政策を打ち出して、都市に負けない豊かさを実現できる可能性がある――と日経記事は指摘する。で、なぜか今週の「R25」誌にもアイルランドの記事があるのでメモ。

「アイルランドは現在、アメリカ企業のEU向けの輸出・製造の拠点が置かれ、両者の架け橋となっています。なぜ外資企業が集まるかというと、国民のほぼ全員が英語をしゃべれること、教育水準が高いこと、そして法人税をEU諸国内で最も安くするといった外資優遇政策をとっているからです。アイルランドは貧国だったため、国内産業が育たず、外資を受け入れることが成長の近道でした。内資企業との利害調整などの障壁もないため、このような政策がとれたのです」(中央大学・田中素香教授)

アイルランドの人口は福岡県くらい。小国ゆえ、小回りが利き、大胆な政策もとれ、まとまりやすいそう。勤勉で優秀な人材が多く、賃金が安いことも成長の一因だ。

「役人も優秀です。EUからの援助金をインフラ整備や外資誘致のために効率的に使っている。大学を含めて教育費も無料です。今は住宅市場に陰りが出始め、やや苦しいですが、政府・労組・資本家の協調体制で切り抜けられるでしょう」(同)

現在はDELLやIBMなどIT産業を中心に1000以上の企業が進出。世界に散らばったアイルランド移民も、豊かになった母国に戻りつつあるという。

・・・人口減少や産業衰退に悩む地方には、アイルランド的政策も選択肢の一つとは思う。しかし、英語力が必要になりそうなのは自分的にはメンドくさい感じ。(苦笑)

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2008年7月16日 (水)

応仁の乱!

今夜のNHK「その時歴史が動いた」のテーマは応仁の乱。まあテレビ番組ですから、どうして起こり、どのように終わったのか、というストーリーを見せてお終い、という具合だったけど・・・。『日本に古代はあったのか』(井上章一・著)は、一章を設けて応仁の乱の意義について述べているので、そこからあらためてメモ。

応仁の乱で、室町幕府はおとろえた。その後は、各地を地域の大名たちがおさえるようになる。大名どうしがあらそう、いわゆる戦国時代がはじまった。
しかし、それ以前の地域支配は、ちがう。大名がのちに支配した諸地域の多くは、もともとさまざまな権門勢家の管理をうけていた。皇室や貴族、あるいは大寺院などがおさめる荘園として、それらは登録されている。そして、それぞれの荘園が貢物を彼ら権門へさしだすしくみに、なっていた。
武家の成長も、それほど大きな歴史の変化としては、うけとれない。荘園制のうわまえをはねる、その
ピンハネ組に、武家もくわわっただけだと思う。
ただ、彼らがピンハネ組に参入したせいで、荘園制のしくみはゆらぎだす。
彼らは荘園からのとりぶんをめぐって、しばしば公家たちと対立する。もちろん、武家どうしでも。にらみあう新旧のピンハネ組を尻目に、地域では地域にねざした勢力が、のびてくる。地域をじかにしたがえる勢力である。こうした新勢力は、それぞれの地域を、彼らだけの地域、権門の力がおよばない地域にしたてていった。
各地の勢力が、中央の権門へ気をつかう体制は、全国的な規模でくずされた。応仁の乱は、その最終段階をむかえたところで勃発した内乱にほかならない。その後は、地域をじかに支配する、地域そだちの力が、のしあがる。
戦国大名を、郷里の英雄として語りつぐところは、すくなくない。彼らは、地域にねざした政治をはじめてなりたたせた。周知のように、そんな武将たちは、たがいにあらそった。そして、これに勝ちぬいた者が、全国的な統一政権を樹立した。
応仁の乱にいたるまで、中世的な分裂はおさまらない。そして、乱の後には、統一的な管理、今の国民国家へむかううごきが、作動した。その意味で、私は応仁の乱こそが、日本史を二分する一大分岐点だと、考える。分裂から統合へ、あるいは、中世から近世、いや近代への転換点だと、言ってもよい。

で、応仁の乱というと、歴史家の内藤湖南の言葉が有名とのことで、本書から孫引きしておきませう。

「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真に身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります」。(1921年の講演)

