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2008年5月26日 (月)

『クアトロ・ラガッツィ』(下巻)

1582(天正10)年2月、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティーノの4人の少年使節一行は長崎を出発。2年半後の1584年8月リスボン到着、11月フェリペ2世に謁見。1585年3月、ローマ到着、教皇グレゴリオ13世に謁見。少年使節はローマ市民の間に熱狂的な感動を巻き起こした。教皇庁にとっても、はるかな東方からの使節の来訪は、宗教改革という危機の最中にあったカトリック教会の勝利を意味したのである。

さて、少年使節らがローマに来て18日目、1585年4月10日にグレゴリオ13世は死去。すぐに次の教皇選出が始まる(第五章 ローマの栄光)。例のコンクラーベというやつである。ここで面白い(と言って良いのかな)のは、本命と思われている人は選ばれない、ということ。ローマ市民に絶大な人気があったのはファルネーゼ枢機卿という人。にも関わらず、実際に教会内の政治力学で選ばれたのはモンタルト枢機卿という人だった。新教皇はシスト5世を名乗り、その即位式に少年使節も出席することになる。

1586年4月、少年使節はリスボンを出発、帰途に着く。途中、マカオに一年以上滞在。1590(天正18)年7月、ようやく長崎に戻った。だが、信長は既に亡く、天下人となった秀吉は伴天連追放令を発布。キリスト教を巡る状況は容認から迫害へと暗転していた。ローマで栄光に包まれた少年たちは、やがて追放、殉教、棄教など苦難の道を辿る。

エピローグで著者は書いている。「少年たちが日本に帰ってきたときに、時代は戦国時代から統一的な国家権力のもとに集中され、他の文明や宗教を排除する鎖国体制に向かっていた。4人の悲劇はすなわち日本人の悲劇であった。日本は世界に背を向けて国を閉鎖し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界に致命的な遅れをとったからである」。

この大部な書物のディテールには感服するとしても、この結論的部分にはさてどうだろうと感じる。明治100年、昭和の時代までならば、この「遅れ」を「致命的」と受け止めて西欧に追いつくのが日本の近代化の流れだったのだろうが、とりあえず追いついた?平成のニッポンから振り返ると、果たして「致命的な遅れ」だったのかどうか。近代化に進む時期に差はあったとしても、個人の思想や信条の自由を勝ち取るために、結局は多くの血が流され多大な犠牲を払ったのは西欧も日本も同様ではないかとも思うし。

入院中に自分は、世界史の参考書(詳説世界史研究・山川出版社)も通読して、良くも悪くもヨーロッパ人の掠奪と征服が世界史展開の原動力だとあらためて感じた。スペインとポルトガルが世界の分割支配を決めたトルデシリャス条約(1494年)以降、ヨーロッパ人主導のグローバル化が始まり、その大波は戦国時代の日本にも押し寄せた。ヨーロッパと向き合った日本は結局、「鎖国」という道を選ぶことになったのだが、この態度決定をネガティブにのみ捉えるのは、最早余り有意義な評価とはいえない気がしている。つまり、グローバル化と鎖国、それぞれの功罪を推し量らなきゃいけないってこと。

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