« 『悩む力』を読む | トップページ | 『座右のニーチェ』 »

2008年6月21日 (土)

『鬱の力』を読む

うつ病と鬱を区別せよ、と五木寛之は言う。そうだよな、と同意しつつ五木と香山リカの対談『鬱の力』(幻冬舎新書)を読む。「はじめに」(時代は「鬱」に向かう)から引用。

香山:五木さんのおっしゃる「鬱の時代」というのは、すべての人が鬱の治療を必要とする時代、という意味ではないですよね。
五木:僕はむしろ、「鬱の時代には、鬱で生きる」という主張をしているんです。「鬱」という言葉を広辞苑で引くと、第一義には、「草木の茂るさま。物事の盛んなさま」と書いてある。そしてエネルギーと生命力に溢れているにもかかわらず、時代閉塞のなかでそのエネルギーと生命力が発揮できない。そのうちに中でなんとなくモヤモヤとしてくる、「気のふさぐこと」というのは、あくまでも第二義なんですね。エネルギーと生命力がありながら、出口を塞がれていることで中で発酵するものが鬱なんですよ。

ということで、「無気力な人は鬱にならない」と五木は主張する。なるほど。
自分も、「鬱」というと、「世紀末の憂鬱」とか、過剰なエネルギーが表現の形を見出せないままテンションを高めて、何かのきっかけがあれば創造的なものに転化する、そんな心の状態のイメージがある。多分に「文学的」な感覚だろうけど。

抑圧された生命力ともいえる「鬱」が、「うつ病」に取り込まれてしまう背景には、精神医学の「基準化」があった。第一部(鬱は「治す」ものなのか)から引用。

香山:1980年に発表された「DSM-Ⅲ」というアメリカ式の診断基準は、ある意味で斬新でした。このときから、鬱の背景を、一切問わないことになったんです。失業して鬱になった人も、脳に問題があって鬱になった人も、貧困などの社会的要因で鬱になった人も、その症状が二週間以上続いていればうつ病ということにするという、非常にシンプルな話になった。
五木:建前としては、うつ病に関してはこれまであまりにも曖昧だったから、一応、基準をつくろうということなんでしょう。でも、僕は気質的な問題と脳の働きの問題をきちんと分け、鬱とうつ病をきっちり区別する必要がある気がするんです。

うつ病の現状は、これもうつ、あれもうつ、たぶんうつ、きっとうつ・・・という感じ?(苦笑)
変な言い方をすれば、うつ病は一種の流行りなのかな、と思ったりする。犯罪や自殺も報道が類似行動を誘う面があるが、うつ病もメディアにやたらに取り上げられた結果、世の中に「うつ病かも知れない」症候群が広く蔓延しているような気がしないでもない。

鬱状態になったら病気と見て「治す」のではなく、とことん悩んでみる?(悩む力だよ)

(とはいえ昨年の自殺者3万人超、うち2割の6000人はうつ病が原因というニュースを聞くと、「むむむ」と気分的にたじろぐものはあるなあ)

|

« 『悩む力』を読む | トップページ | 『座右のニーチェ』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/174032/21724466

この記事へのトラックバック一覧です: 『鬱の力』を読む:

« 『悩む力』を読む | トップページ | 『座右のニーチェ』 »