・・・応仁の乱で、それまでの古い仕組みが完全に壊れ、戦国時代が100年以上続いた後の天下統一において、今に至るまで続くこの国のかたちが作られた。信長、秀吉、家康の出現は奇跡のようなことにも思える。

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2008年7月15日 (火)

将棋棋士今昔

新聞のテレビ欄を見た時に、「内藤国雄“おゆき”」との文字が目に止まり、「むむっ」という感じがした。まさか、あの歌う将棋棋士内藤國雄が出演するのかねえと思いつつ、夜7時からのNHK「歌謡コンサート」を見たら、ホントに内藤先生が出てきて30年前の持ち歌である「おゆき」を唄ったのものだから、「先生、どうしたんですか」と何だか妙な気分にさせられた・・・(もう将棋は引退して歌手に専念ですか)。当時、歌手デビューした棋士として話題になった内藤先生、「歌と将棋とどっちが好きですか」と聞かれて、「勝ち負けが無ければ将棋の方が好きですね」と答えていたので、先生、それじゃ名人になれないよ、でもそこが好き、とか妙なファン心理を抱いていたワタシだった。

そんな自分は将棋については基本的にオールドファンで、現在の将棋界にはあんまり関心が湧かないのだけれど、何となく同じ夜10時からのNHK「プロフェッショナル」も眺めてみた。番組は、羽生善治と森内俊之のライバル対決となった今年の将棋名人戦を特集。盤上盤外の二人の表情や行動を映し出していたほか、番組スタジオで個別にインタビューする場面もあったのだが、話を聞いていると、才能や技術だけではどこかで停滞する時期が出てきて、そこから新たなステージに進むためには、やはり「人間的な成長」が必要になるのだなと、まあかなりベタな感想を持ちましたね。

羽生が若いときの驚異的な勢いを失ってきた時に、お手本にしたのが、還暦を過ぎても現役で指し続けて自分の将棋を極めようとする先輩棋士たち。という感じのナレーションが被せられる映像は、(名前は示されないけれど)中原誠、内藤國雄、加藤一二三という面々。中原や加藤、あと米長邦男も、名人戦の立会いや控え室に姿を見せていたけど、あー、やっぱり皆さん年取ったなあ。自分の若い頃の「アイドル」が老けると、自分も年を取るのはしょうがないかなと思える。(よく分からん感想)

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2008年7月14日 (月)

『日本に古代はあったのか』

日本に古代はあったのか』(井上章一・著、角川選書)で語られる日本の歴史学に対する批判には、大きな柱が2つある。一つは時代区分、特に古代と中世の区分の妥当性であり、もう一つは著者が呼ぶところの「関東史観」批判である。

マルクス主義史学では、奴隷制(古代)と農奴制(中世)で時代を区分するのだが、実のところ概念に曖昧な部分があるため、定義の仕方によって時代区分が相当動いてしまう。そもそもなぜ鎌倉時代から中世なのか。あるいは江戸時代から近世なのか。なぜ関東から新しい時代が始まるのか。ここには明治維新のイデオロギーがあると著者はみる。東京=関東から新時代が始まるという観念が歴史にも投影されて、関東の武家政治の新しさが強調される一方、畿内の公家社会は古臭いものとして貶められる。これを著者は「関東史観」と呼び、司馬遼太郎や梅棹忠夫のような関西出身の歴史家さえ、関東史観に毒されていると見る。

さらにこの鎌倉時代から中世とする関東史観のために、日本の古代という時代区分は世界史的に見て整合性のとれないものになっている。ユーラシアの東と西に現れた漢とローマという2つの帝国が衰えた5世紀頃までに古代は終わるとすれば、日本史ではさらに700年も古代が続いてしまうのだ。著者は漢の時代が終わる3世紀に合わせて、日本史でも邪馬台国から中世を始めてもいいのではないか、さらには古代は無くてもいい、原始時代からいきなり中世でもいいのではないか、とまで提言している。

自分は東京出身だが、戦国時代好きなので、当然のように日本史の中心は西にあると感じる。そもそも関東は基本的にローカルなのだと思う。源頼朝も徳川家康も生まれは今の愛知(頼朝が熱田、家康が岡崎)なので、たまたま関東で新しく政権を作ったというだけの話だろう。その新時代の始まりだが、今はとりあえず近世は織豊政権から、中世は院政の時代から、という見方が多くなっているらしいので、少し時間的に早まったというか空間的に西に移ったというか、何にせよ関東史観の力は弱まりつつあるようだ。それはそれでリーズナブルな変化で結構な事だなと思う。

