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2008年6月30日 (月)

「セクスィー部長」を支持する!

テレビは余り見ない。見る時はニュースと天気予報か。他の番組でこの頃毎回見ているのは、土曜日のイロモネアと、日曜日のサラリーマンNEOだ。

昨夜のサラリーマンNEOには、久々にあのセクスィー部長が登場。活躍の場は休暇で来ていたハワイという設定で、セクスィー部長の出で立ちも、首にはレイ、下半身はハーフパンツにサンダルと、いつにも増してセクスィー?・・・でも、やることは当然のようにいつもと同じ。とあるホテルに女社長と女性部下2人がやって来て、従業員に無理難題を持ちかけると、突如ドラゴンアッシュの曲をテーマに現れる色香恋次郎、通称セクスィー部長。その色香で女たちを惑わして、「ビジネスと色恋は一緒になさらぬよう」と言い残して風のように去っていく。いつも同じパターン、お約束の展開で、超くだらないんだけど、ここまで馬鹿馬鹿しいと何度でも見たくなる、癖になるコントである。

サラリーマンNEOのコントは正直、面白いものもあれば今ひとつ乗れないものもあるけど、今どき作り込んだ努力の跡が窺えるお笑い番組は希少価値があると感じる。子供の頃、ドリフやゲバゲバなど練り上げられたお笑いを見て育った自分には、今のお笑いやバラエティと称する、芸能人がたくさん出てきてしゃべって騒ぐだけの番組なんか見る気にならないのだ。

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2008年6月29日 (日)

メタル叙事詩「ノストラダムス」

ジューダス・プリーストの新譜「ノストラダムス」は、かの大予言者をテーマにした2枚組の大作。プログレならいざ知らず、はたしてヘヴィメタルのコンセプト・アルバムは成り立つのかと思われたが、実際に聴いてみれば相当の水準を保っている作品。しかし全体的に何となくイメージしていた通りというか、音だけ聴いていると時に何かのサントラみたいな感じもしてしまうのだが、まあ英語の歌詞が分かれば、コンセプト・アルバムのコンセプト・アルバムたるゆえんをもっと深く了解できるのだろうな、とも思う。

P1020391 自分がジューダスを聴いていたのはバンドのごく初期の頃。1978年の初来日コンサートも中野サンプラザに観に行った(・・・今年は初来日から30周年か。凄い長い時間が経ってるもんだな)。当時の公演パンフレット(写真)を眺めてみると、ブリティッシュ・ハードロックの伝統の後継者または救世主といった言葉が目につく。そう、時は70年代後半、イギリスではパンク・ニューウェイブの嵐が吹き荒れ、オールド・ウェイブ扱いされたハードロックには、目ぼしいバンドが出てこない状況に陥っていた。そんな中で、ジューダスは殆ど唯一の「希望の星」と見なされ、伊藤政則は「評論家生命を賭ける」と息巻いていたのだった。

そんな具合で当初はハードロックのバンドだったジューダスだが、いつの間にやらヘヴィメタルの先導者、「鋼鉄神」に変貌。ハードロックとヘヴィメタルはどう違うのか、とはしばしば問われるところだが、ブリティッシュ・ハードロックは、ブルーズやジャズやクラシックなど様々な音楽の要素を取り込んでいたのに対し、パンク以後に現れたヘヴィメタルはもっぱら攻撃性を前面に押し出して音楽を組み立てていたと思える。つまり、おんなじように見えても音楽性はハードロックの方が全然上だったよな~という印象を持っているのだワタシは。で、ジューダスについては当然のようにハードロックの頃は聞いていたが、ヘヴィメタルに転じた後はまともに聴いていない。今回アルバムの解説書にあるディスコグラフィーでは、3枚目(背信の門)が「ブリティッシュ・ハードの名盤」、4枚目(ステンド・クラス)が「ブリティッシュ・ハード・ロックからヘヴィメタルへ劇的転身」と紹介されている。そしてまさに「メタル・ゴッドの地位を確立」した5枚目(殺人機械)までは自分も買ったが、後は見送りとなったのであった。それが今回超久しぶりにアルバムを買ってみたのは、コンセプトアルバムということで、何となくハードロックのジューダス復活を期待していたところがあるのだが、その予感は裏切られなかったなという感じ。とにもかくにも、ジューダスのドラマティックな本質が強く現れた作品じゃないだろうか。

