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2007年12月29日 (土)

『反哲学入門』

哲学者・木田元の新刊『反哲学入門』(新潮社)は、著者がこの10年程の間に繰り返し取り上げている「反哲学」というテーマについて、あらためて分かりやすく呈示することを目指した本。まずは第一章「哲学は欧米人だけの思考法である」からメモ。

「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在」と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体がなんであるかなどという問いは立てられないでしょう。自分が自然のなかにすっぽり包まれて生きていると信じ切っていた日本人には、そんな問いは立てられないし、立てる必要もありませんでした。

プラトン以来、西洋という文化圏では、超自然的な原理(イデア、神、理性、精神、等々)を参照にして自然を見るという特異な思考様式が伝統になりました。その発想法が哲学と呼ばれ、西洋における文化形成の軸になってきたわけです。
19世紀後半、ニーチェがこのことに気づきました。ニーチェは、西欧文化形成の根底に据
えられたそうした思考法が無効になったということを「神は死せり」という言葉で宣言しました。ここでは、「神」とは「超自然的原理」を意味しています。

超自然的思考としての「哲学」には決定的に分からないところがあるが、ニーチェ以降の「哲学批判」「反哲学」ならわれわれ日本人にもよく分かる。といっても、いわゆる表現の問題ではなく、考え方の根本に関してなのですが。

・・・この本では後半に語られている、近代哲学における超自然的原理としての「理性」という概念の展開、すなわちデカルトに始まりイギリス経験論の批判を受けて、さらにカントからヘーゲルに至る辺りの話は、まあ日本人には決定的に分からない点があるにしても(汗)、とても興味深いものがあるし、この「理性」を中心とした流れを押さえておけば、たぶん一般人としては、近代哲学は分かったつもりになれるんじゃないかなー、と思ったりする。

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2007年12月18日 (火)

ツェッペリンよりもパープル

大人のロック』最新号の特集は、「レッド・ツェッペリンVSディープ・パープル ハードロック頂上対決」ということだが、冒頭に置かれた大貫憲章の文の中に、昔から渋谷陽一が強調してきた意見に同調する形で、「ツェッペリンはハードロックとかメタルとかというジャンルでくくることは不可能な存在」であると書かれている。

そういう前提からすれば、パープルよりもツェッペリンの方が、ロックバンドとしては遥かに格上の存在であることを認めつつ、それはそれとして自分が好きなのはパープルなんだよね、と思う。

レッド・ツェッペリンは偉大な存在だとしても、同時にかなり「特殊イギリス的」なバンドでもあると感じる。ブルースとかフォークとか、あるいはケルトでもいいんだけど、そういう音楽的ベースを膨らませて、ダイナミックなロックを展開していったのがツェッペリン。
逆にディープ・パープル(いわゆる第2期以降)は、クラシックの楽曲構成やジャズ的アプローチを取り込みながら、あくまでもハードロックという枠組みの中で、その音楽的普遍性を最大限明快に提示してみせた、と言えるだろうか。

プロデューサーの役割も兼ねたジミー・ペイジの元、ツェッペリンはアルバムを出す度に、バンドの音楽的方向性を常に意識的に打ち出してきたという印象が強いのに対し、パープルはリッチー・ブラックモアはじめ能力の高い職人が集まり、お互いの持てるものをぶつけ合ってその都度作品が生まれたというような感じ。だからツェッペリンの方が組織的にバンドの運営がなされていたと言えるのに対し、パープルは音楽性を変える時はメンバーチェンジ、ということになったのだと思える。結果的に、パープルはバンドというよりも、ユニットの性格が強かったのかも知れない(このユニット的性格は、リッチーのレインボーにおいて、より一層甚だしくなる)。

先日、『ブラック・ナイト リッチー・ブラックモア伝』を購入した。400ページ近い研究書とも言えるような体裁で、お値段も2940円ナリ(こういうのも「大人買い」なんだろうな)。同書の末尾辺りにも記されているが、ごく最近、第3期パープル再結成のアイデアを元メンバーが語っていたということで、個人的にはツェッペリンの再結成よりも、第3期パープルの方が見てみたいかな、と思う。

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2007年12月15日 (土)

『精神現象学』対談講座

『完全解読 精神現象学』(講談社)の出版を機に、共著者である竹田青嗣と西研の対談講座「ヘーゲル『精神現象学』と近代の可能性」が行われたので(12日、朝日カルチャーセンター)、小生も参加してみた。

