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2008年1月31日 (木)

『ローカル線ガールズ』

東京駅構内の栄松堂書店で『ローカル線ガールズ』を見つけた時は、「あのえちぜん鉄道の本が出たのか!」とちょっと感動した。えちぜん鉄道、福井のローカル線である。

名古屋にいた時、えちぜん鉄道には2回乗った。最初は05年夏、勝山まで(恐竜博物館)、2度目は06年春先、三国まで(東尋坊)、つまりほぼ全線に乗ったことになる。

で、車両の中に制服姿の女性がいるのを初めて見た時は、「なんでデパートガールが乗ってるんだろ」と思ってしまった。ローカル線の車内に立つ制服女性は何だか妙に場違い的な感じがしたが、これがアテンダントと呼ばれる女性添乗員なのだった。

最初は違和感というのか、何か不思議なものでも見るような気持ちにさせられたのだが、2度目の時は今日はどんな人が乗っているのかなという期待も抱いていた。その辺はワタシも男だから、制服姿の女性に少し、いやかなりヨワイところもあったりする訳で。しかも2度目の時は違う制服。(夏服と冬服があるのだ。夏はつばの広い帽子付き)

で、この本はそのアテンダントの仕事について、当のアテンダントさんが綴ったものである。彼女たちの仕事は、無人駅での切符販売、高齢者等の乗降補助、観光案内の3つをメインとしてその他よろず請負というところか。最初は地元の人たちの一部からも、その必要性に疑いの目が向けられていたアテンダントという存在が、試行錯誤しながら自分たちのサービスを作り出していくことで、次第に認知されていく様子が記されている。

しかしどこの世界でも、客というのは我がままなものだなと思う。あの山の名前は?あの花の名前は?早く切符をくれ、早くおつりをくれ、窓を開けるな、窓を閉めるな、年寄り扱いするな等々、様々な質問、要求、苦情が寄せられて、しまいには「何のためにアテンダントがいるのか」と言われた日にゃあ、やってられっか!という気持ちになってもおかしくないけどなあ。しかし彼女たちはそんな「お客様のお叱り」を受けて、日々勉強の気持ちで、自分たちのサービスをよりよくしていくために努力する。健気である。

山や花の名前にも興味は無く、ただ目的地へと急ぐありきたりの観光客として乗車していた自分は、この本を読んで、アテンダントという仕事は想像以上に大変なのだと感じるばかりだった。しかしとにかく今や、えちぜん鉄道といえばアテンダントなのである(・・・多分。だからこそ本が出たんだろうし、ワタシも買ってしまった訳で)。彼女たちには元気で頑張ってほしい。単純にそう思った。

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2008年1月28日 (月)

フリードリヒ2世VS教皇

シチリア出身の神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世のことは、数年前NHK「文明の道」で初めて知った。雑誌「歴史群像」2月号の記事(破門皇帝フリードリヒ2世)からメモ。

1226年、世俗権力に妥協してきた教皇ホノリウスが逝去、新たに教皇となったグレゴリウス9世は、宗教的権威主義の塊のような男だった。
1227年8月、フリードリヒはブリンディシ港に遠征のための大船団を集結させた。ところがここで4万といわれた軍勢内に伝染病が蔓延し、皇帝自身も病を得てしまう。やむなく遠征は中止となったが、教皇グレゴリウスはこれを詐病であると断罪し、ついにフリードリヒに対し破門を宣告するに至った。
破門を解くには十字軍遠征を成功させるしかないと判断したフリードリヒは、再び遠征準備に取りかかり、1228年6月、聖地へと軍を進めた。第6回に数えられることになる十字軍遠征である。

(既に親交のあったイスラム・アイユーブ朝のアル・カーミルとの交渉の結果、1229年2月、10年間の休戦条約が成立。フリードリヒは聖地エルサレムに無血入城を果たす)

様々な文化が交錯し、多様な価値観が形成されたシチリアで育ったフリードリヒは、柔軟かつ合理的な、政治的統一の基での多様な価値の共存こそが、世界帝国の礎であると信じていた。

