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2008年1月28日 (月)

フリードリヒ2世VS教皇

シチリア出身の神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世のことは、数年前NHK「文明の道」で初めて知った。雑誌「歴史群像」2月号の記事(破門皇帝フリードリヒ2世)からメモ。

1226年、世俗権力に妥協してきた教皇ホノリウスが逝去、新たに教皇となったグレゴリウス9世は、宗教的権威主義の塊のような男だった。
1227年8月、フリードリヒはブリンディシ港に遠征のための大船団を集結させた。ところがここで4万といわれた軍勢内に伝染病が蔓延し、皇帝自身も病を得てしまう。やむなく遠征は中止となったが、教皇グレゴリウスはこれを詐病であると断罪し、ついにフリードリヒに対し破門を宣告するに至った。
破門を解くには十字軍遠征を成功させるしかないと判断したフリードリヒは、再び遠征準備に取りかかり、1228年6月、聖地へと軍を進めた。第6回に数えられることになる十字軍遠征である。

(既に親交のあったイスラム・アイユーブ朝のアル・カーミルとの交渉の結果、1229年2月、10年間の休戦条約が成立。フリードリヒは聖地エルサレムに無血入城を果たす)

様々な文化が交錯し、多様な価値観が形成されたシチリアで育ったフリードリヒは、柔軟かつ合理的な、政治的統一の基での多様な価値の共存こそが、世界帝国の礎であると信じていた。

しかし、このようなフリードリヒの態度、そしてイスラムと手を結んだかのような和平条約は、ローマ教皇としてみれば許されざるものだった。教皇は反皇帝派を取り込み、皇帝の不在を狙ってシチリアへと攻め込んだ。
これを知った皇帝は、ただちにイタリアへと帰還して諸侯を糾合し、瞬く間に教皇の軍を打ち破るのだった。
両者はドイツ騎士団総長の仲立ちで1230年6月、サン・ジェルマノ和平条約を結んだ。この条約によってフリードリヒは、ようやく破門を撤回されたのであった。

・・・その後も皇帝と教皇の対立は続くのだが、破門といえば条件反射的に思い浮かぶのが「カノッサの屈辱」(1077年)。この事件から150年を経て、イスラムとの共存を目指す特異な個性の皇帝が出現、自らに宣告された破門を実力行使によって撤回させた。フリードリヒは当時「世界の驚異」と呼ばれ、後世からは「王座についた最初の近代人」と評された。歴史は時に時代を超越したかのような人物を生み出す。何だか凄い。

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