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2008年6月 7日 (土)

「社会的実体」と「共同幻想」

日経新聞「やさしい経済学」、ただ今、岩井克人・東京大学教授が連載中(言語・法・貨幣と「人文科学」)。5月30日掲載の第1回に、言語・法・貨幣は「社会的実体」であると述べられている。社会的実体・・・うーん。どうしても吉本隆明または岸田秀用語の「共同幻想」の方が馴染みがあるので、ちと違和感。ということで2年前に出ていた『資本主義から市民主義へ』(岩井先生への三浦雅士によるインタビュー、新書館)を読むことに。本の中で、「共同幻想」という言葉について岩井先生が語っている箇所がある。

ただ、ぼくは幻想という言葉は使いたくないんです。幻想じゃないんです、これは。実体なんです。真理なんです。根拠がないということと、幻想であるというのは違うと思うんですよ。だから吉本さんの共同幻想という言葉も、あれは誤解を招きます。やっぱり国家は実体です。権利も実体です。社会的実体。ただその社会的実体は社会との相関関係のうちにしかないということです。そういう意味では、物理的な実体ほどの確実さはありませんけれども、しかしあくまでも実体です。

・・・確かに自分も、「幻想」という言葉に少し語弊があるとは感じるのだが、「共同幻想」でも「社会的実体」でも、それ程違った事態を指しているとは思わない。だって「社会的実体は社会との相関関係のうちにしかない」んだから。つまり相対的な「実体」であり、絶対的あるいは普遍的な根拠であると認められるような根拠がある訳じゃないよ、という話。なので、別に三浦の言う「(建設的)虚構」でも構わないし、とにかく約束事の膨大な集積が社会の秩序を形成している、それが人間的な「現実」なのだと思う。つまり人間は日常的に強く意識していなくても、実は相当観念的な世界に生きている。

人間社会の秩序を形成している約束事は約束事でしかないとも言えるのだが、それらがいったんルールとして社会に共有されると、人間の心理や意識に「物理的」に作用して、人間の行動を決定していく摩訶不思議な事態が起きる。このように共有されたルールに則って、例えば商品や為替のデリバティブで毎日儲かったとか損したとか騒いでいる訳だから、それらのルールにもともと大した根拠は無いのだと考えると、何だか空恐ろしいことをやっているのだなと思えてくる。

実際、人間の生活においては、他人に言葉が通じるだとか、他人がお金を受け取ってくれるだとか、実は不思議なことが毎日当たり前のように起き続けている。たぶん、これらの約束事が社会の中でなぜか機能していくという、その事態の根底に倫理の兆しを認めても良いのかなとは思う。もっとも、それこそポストモダンの人間観に従えば、それは倫理というよりも「ホモ・デメンス(狂ったサル)」の持つ秩序への欲求、社会的生存に必要な最低限の合理性とでも見るべきかも知れないが。

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