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2007年12月15日 (土)

『精神現象学』対談講座

『完全解読 精神現象学』(講談社)の出版を機に、共著者である竹田青嗣と西研の対談講座「ヘーゲル『精神現象学』と近代の可能性」が行われたので(12日、朝日カルチャーセンター)、小生も参加してみた。

ナマ竹田とナマ西を初めて見たのだが、お二人ともソフトで和やかなキャラであった。話としては「自己意識」「自由」「相互承認」などの用語を手がかりに展開された訳だが、特に強調されたのが「ことそのもの」という概念。とりあえず教室で配布された講談社のPR誌「本」12月号掲載の対談記事からメモしてみる。

西:『精神現象学』のおいしいところはいくつもあります。「精神」章の最後が「良心」で、「理性」章の最後が「ことそのもの」という不思議な名前が出てくるところです。「ことそのもの」という話は、おそらく、学問や芸術や小説を想定していますね。自分の言いたいことがたまってきてそれを言ってみると、人から批評も受けるし理解もされる。自分の表現でありながらそれが多くのほかの人々ともつながっていくという可能性が、「表現のゲーム」にはあるわけです。そういうゲームの中で、「これぞ本物」というものが信じられる。「ことそのもの」とはそういう意味です。

竹田:ヘーゲルの体系では「世界とは何か」というと、至上者、絶対精神、精神です。人間は絶対精神から分化して出てきた主体としての個別的精神です。でもあらゆる精神は精神の本質を持っていて、「精神の本質は自由だ」とヘーゲルは言います。
人間の内的な精神の自由という本質が、最もよく発現しうる社会をいかに作り出すかが近代の課題です。その核となる条件が「ことそのもの」のゲームとしてある。最終的には各人の表現は、内的な個性の外化で、その相互関係の中で「普遍性」のゲームが成り立つ。もし近代の中で「ことそのもの」ゲームが栄えるならば、そこには精神の自由という本質が沸き立っていることになる。

・・・社会の構成員がお互いに様々な意見を出し合う中で、普遍的な物事が浮かび上がるのが「ことそのもの」のゲームだとしたら、それは学問や芸術の世界で成立しても、他の分野、例えば政治の世界で成立するのかどうか。また、精神の本質である自由が、歴史や社会を発展させる根本動因であるのかどうか。やっぱり経済的物質的基盤が整うのが先じゃないかなあと、マルクス的異議を持ち出したくもなるのであった。

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