しかし、このようなフリードリヒの態度、そしてイスラムと手を結んだかのような和平条約は、ローマ教皇としてみれば許されざるものだった。教皇は反皇帝派を取り込み、皇帝の不在を狙ってシチリアへと攻め込んだ。
これを知った皇帝は、ただちにイタリアへと帰還して諸侯を糾合し、瞬く間に教皇の軍を打ち破るのだった。
両者はドイツ騎士団総長の仲立ちで1230年6月、サン・ジェルマノ和平条約を結んだ。この条約によってフリードリヒは、ようやく破門を撤回されたのであった。

・・・その後も皇帝と教皇の対立は続くのだが、破門といえば条件反射的に思い浮かぶのが「カノッサの屈辱」(1077年)。この事件から150年を経て、イスラムとの共存を目指す特異な個性の皇帝が出現、自らに宣告された破門を実力行使によって撤回させた。フリードリヒは当時「世界の驚異」と呼ばれ、後世からは「王座についた最初の近代人」と評された。歴史は時に時代を超越したかのような人物を生み出す。何だか凄い。

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2008年1月27日 (日)

桶狭間、正面+背後攻撃か

桶狭間の戦いで、織田方は別働隊を今川義元本陣の背後から襲撃させた可能性がある――雑誌「歴史群像」2月号の記事(再考 桶狭間合戦)からメモ。

「善照寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、鉄炮を打掛」(『松平記』)
『松平記』によれば、信長は善照寺で兵を二手に分け、今川前軍と本陣にそれぞれ攻撃を開始したとする。
『松平記』のいう前軍を攻めている部隊は、信長の本隊になるだろう。そして本陣に鉄炮を放ちかけた織田別働隊というのは善照寺で分派したもの、ということになる。

「服部小平太上之山より突懸り」(『譜牒餘録』)。
「上の山」から攻撃を受けたというのは今川側の共通認識であったらしく、『松平記』にも「上の山よりも百余人程突て下り」と書かれている。

「上の山」が「上ノ山」(という地名)であり、今川軍の背後から服部小平太他100人ほどの部隊がこれを襲ったとすると、今川軍敗北の情景が鮮やかに見えてくる。
信長が善照寺砦から分派して東進させた部隊は、途中今川の分遣隊を撃破して沓掛城周辺に至る。暴風雨が吹きはじめる中、この部隊は大高道を南下して上ノ山に到達する。上ノ山に
到着した際には風雨も止み、東から西に向かって攻め掛かる障害は無くなっていた。

服部小平太は攻撃を開始し、同時に鉄炮も打ちかける。
一方、義元本陣の正面山際に位置した信長は、敵の背後で銃声が起こり戦闘が発生したのを見届けて突撃命令を発する。
敵の前面に攻撃をしかけて行動を制し、その間に別の部隊が側背へ機動する。その機動部隊が、敵の行動を制して、正面からの攻撃を有利に導く、というのは戦闘の基本である。

・・・かつては桶狭間といえば「奇襲」だったが、いまや「正面攻撃」説が優勢。だが今川兵は全軍2万5000、本隊だけでも5000と織田方2000の倍以上、しかも「おけはざま山」という小高い場所に陣を置いていたというだけに、単純な正面攻撃だけで信長が敵を打ち破ったとは考えにくい。桶狭間合戦、その謎の実像に迫る余地はまだまだ大きい。

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2008年1月26日 (土)

日銀の判断ミス

一年前に日銀が行った利上げは結果的に判断ミスだった――。昨日1月25日付日経金融新聞コラム記事「ポジション」〈太田康夫編集委員)からメモ。

日銀は1月の金融経済月報で「2007年度の成長率は潜在成長率をやや下回る水準になるとみられる」と表明した。07年2月の利上げが失敗だったことを意味している。

金融政策を評価するポイントは物価と成長率である。物価ははじめから危うかった。07年2月の消費者物価指数は06年2月に比べ0.1%下落。
利上げ派は先行きを見るフォワード・ルッキングを強調。「消費者物価の一時的なマイナスの先を展望すべきだ」としていた。
経済学では同方向の指標が2四半期続くと一時的ではなくトレンドと見なす。実際に消費者物価マイナスは8ヵ月続き、2月利上げの物価面での論理は崩れた。

成長率は潜在成長率を上回っているかどうかが焦点だ。福井総裁らは先行きに強気で、利上げしても2%程度の成長は持続すると見ていた。
結果的に物価に目をつむり景気回復に賭けた利上げは正当化されなかった。それどころか成長率が潜在成長率を下回るなかでの利上げは、脱デフレに向けては逆噴射となった。

