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2007年12月 1日 (土)

人生の意味とか

珍しくもカミュの芝居が上演されたことを機会に、「シーシュポスの神話」をざ~っと読んでみたせいか、最近何となく人生の意味についてゆる~く思いを巡らせている。

もちろん、誰にでも当てはまる普遍的な人生の意味など無いのであって、あなたにはあなたの人生の意味がある(だろう)し、私には私の人生の意味がある(だろう)としか言いようがない、のではあるけれど。つまり人生の意味とは個別的なものであるほかはない、おそらく。であるならば、自分の人生の意味は自分で見つけなさい、というか、はたまた無理矢理でっち上げなさいというか、そういうことになる、のだろう。

それでも一般的な言い方をしようとするならば、多少の限定が必要になると思われるので、さしあたり職業生活ほぼ人生として言えば、人生の意味というのは、とりあえず「これが私の生きる道」(パフィーの昔の歌の題名だ)ということを感じられる時間なのではないかなあ、と思ったりする。

しかしとりあえずそうだとしても、サラリーマンという生存様式を前提とすれば、職業生活において常に「これが私の生きる道」と感じられるということなどあり得ないのであって、実際のところ、見つけたと信じた自分の生きる道をいつの間にか見失ったりすることは往々にしてある。つまり、人生の意味はあったり無かったりする、のが常態なのではないかとも思える。

無論、人生の意味など無くても人は生きられる。
人生の意味に対する欲求は、食欲や睡眠のような直接的に生存に不可欠なものではないとしても、性欲には近いかも知れない。それが満たされないと死んでしまうという訳ではないけれど、ついつい求めてしまう・・・とか。

まあそんな事はともかく、意味があったり無かったりする人生において、できれば「これが私の生きる道」と感じられる時間の比率を高めたいのはやまやまなのだが、世の中で生きていると自分だけで物事を決められる場合は多くはないし、そもそも自分のできることにも限界はあるしで、現実には人生には「意味の無い」時間帯の方が多いのではないかと思ったりする。しかしそんな時間をそれなりにやり過ごせる「強さ」(鈍感力?)もまた、生きていくには必要なのだろうな。

はたして、(個別の)人生の意味を見出したり見失ったりしながら生きていく、それが(一般的な)人生の意味である・・・と考えて良いのかどうか。

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