正直、個人的には時代区分って、あんまりこだわりがない。著者が提案するように、ユーラシアの歴史と整合性をとる方が良いと思えるなら、そうすればいいじゃん、グローバルで考える御時世だし、という感じ。

戦国時代好きには、この本でより肝心なのは応仁の乱を取り上げた章。ここで著者は歴史家・内藤湖南の考えを追認する形で、応仁の乱を日本史の分岐点とする。乱の前は中世で、乱の後は近代に向かうと。内藤湖南は「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには」、「応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさん」だとする。なぜならば、「応仁の乱以後はわれわれの真に身体骨肉に直接触れた歴史」であるからだ(1921年の講演)。すなわち、やはり戦国時代に、今に至るまでのこの国のかたちが作られたんだよ、という話である。戦国ファンは一層研鑽に励んで、この国のことを考え続けたらええねん。

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2008年7月13日 (日)

『日本近世の起源』

信長・秀吉・家康の天下統一の時期は、今に至るまでのこの国のかたちが作られた画期的な時代だった。そのことは名古屋経験で実感した。例えば尾張や三河といった旧国名は今でも日常生活の中で使われているし、日本の主要都市は殆どが城下町である。(なんてことは東京にずっと居たらおそらく意識しなかっただろうなと思う)

この素朴な実感は、最近の歴史学の学説でも支援してもらえるようだ。『日本近世の起源』(渡辺京二・著、洋泉社MC新書)はその序章の中で、日本の時代区分において最も重要なのは戦国後期、要するに全国統一政権の成立であり、徳川期と近代は連続している、との考え方(尾藤正英)を紹介している。ただし、著者の立場は、尾藤説の意義を認めつつも、徳川期の独自性を強調するものであり、徳川期文明の正当な評価のためには、その形成期の意味づけを根本的に再考することが必要だとしてまとめたのがこの本だ。以下に徳川期、幕藩制の成立について(乱暴に)要約してみる。

幕藩制は、大名が対立する農民を強権的に押さえつけて作り上げたというものではない。むしろ大名と農民の間には、お互いの理解を可能にする共通の社会的基盤が成立していた。荘園制が形骸化していく戦国期に、新たな社会的基礎集団として実質を整え始めたのが、主権的団体として自立した村、いわゆる惣村である。山林や用水を巡る村同士の争いはしばしば実力行使に発展したため、惣村は武装しているのが常だった。やがて惣村の中で有力農民が侍衆となっていくのだが、この「百姓」から「侍」へ成り上がる運動こそが、日本近世を出現させた原動力だった(何しろ天下人である豊臣秀吉その人が百姓出身なのだ)。

惣村内で侍衆という階層に結集した有力農民が、戦国大名の家臣団に組み込まれ、さらには織豊家臣団・幕藩制家臣団の中核を成していく、それが戦国後期という時代だった。そして最終的には秀吉が専制支配を打ち立てることにより、国内の大名から百姓まであらゆる争いが停止されて、それが「徳川の平和」へとつながっていく。

幕藩制の支配者は、もともとが農村から生まれた武家であり、惣村自治の中で生まれた秩序や仕組みが幕藩体制の中に組み込まれていったのである。つまり、幕藩制は、惣村を土台として生まれてきた百姓と、同じく惣村から出現した新たな領主階級との共同で作り上げられた社会体制なのだ。

・・・この本では随所に、反権力的な左翼史観や網野史観への批判が織り込まれるのだが、その辺はワタシのような素人、ただの戦国好きには評価不能なのでスルー。でも、子供の頃読んだ白土三平の劇画では百姓がやたらに一揆を起こしていたという、そういう「刷り込み」は自分にもあるんですけどね。

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2008年7月 7日 (月)

高齢化するアジア

世界経済にとって重大な問題は「オイル」よりも「老いる」ことだ・・・すべったか。

今週の「週刊エコノミスト」(7/15号)の特集は「老いる世界」。人口減少や少子高齢化は日本や先進国だけの問題ではない。新興国も急速に高齢化への道を歩み、世界は確実に老いる。「高齢化がもたらす『アジアの時代』の終焉」(小峰隆夫)からメモ。