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2008年6月26日 (木)

「不確実性の分析」(経済教室)

本日付日経新聞「経済教室」(執筆者は奥村洋彦・学習院大学教授)は、「不確実性」の問題を取り上げている。以下にメモ。

今日見られる金融不安の高まりや金融危機は今回特有ではない。むしろ、市場経済が常時生み出す事象といってもよい。

金融の不安定性と不確実性とは不即不離の関係にあるが、これらを重視するモデルの原型は、1920年代―30年代の、F・ナイトとJ・M・ケインズに見られる。両者とも、①現在の経済行動は人々が将来をどう予想するかにかかっている②将来の「場」は現在や過去の「場」と異なるので、何が起きるかを客観確率で予想できず主観確率に頼らざるを得ない③人々の情報や計算能力は完全なものではありえない、などを理由に、経済システムには不確実性が内在していると考えた。
(客観確率:確率分布の情報あり、主観確率:確率分布の情報がないか不完全)

ナイトは、将来何が起きるか客観確率のある場合をリスクとし、ない場合を不確実性と峻別、一方ケインズは、金融が実物経済に影響を与えるメカニズムや金融危機が内生的に発生するメカニズムを明らかにした。

第二次大戦後、米国でH・ミンスキーが、ケインズモデルを拡張・深化させ、発達した金融市場とその下で不安定な動きをする実物経済を関連づけるモデルを構築した。これが「金融不安定性」モデルである。(市場経済自体に金融不安定性が内在している、つまり安定や均衡が達成されたとしてもそれは一時的で、人々の行動は次第に中から変化し再び不安定になる、ととらえるモデル)

(バブルや金融危機の発生を完全に防ぐことはできないにしても、政策運営や企業活動をより有効なものにするためには、)経済の現場、つまりは、生身の人間行動から出発し、不確実性下の人々の意思決定がどのようなメカニズムで行われるか、特に、人々が主観確率で将来をどう予想するかという期待形成プロセスの観察・分析とそれを取り入れた経済理論の構築が欠かせないということだ。

・・・金融の肥大化と共に経済の不確実性も拡大していく状況の中で、経済合理的に行動する人間を前提としていた従来の経済学も変貌を余儀なくされていくのかどうか。

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2008年6月22日 (日)

『座右のニーチェ』

座右のニーチェ』(光文社新書)の著者は、齋藤孝・明治大学教授。自分的には齋藤(健康)とニーチェ(病者)という取り合わせに意外感があったので、読んでみることに。

この本で取り上げられるのは、齋藤先生が愛読しているという『ツァラトゥストラ』からの言葉だ。各節の見出しには「瞬間を生きよ」「肉体は本来のおのれ」「大地に忠実であれ」「運命を欲するか」等々、他の誰でもないニーチェ的な言葉が並ぶ。しかし、この本で言及されるのはニーチェだけではない。例えば夏目漱石、カミュ、坂口安吾、ドストエフスキー、ブッダ、孔子、ユトリロ、ゴッホ、イチロー選手、室伏選手、本田宗一郎、小倉昌男他、作家や芸術家はもちろん、運動選手、経営者など、多彩な分野の人名を散りばめながら文章が展開されていく。なので、この本はニーチェの言葉の解説書というよりは、齋藤孝の「ニーチェ活用法」とでも呼べるエッセイと思ったほうが良いみたいだな。

「ミッション、パッション、ハイテンション」が齋藤先生の口癖とか。この本もそんな「齋藤節」で溢れているが、やはり「第三章 肉体の声を聞け」が身体論、「第四章 過剰を贈れ」が教育論という格好で、齋藤孝らしいなという印象。とりあえず第四章から少しメモ。

『ツァラトゥストラ』は、ニーチェの教育の書ではないかと私は秘かに思っている。ニーチェは人類の教師になりたかったのかもしれない。そのくらい、学ぶということの根本的な祝祭性について語っているのだ。

私たちの周囲には、参考書も問題集も溢れている。テレビの情報もただ、インターネットの情報もただだ。
知識や知恵ということに関して、私たちはあまりにもそれが手軽に得られるようになってしまったために、感度を失っている。