軌道修正が必要な局面に差し掛かっている。
一つは利下げだ。世界的な
金融不安をぬぐうため緩和的な姿勢が求められている。米金利が急低下しており、日本も緩和姿勢を示さないと円相場が急騰しかねない。

もう一つは保有株式売却の見直しだ。日銀はゼロ金利解除の失敗の後始末として金融機関の保有株を購入。保有額は3兆2000億円(07年9月末)にのぼる。
サブプライム問題の真っ最中の07年10月からその売却開始を宣言。それが株式市場の重しになっている。

いまの景気減速、物価下落はサブプライムのせいだけではない。金利正常化にこだわりすぎた昨年の判断ミスも一因だ。新しい日銀総裁は中央銀行のドグマにとらわれず、曇りなき目で経済が見通せる人が望ましい。

・・・「小泉改革バブル」の崩壊とも思える日本株の大幅下落には、日銀の判断ミスも手を貸していたということだろうか。何にせよ、改革続行が求められる日本において政治経済のリーダーは、従来型の思考に捉われる普通のエリートでは勤まらないのだと思う。

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2008年1月25日 (金)

「国力」の低下?

ドル換算のGDPで「国力」を計るのは妥当か。本日付日経新聞市況面コラム「大機小機」(バブルと国力の混同を憂う)からメモ。

日本の国力低下を嘆く議論が盛んだ。例えば一人当たり名目GDP(国内総生産)。日本は1995年前後にOECD加盟30ヵ国中3位だったのが、2006年に18位に後退した。

他方、順位を上げて国力を高めたといわれるのは北欧の小国と、米国(10位→7位)、英国(18位→11位)など英語圏の国である。

日本経済は、株価と地価と賃金に代表される価格破壊を徹底し、購買力平価を切り上げて内外価格差をほぼ解消した。加えて、円高ピークの95年当時のドル表示の購買力平価で約5割過大評価されていた円が、2割前後の過小評価になった結果の順位変動なのだ。80年代前半の日本の定位置は11-17位だった。

不況知らずの優等生と持ち上げられる英国の躍進は、北海油田の石油収入とシティーの金融力を背景にしたポンド高だった。
革新性を称賛された金融機関のビジネスモデルが揺らぐ米国と同様、英国も中堅銀行が国有化寸前に追い込まれ、ポンド安が始まっている。日本の土地本位制バブルに次いで、アングロサクソンが得手とする市場型金融バブルが弾けたのだ。

国力論は難しい。バブルの過去や他国との安易な比較に大した意味はなく、金メッキの他国をなぞる議論に説得力はない。財政・金融の経済政策を含め、社会の健全なバランスに配慮し、社会保障など持続可能な制度設計で国民生活を安定させることこそ大切だ。

・・・現実を正確に認識するのは難しい。しかし正確な現実認識が無ければ、正しい政策を立てることもできないのだ。

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2008年1月23日 (水)

「Kさん」運用資金維持

本日付日経新聞市況面、株価が今年最大の下げ幅を記録した昨日22日の相場解説文中に、BNF氏が登場(新聞では「個人投資家のKさん」)。以下に引用。

「今日だけで1億5000万円の含み損が出ました」。みずほ証券のジェイコム株誤発注で20億円を稼いだ個人投資家のKさんは元気がなかった。日経平均の下げ幅が500円を超えたところで買い向かい、損失が膨らんだという。とはいえ下値の押し目買いが奏功し、運用資産は約190億円と昨秋から40億円増えている。「売られすぎは明白。短期的に株価は回復する」と前向きだ。

・・・この波乱相場で彼はどうなったかなと思っていたので、日経新聞もそれなりに読者サービス?をしてくれるものである。それにしてもこの下げ相場の中、運用資金を増やしていたとは驚き。凄いとしか言いようがない。こういう人が「世に出る」きっかけになったのだから、(当事者には申し訳ないが)あの誤発注が起きたのは「いとをかし」という感じだな。

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2008年1月19日 (土)

ニッポンへの失望

本日付日経新聞に、海外メディアの日本分析記事が紹介されている(「ニッポン」失望のワケ)。以下にメモ。

「外国人投資家は日本市場をあきらめている」。17日付のウォールストリート・ジャーナル紙は日本株急落を取り上げた。「日本の経営者は欧米に比べ株主に対し鈍感だ。株主の利益となる政策をとらない限り、株価は上がらない」と指摘した。