今後50年間のアジアの人口の変化は、一言で言えば「雁行形態型の人口変動」が起きるということである。アジアでは日本→NIES→ASEAN→中国という順番で産業構造の高付加価値が進展してきた。これが「雁行形態型の経済発展」で、これからはその人口バージョンが発生するのである。

先頭はここでも日本である。日本ではアジア諸国に先駆け、少子化の進展→65歳以上の高齢者の比率が人口の14%以上となる高齢社会への移行→労働力人口の減少→総人口の減少――という順序で人口が変化してきた。今後は後続のアジアの国々でも同じことが、ほとんど同じ順番で起きる。
日本に続く第2グループは韓国、シンガポール、タイ、中国など。これにやや遅れて、第3グループといえるタイ以外のASEAN諸国、インドが続く。

人口の変化は、2つのルートを通じて成長に影響する。1つは労働力人口の減少だ。もう1つは、貯蓄率の低下による資本蓄積の鈍化だ。
こうした要素を考慮して長期的な成長率を展望してみると、まず日本は、40年代にはほぼゼロ成長となる。これに続く第2グループの国々は、20年頃までは3~5%台の成長を続けるものの、韓国の成長率は30年以降1%を割り込み、中国も40年代には1%程度の成長まで鈍化する。第3グループの国々も、成長率が鈍化するが、第2グループよりは高水準を維持する。例えば、インドは40年代に入っても3%弱の成長率を維持する。

ということで、今後は日本が高齢化の中で経済社会の活力を維持することができれば、それが21世紀におけるアジアの新たな成長モデルとなる、と指摘している・・・んだけど、そんなに簡単に解決できる課題とも思えないな。

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2008年7月 6日 (日)

日本株を上げるには

「日経ヴェリタス」今週号は、4人の外国人運用担当者に取材した特集記事(世界株安 砦はどこに)を掲載。結論的には「世界経済の先行き懸念は強く、原油高が最大のリスク要因。そのなかで、アジア、資源、インフラ(社会基盤)整備をキーワードに投資先を厳しく選別する」とのこと。日本株について、もっともストレートに語っているレイモンド・チャン氏(RCMアジア・パシフィック最高投資責任者)の発言をメモ。

世界の市場のなかで、今年は日本株がアウトパフォームしている。株価水準も極めて低く、もっと高くなるべきだと思う。しかし、私たちの運用では日本株は中立だ。第1に小泉純一郎首相の退陣後、政府に強い指導力を持った人がいない。第2に日銀総裁の存在感が乏しい。第3に外国から有能な人材を集める移民政策がない。第4に企業が改革に消極的だし、政府も企業に改革を迫っていない。

日本は世界で2番目の経済大国なのに、1990年以来18年間もこれといった成長がないのは信じられない。どうして日本人はもっと変革を求めないのか。もし、日本国民がこのままではダメになると本当に気づいたときには、たぶんもう遅すぎる。少しでも早く気が付いて改革に取り組んだ方がいい。

・・・振り返れば1990年代、バブル崩壊後の経済が長期低迷する中で、日本経済や日本経営の見直しについて議論は活発に行われたが、現実の政策は財政出動による経済対策が繰り返されるばかりだった。21世紀に入ってから小泉政権において、ようやく改革らしい改革、すなわち従来のやり方を変える形の政策が実行され始めたのだが、小泉退陣後は改革継続機運も薄れつつあるのは否定しようも無い。「改革」を巡る現状がお寒い限りとあれば、日本株の先行きにも余り期待は持てないことになるが・・・。

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2008年7月 5日 (土)

翻訳の力

7月3日付日経新聞1面コラム「春秋」で紹介されていた、国際交流基金の雑誌『をちこち』(6,7月号、隔月刊)掲載の鼎談「日本語は翻訳によっていかに鍛えられたか」(鹿島茂、亀山郁夫、鴻巣友季子)を読んでみた。とりあえず鹿島先生の発言からメモ。

一般的に言って、考え方も何から何まで違う外国の言語に衝突することは、絶対的にいいことだと思います。今は「英語が話せればいいんだ」と、若い人が外国語に衝突しなくなっている。それは、日本語を鍛える上でもよくないことじゃないでしょうか。考え方も体系も違う外国語をいったん入れないと、日本語をつくる上でも、豊穣にならないと思います。