私は、知識を他者への贈り物として捉えることは、すばらしいと思っている。過剰に溢れ出てくるものを分かち合うことは祝祭なのだ。そんな関係が本当に成立する場は盛り上がる。教育再生を掲げるなら、そういう祝祭的空間、雰囲気を目指すべきである。

・・・とにかく齋藤流ニーチェは、この上なくポジティブだ。それはそれで良いとして、一般的に主著的な扱いを受ける『ツァラトゥストラ』は、ニーチェの著作全体から見るとむしろ特異な位置にある作品だろう。彼のチャレンジは、ニヒリズムを極限まで押し進めて突き抜けることにより、「大いなる肯定」に至ることだった。彼は自らの思考そのものを観念的実験台としたのだ。「万人のための、誰のためでもない書物」である『ツァラトゥストラ』は、結局はニーチェが自己セラピーとして書いた本ではないか、そんな気がする。

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2008年6月21日 (土)

『鬱の力』を読む

うつ病と鬱を区別せよ、と五木寛之は言う。そうだよな、と同意しつつ五木と香山リカの対談『鬱の力』(幻冬舎新書)を読む。「はじめに」(時代は「鬱」に向かう)から引用。

香山:五木さんのおっしゃる「鬱の時代」というのは、すべての人が鬱の治療を必要とする時代、という意味ではないですよね。
五木:僕はむしろ、「鬱の時代には、鬱で生きる」という主張をしているんです。「鬱」という言葉を広辞苑で引くと、第一義には、「草木の茂るさま。物事の盛んなさま」と書いてある。そしてエネルギーと生命力に溢れているにもかかわらず、時代閉塞のなかでそのエネルギーと生命力が発揮できない。そのうちに中でなんとなくモヤモヤとしてくる、「気のふさぐこと」というのは、あくまでも第二義なんですね。エネルギーと生命力がありながら、出口を塞がれていることで中で発酵するものが鬱なんですよ。

ということで、「無気力な人は鬱にならない」と五木は主張する。なるほど。
自分も、「鬱」というと、「世紀末の憂鬱」とか、過剰なエネルギーが表現の形を見出せないままテンションを高めて、何かのきっかけがあれば創造的なものに転化する、そんな心の状態のイメージがある。多分に「文学的」な感覚だろうけど。

抑圧された生命力ともいえる「鬱」が、「うつ病」に取り込まれてしまう背景には、精神医学の「基準化」があった。第一部(鬱は「治す」ものなのか)から引用。

香山:1980年に発表された「DSM-Ⅲ」というアメリカ式の診断基準は、ある意味で斬新でした。このときから、鬱の背景を、一切問わないことになったんです。失業して鬱になった人も、脳に問題があって鬱になった人も、貧困などの社会的要因で鬱になった人も、その症状が二週間以上続いていればうつ病ということにするという、非常にシンプルな話になった。
五木:建前としては、うつ病に関してはこれまであまりにも曖昧だったから、一応、基準をつくろうということなんでしょう。でも、僕は気質的な問題と脳の働きの問題をきちんと分け、鬱とうつ病をきっちり区別する必要がある気がするんです。

うつ病の現状は、これもうつ、あれもうつ、たぶんうつ、きっとうつ・・・という感じ?(苦笑)
変な言い方をすれば、うつ病は一種の流行りなのかな、と思ったりする。犯罪や自殺も報道が類似行動を誘う面があるが、うつ病もメディアにやたらに取り上げられた結果、世の中に「うつ病かも知れない」症候群が広く蔓延しているような気がしないでもない。

鬱状態になったら病気と見て「治す」のではなく、とことん悩んでみる?(悩む力だよ)

(とはいえ昨年の自殺者3万人超、うち2割の6000人はうつ病が原因というニュースを聞くと、「むむむ」と気分的にたじろぐものはあるなあ)

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2008年6月15日 (日)

『悩む力』を読む

熱心なファンがいるらしい政治学者、姜尚中(カンサンジュン)の新著『悩む力』(集英社新書)。「なぜ死んではいけないか」と題された第八章、その冒頭で著者は池田小学校の事件(2001年)のような「無差別殺人」を取り上げて、「何の恨みもない、自分とはまったく無関係な他者を殺す」とは、いったいどういうことなのかと問いかけながら、その「不条理」な死の意味を見出すことは絶対にできないがゆえに、被害者や遺族は救われないとしている。つまり、「人生に起こる出来事の意味を理解すること」が人の生きる「力」なのであり、「意味を確信できないと、人は絶望的に」なってしまうのである。
さらに、人の生きる力とは最終的には自我、心の問題に帰結すると著者はいう。