ナマ竹田とナマ西を初めて見たのだが、お二人ともソフトで和やかなキャラであった。話としては「自己意識」「自由」「相互承認」などの用語を手がかりに展開された訳だが、特に強調されたのが「ことそのもの」という概念。とりあえず教室で配布された講談社のPR誌「本」12月号掲載の対談記事からメモしてみる。

西:『精神現象学』のおいしいところはいくつもあります。「精神」章の最後が「良心」で、「理性」章の最後が「ことそのもの」という不思議な名前が出てくるところです。「ことそのもの」という話は、おそらく、学問や芸術や小説を想定していますね。自分の言いたいことがたまってきてそれを言ってみると、人から批評も受けるし理解もされる。自分の表現でありながらそれが多くのほかの人々ともつながっていくという可能性が、「表現のゲーム」にはあるわけです。そういうゲームの中で、「これぞ本物」というものが信じられる。「ことそのもの」とはそういう意味です。

竹田:ヘーゲルの体系では「世界とは何か」というと、至上者、絶対精神、精神です。人間は絶対精神から分化して出てきた主体としての個別的精神です。でもあらゆる精神は精神の本質を持っていて、「精神の本質は自由だ」とヘーゲルは言います。
人間の内的な精神の自由という本質が、最もよく発現しうる社会をいかに作り出すかが近代の課題です。その核となる条件が「ことそのもの」のゲームとしてある。最終的には各人の表現は、内的な個性の外化で、その相互関係の中で「普遍性」のゲームが成り立つ。もし近代の中で「ことそのもの」ゲームが栄えるならば、そこには精神の自由という本質が沸き立っていることになる。

・・・社会の構成員がお互いに様々な意見を出し合う中で、普遍的な物事が浮かび上がるのが「ことそのもの」のゲームだとしたら、それは学問や芸術の世界で成立しても、他の分野、例えば政治の世界で成立するのかどうか。また、精神の本質である自由が、歴史や社会を発展させる根本動因であるのかどうか。やっぱり経済的物質的基盤が整うのが先じゃないかなあと、マルクス的異議を持ち出したくもなるのであった。

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2007年12月14日 (金)

刑法犯10年ぶり低水準

殺人・強盗など重要犯罪を含む刑法犯は減少傾向。以下は本日付日経新聞より。

今年1-11月に全国の警察が把握した刑法犯の数(認知件数)は176万1993件で、昨年同期より7.0%減ったことが13日、警察庁のまとめで分かった。
戦後最悪だった2002年をピークに5年連続の減少。通年でも191万件程度と予測され、1997年以来、10年ぶりに200万件を割る見通しとなった。

認知件数を罪種別にみると、重要犯罪は8.7%減の1万5760件で4年連続減少した。
内訳は、殺人が6.8%減の1119件、強盗が10.4%減の4207件など、連れ去りなどの略取・誘拐を除き、軒並み減少した。
詐欺は昨年同期を8.6%下回る6万2284件。街頭犯罪と侵入犯罪もほとんどの罪種で減った。

・・・という具合に犯罪の数は減ったのだが、こと殺人事件の記憶では、衝動的、自己中心的、動機不明の事件が多かったように思う。

未解決事件では京都精華大学生刺殺事件(1月)。マンガ学部でプロを目指していた青年の夢は無残にも打ち砕かれた。市川市で起きた英国人女性殺害事件(3月)では容疑者は今も逃走中。加古川市の女子児童刺殺事件(10月)も動機など謎のままだ。

金を目当てに弱い者を襲う犯行も目立った。「闇の職安」サイトで知り合った男3人組がOLを拉致して殺害した名古屋の事件(8月)。犯人たちの冷血には慄然とするばかりだ。川口市のアパートでOLが殺されてキャッシュカードを奪われる事件(10月)も発生した。弱い者が偶然に暴力の犠牲になる、その救いの無さには言葉を失う。

2つのバラバラ殺人事件が明るみに出て始まった2007年も終わろうとしている。罪を犯した人間がはやく裁きを受けることになるよう願うのみだ。

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2007年12月10日 (月)

『大人の友情』

フリーマガジン「R25」のブックレビューで『大人の友情』(朝日新聞社、2005年2月発行)という本があることを知った。著者は今年亡くなった心理学者の河合隼雄。まず書名を見て、これは自分が読まなきゃいけない本かな、と思った。

