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2008年6月22日 (日)

『座右のニーチェ』

座右のニーチェ』(光文社新書)の著者は、齋藤孝・明治大学教授。自分的には齋藤(健康)とニーチェ(病者)という取り合わせに意外感があったので、読んでみることに。

この本で取り上げられるのは、齋藤先生が愛読しているという『ツァラトゥストラ』からの言葉だ。各節の見出しには「瞬間を生きよ」「肉体は本来のおのれ」「大地に忠実であれ」「運命を欲するか」等々、他の誰でもないニーチェ的な言葉が並ぶ。しかし、この本で言及されるのはニーチェだけではない。例えば夏目漱石、カミュ、坂口安吾、ドストエフスキー、ブッダ、孔子、ユトリロ、ゴッホ、イチロー選手、室伏選手、本田宗一郎、小倉昌男他、作家や芸術家はもちろん、運動選手、経営者など、多彩な分野の人名を散りばめながら文章が展開されていく。なので、この本はニーチェの言葉の解説書というよりは、齋藤孝の「ニーチェ活用法」とでも呼べるエッセイと思ったほうが良いみたいだな。

「ミッション、パッション、ハイテンション」が齋藤先生の口癖とか。この本もそんな「齋藤節」で溢れているが、やはり「第三章 肉体の声を聞け」が身体論、「第四章 過剰を贈れ」が教育論という格好で、齋藤孝らしいなという印象。とりあえず第四章から少しメモ。

『ツァラトゥストラ』は、ニーチェの教育の書ではないかと私は秘かに思っている。ニーチェは人類の教師になりたかったのかもしれない。そのくらい、学ぶということの根本的な祝祭性について語っているのだ。

私たちの周囲には、参考書も問題集も溢れている。テレビの情報もただ、インターネットの情報もただだ。
知識や知恵ということに関して、私たちはあまりにもそれが手軽に得られるようになってしまったために、感度を失っている。

私は、知識を他者への贈り物として捉えることは、すばらしいと思っている。過剰に溢れ出てくるものを分かち合うことは祝祭なのだ。そんな関係が本当に成立する場は盛り上がる。教育再生を掲げるなら、そういう祝祭的空間、雰囲気を目指すべきである。

・・・とにかく齋藤流ニーチェは、この上なくポジティブだ。それはそれで良いとして、一般的に主著的な扱いを受ける『ツァラトゥストラ』は、ニーチェの著作全体から見るとむしろ特異な位置にある作品だろう。彼のチャレンジは、ニヒリズムを極限まで押し進めて突き抜けることにより、「大いなる肯定」に至ることだった。彼は自らの思考そのものを観念的実験台としたのだ。「万人のための、誰のためでもない書物」である『ツァラトゥストラ』は、結局はニーチェが自己セラピーとして書いた本ではないか、そんな気がする。

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