「人は一人では生きられない」とよく言います。それは経済的、物理的に支えあわなければならないという意味だけではなく、哲学的な意味でも、やはりそうなのです。自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要なのです。相互承認の中でしか、人は生きられません。相互承認によってしか、自我はありえないのです。

・・・つまり、私が私として生きていく意味の確信は、社会における相互承認の中から生まれるということ。働くことの意味もまた以下のように述べられる。(第六章)

社会というのは、基本的には見知らぬ者同士が集まっている集合体であり、だから、そこで生きるためには、他者から何らかの形で仲間として承認される必要があります。そのための手段が、働くということなのです。働くことによって初めて「そこにいていい」という承認が与えられる。

・・・さらに相互承認以上の関係性として、愛が定義される。(第七章)

愛とは、そのときどきの相互の問いかけに応えていこうとする意欲のことです。

・・・シンプルでなかなか良い定義と思われるが、とにかく著者が強調するのは、人とのつながり方を考えてほしいということ。悩むこと大いにけっこうで、私が私として生きていく意味を確信できるまで大いに悩んだらいいのです、と静かに言い切っている。

(人を殺す程のエネルギーがあるのなら、とことん自分について悩め!)

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2008年6月 7日 (土)

「社会的実体」と「共同幻想」

日経新聞「やさしい経済学」、ただ今、岩井克人・東京大学教授が連載中(言語・法・貨幣と「人文科学」)。5月30日掲載の第1回に、言語・法・貨幣は「社会的実体」であると述べられている。社会的実体・・・うーん。どうしても吉本隆明または岸田秀用語の「共同幻想」の方が馴染みがあるので、ちと違和感。ということで2年前に出ていた『資本主義から市民主義へ』(岩井先生への三浦雅士によるインタビュー、新書館)を読むことに。本の中で、「共同幻想」という言葉について岩井先生が語っている箇所がある。

ただ、ぼくは幻想という言葉は使いたくないんです。幻想じゃないんです、これは。実体なんです。真理なんです。根拠がないということと、幻想であるというのは違うと思うんですよ。だから吉本さんの共同幻想という言葉も、あれは誤解を招きます。やっぱり国家は実体です。権利も実体です。社会的実体。ただその社会的実体は社会との相関関係のうちにしかないということです。そういう意味では、物理的な実体ほどの確実さはありませんけれども、しかしあくまでも実体です。

・・・確かに自分も、「幻想」という言葉に少し語弊があるとは感じるのだが、「共同幻想」でも「社会的実体」でも、それ程違った事態を指しているとは思わない。だって「社会的実体は社会との相関関係のうちにしかない」んだから。つまり相対的な「実体」であり、絶対的あるいは普遍的な根拠であると認められるような根拠がある訳じゃないよ、という話。なので、別に三浦の言う「(建設的)虚構」でも構わないし、とにかく約束事の膨大な集積が社会の秩序を形成している、それが人間的な「現実」なのだと思う。つまり人間は日常的に強く意識していなくても、実は相当観念的な世界に生きている。

人間社会の秩序を形成している約束事は約束事でしかないとも言えるのだが、それらがいったんルールとして社会に共有されると、人間の心理や意識に「物理的」に作用して、人間の行動を決定していく摩訶不思議な事態が起きる。このように共有されたルールに則って、例えば商品や為替のデリバティブで毎日儲かったとか損したとか騒いでいる訳だから、それらのルールにもともと大した根拠は無いのだと考えると、何だか空恐ろしいことをやっているのだなと思えてくる。

実際、人間の生活においては、他人に言葉が通じるだとか、他人がお金を受け取ってくれるだとか、実は不思議なことが毎日当たり前のように起き続けている。たぶん、これらの約束事が社会の中でなぜか機能していくという、その事態の根底に倫理の兆しを認めても良いのかなとは思う。もっとも、それこそポストモダンの人間観に従えば、それは倫理というよりも「ホモ・デメンス(狂ったサル)」の持つ秩序への欲求、社会的生存に必要な最低限の合理性とでも見るべきかも知れないが。

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