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2008年3月22日 (土)

広島城に行く

春分の日20日の柳井に続き、休暇を取った21日は広島城を訪ねた。

P1020327 毛利輝元(元就の孫)が築いた広島城。その天守閣は国宝に指定されていたが、原爆により倒壊。現在の天守閣は昭和33年(1958)に再建されたもので、今年は再建50周年に当たる。写真は天守閣、手前に並べられている石の列は天守閣の礎石で、再建時に移設されたもの。

毛利氏の後、二代目城主は福島正則。言うまでもなく、豊臣秀吉子飼いの武将。関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し勝利に貢献した正則は、安芸備後49万石を与えられ、広島城に入り城下町の整備を図った。しかし元和5年(1619)、広島城の「無断修復」を咎められる形で改易、領地没収の憂き目にあう。以降は浅野氏が歴代城主となった。

先月2月13日に放映されたNHK「その時歴史が動いた」で、福島正則改易の経緯が描かれていた。
関ヶ原の戦いの後、秀吉の遺児・秀頼を守る同志・加藤清正が世を去り、豊臣と徳川の関係も方広寺鐘銘事件をきっかけに急速に悪化。正則は秀頼・淀殿を諫めるなど事態改善のために動くものの、結局大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡する。おそらくは深い失望を味わったであろう正則に対して、追い打ちをかけるかのように下された改易命令。これは2代将軍徳川秀忠が、自らの権勢を示すために豊臣恩顧・外様の大大名・福島正則を狙い撃ちしたという面もあるようだが、反乱を招きかねない危険な賭けでもあった。しかし正則は、もはや平和を破り秩序を乱す時代ではないことを悟ったのか、潔く改易処分を受け入れる。関ヶ原から19年後、豊臣氏滅亡から4年後のことだった。

福島正則というと武闘派というか、石田三成という理知派と対比されて余計に強面イメージだけど、平家納経の修理という文化的事業も手がけているし、酒好きで義理人情に厚いという、いかにも豪傑な感じで憎めない面もあったようだ。そんな人物が時代の大きな流れの中で没落してしまう姿に、悲哀を感じずにはいられない。

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コメント

はじめまして、福島正則公は現在の広島の都市としての原型を確立され、度重なる洪水のために堤防を作る際、人柱を立てることを憂い代わりに自分の愛用の刀を立てた逸話など武闘派とは別の一面もあり、魅力ある人物ですね。

投稿: うてきなぷりぱ | 2008年3月30日 (日) 17時12分

いらっしゃいませ、うてきなぷりぱ様
本当に、福島正則は「関ヶ原」の時のイメージだけで見てはいけない人物だなあと思います。やはり歴史に名を残す人物は、色々な面を持っているということなんでしょう。

投稿: donald | 2008年3月30日 (日) 20時00分

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