要するに、翻訳は他者を自分の中に育てることですね。他者がないと自己肥大になってしまう。

それは外国語に限らず、本を読むということ自体がそうだと思います。T・S・エリオットが『読書論』で言っています。本を読んで、その中に没入することは、作者に自我を占領されてしまうことである。違う読書体験をすると、また占領される。この繰り返しによって、いろんな他者を育てていく。それが読書だということですね。
今の人は読書をしない。外国語を学ばない。これでは占領されることがない。他人の思考法と格闘して苦しむことがないのですね。そうした経験がないから、ますます自己中心的になってしまう。

・・・本当に、自己を構築し展開していくためには、他者と衝突し他者を自己の内に取り込みつつ自己も変容していくという過程が欠かせないと考える。翻訳にしても読書にしてもまさしくそういう行為なのだ。それが外国語であれ、自国語であれ、人は「他者の言葉」と衝突しながら生きていく。たとえ同じ言葉を話す人間同士でも、人は他者の言葉を常に自分に理解可能なものへと「翻訳」しているはずである。翻訳とは解釈であるとはしばしば言われることだ。人間は世界の内で他者と関わりながら、常に理解困難な言葉を理解可能な言葉に転化する翻訳=解釈を行っているのだ。言語の動物である人間にとって翻訳=解釈は本源的行為であると考えられるだろう。

周囲を見渡してみれば、今どき外来語はカタカナにしてそのまま流通させてしまう事が多いようだ。振り返れば明治の文明開化の時代、先人たちは外来語を一旦は漢語の伝統の中に消化しようと試みた。彼らにとって翻訳とは、単に外国の考え方を輸入するだけでなく、自国の歴史を背負いつつ新たな文化を創造する行為でもあっただろう。その業績に改めて敬意を払いつつ、その労苦と意欲と気概に学ぶことができればとも思う。

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2008年7月 4日 (金)

『遺品整理屋は見た!!』

日本初の遺品整理業者である「キーパーズ」、その創業者である吉田太一社長の書いた本が『遺品整理屋は見た!!』(扶桑社)。2年前に第一弾が出ていたそうだが、今回の第二弾では、死体の巨匠?上野正彦氏との対談も収録されていたので購入。

とりあえず経験談の中心は孤独死や自殺。死後何日も経って発見される死体からは死臭が漂い、暑い時期は蛆がわき蝿が飛び、血や体液やらが部屋の中に広がる。その凄惨な現場に飛び込んで、清掃作業を行う吉田社長ほかキーパーズの社員たち。仕事を進める中で、故人の人柄や故人を巡る人間関係の一端を垣間見るような経験もする。

いやあ人間って死んだらホントに速やかに片付けなきゃいけないもんなんですね、とか思う。とにかく放置してたら腐っちゃうわけだから。独り者のワタシも今んところ現役なので、急死したら会社の人に発見されるのかな、とか思うが、引退後はどこにも所属してなければ、孤独死した場合発見が遅れることになるのだろう。できれば冬場に死んだ方が腐敗を抑えられるんだろうけど、人間、死ぬ時、所、死に方は選べないしなあ。

上野先生と吉田社長の対談は量が少なくて「おまけ」っぽい感じ。とりあえず死生観を聞かれて、上野先生は「死というものはナッシングだと思ってますよ。つまり、ナッシングというのは自分が生まれる前の状態になることですね。自分がいないだけで世の中はそのまま存在し続けていく。だからそういう意味で自分はいないんだからナッシングだというふうに思っているわけですよ」と答えつつ、しかし「あの世」という概念も持っているので、人間の死というものは矛盾なしには表現できない、と言う。
一方、吉田社長は「(仕事で)これだけ日常的に(死に)接するようになると、人間にとって死ぬということはほんとに当たり前のことなんだなあと思えるようになりましたね。長く生きることよりどう生きるかのほうが大事なことに思えるようになってきましたね。かっこよく言うといまを一生懸命生きるという感じでしょうかね」と答えている。

何はともあれ、普段から部屋の中は整理整頓してなきゃいけないような気持ちになりました・・・そういう問題か。まあ、将来はとりあえず入れるもんなら老人ホームに行くのが無難ですかね。

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