16日付の英紙デーリー・テレグラフは「現状では日本株に積極的に投資したい人はいない。日本は投資家の視野から外れた」と述べた。外国人投資家も日本の個人投資家も新興国に資金を向けていると説明。

ニューズウィーク誌は昨年末の記事で「企業」に焦点を当てた。「技術革新で世界をリードする企業はソニーから米アップル社に代わった」と打ち出し、日本企業がアップルやグーグルのように飛躍的な成長を遂げられないのは①年功序列のため、IT(情報技術)の知識の薄い層が管理職となっている②大学との技術交流がない――と分析した。

いずれの記事からも日本への強い失望が読み取れる。ブルームバーグ・ニュースは9日「安倍晋三政権の一年で旧態依然のジャパン・インク(日本株式会社)に戻った。福田康夫政権は自民党の地盤沈下を防ぐのに手いっぱいで経済に構っている余裕がない」と断言した。

・・・これらの分析に共通するのは、「小泉純一郎元首相が進めた改革が頓挫し、日本が逆戻りしているとの懸念」だという。昨年夏以来の日本株暴落も、2005年「郵政解散」以降の相場急上昇の反動、「小泉改革バブル」の崩壊ということになるのだろうか。

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2008年1月12日 (土)

川崎大師は初詣のパイオニア

年初から「はてな」方面で「初詣」のテーマがかなり盛り上がったようで、当方の2007年1月2日のエントリ(内容は2006年12月30日付日経新聞記事の要点)も、かなり参照された模様。しかし何しろ一年前にメモした話題なので、あらためてどうこう言うこともないなあ、と感じていた。が、日経記事に登場する研究者、新谷尚紀さんの新しい本『日本人の春夏秋冬』(小学館)が出ていたことを知り、早速購入。ところが、その中の「意外と新しい初詣の歴史」の章では、初詣と鉄道会社の関係について、やはり日経記事で紹介されていた平山昇さんの研究に依拠している按配であった。ので、行きがかり上、典拠として示されていた平山論文(明治期東京における「初詣」の形成過程、雑誌「日本歴史」2005年12月号掲載)を読むことに。以下は論文の要旨。

明治期を通じて東京の市街地における正月参詣は、初縁日参詣と元日の恵方詣が中心だった。ところが、東京南郊にある川崎大師平間寺では、縁日・恵方にこだわらない元日参詣、後に「初詣」と呼ばれる新しい参詣が盛んになる。

明治5年6月、我が国最初の鉄道路線(品川―横浜間)の途中に川崎停車場が設けられてから、川崎大師も次第に東京の人々の恵方詣の対象となっていった。しかし、川崎大師が東京市内の諸寺社と異なっていたのは、恵方に当たっている年もそうでない年も(要するに毎年)、元日に大勢の参詣客で賑わうようになった事である。

ここで重要な社会的背景は、明治の中頃から縁起を重視して参詣する「信心参り」が漸減し、行楽を主目的としてそのついでに参詣を行う者が増えていったという変化である。

川崎大師はいちはやく鉄道によるアクセスを得たことによって、汽車に乗って手軽に郊外散策ができるという、東京市内の諸寺社にはない行楽的な魅力を持つ仏閣となった。そして、特に明治20年代に、縁起よりも行楽を重視する参詣客が増えるなかで、この行楽的魅力に惹かれて川崎大師に参詣する者が増え、毎年恵方に関わらず元日に参詣客で賑わうという「初詣」が定着したと考えられる。

そして明治30年代になると、郊外へ伸びる鉄道網の発達に伴い、鉄道会社は沿線の寺社への参詣客誘致を積極的に行うようになる。競争が激化するなかで鉄道会社は、郊外行楽の性格を持つ「初詣」という言葉を前面に押し出して、縁日や恵方に関係なく、毎年の正月参詣を広告宣伝するようになった。いわば鉄道と郊外という2つの要素が、行楽本位の参詣客が毎年寺社に群集するという「初詣」の姿を形づくったのである。

・・・ということで、初詣はやはり近代化が生み出した習慣または行事と言ってよいのでしょうね。

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