最近しばしば感じるのだが、人間年を取ると、結局自分はこういう人間なんだなとがっかりすることがある。特に自分の場合は、友だち作りが下手だ、それは結局子供の頃から変わらなかった、という思いがある。長い付き合いの友だちがいないこと、それは結婚していないことよりも後悔するべきことではないか。そう感じている人間が、「大人の友情」と題された本を手に取らずにいるのは難しい。実際読んでみると、平易な文章の中にも、深い洞察が散りばめられている内容だった。余計な話だが、単行本でなく新書にしたら、販売部数はかなり多かったかも知れない。とりあえずいくつかメモ。

友だちが欲しい、と思っても、それほど簡単ではない、と言えるし、ひょこっとできるものだ、とも言える。そこには、人間の力を超えたものがいろいろとはたらいていて、自分の意思や努力だけではどうにもならない面があるからである。とは言っても、そこに相当な努力や工夫が必要になるときがあるのも事実である。いろいろとつき合っていて、好きなときも嫌いなときも、それを吟味していると、「己を知る」ことと共に、友人との関係を深めてゆけるのではないだろうか。そのような深い関係の友人をひとりでも持つことは、その人にとって幸福なことと言わねばならない。

友人との関係が深くなるにつれて、その影の部分が明らかになるにもかかわらず、なお友人関係が続くためには、そこに「やさしさ」がなくてはならない。
このやさしさはどこから来るのだろう。あっさりと言ってしまうと、死すべき者の自覚ということになるのだろう。何のかのと言っても、彼も死ぬし
、自分も死ぬ。このことは絶対確実なことだ。人生は予想不能なことが多くて、未来にいったい何事が起こるかまったくわからないが、人間は死ぬことだけは確実である。このことが、どれほどしっかりと自覚できているかが大切である。互いに死すべき者と感じるとき、善悪とか貧富とか長短とか、この世のいろいろな評価を超えて、束の間のこの世の生を共にしている者に対する、やさしさが生まれてくる。

友情という点で言うと、その友人が自分といろいろな点でよく似ていて、考えていることや感じることもすぐ一致する、というときと、むしろ、自分とはいろいろな点で反対で、そこに憧れを感じる、という場合がある。
非常に割り切った言い方をすると、類似性の高さは関係の維持に役立ち、相反性の高さは、関係の発展のために役立つ、ということになるだろう。
実際の関係の場合は、両者がうまくバランスをとっているわけだが、類似性だけでは退屈してくるし、相反性だけでは、結局は破壊的になる、と言えるだろう。

・・・著者は、恋人や家族関係も含めて、あらゆる人間関係の背後で「友情」がはたらいている、という。(良い結婚には友情の才能が必要だ、と言ったのはニーチェだったか)
友情というのと少し違うかも知れないが、人間関係における化学反応、ケミストリーってやつは大事だと思う。上記の引用では相反性による発展ということになるだろうか。友情でも恋愛でも、相反性を基にした関係は刺激的だろう。特に若い時は。で、年を取ってくると、「刺激」よりも、どっちかっていうと類似性を求めるという流れかな。

何にせよ、友情というものを味あわないと、自分が深くならないような気はする。

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2007年12月 7日 (金)

「ほどほど」に働く

本日付日経新聞連載記事「働くニホン・現場発」によれば、米コンサルティング大手タワーズペリンが世界19ヵ国・地域で8万8千人に聞いたところ、日本では仕事に「意欲的でない」「どちらかというと意欲的でない」という人が計72%に達したという。記事は、働く日本人の意識が、意欲にあふれた「バリバリ族」と、そうでない「ほどほど族」に二極化、日本ではほどほど族がじわじわ勢力を増しているように見える、と記す。「魅力的な職場」の条件を尋ねたタワーズペリン調査のポイントをメモ。

日本の従業員には仕事と生活のバランスを重視する傾向がみえる。「充実した休暇」「適正な仕事量」「福利厚生の充実」がそれぞれ3、4、6位と上位に来た。ところが19ヵ国・地域の平均値だと、この三項目は7、9位、「圏外」と優先度が低い。
世界平均では2位が「キャリア向上の機会」(日本は圏外)、6位が「教育・研修の機会」(日本は10位)。
日本でも仕事への潜在的な意欲は決して低くない。国際平均で3位の「やりがいのある仕事」が日本は首位。タワーズペリンは「日本人は怠惰になったのではなく、目先の仕事に疲れ、合理的なワークライフバランス(仕事と生活の調和)を求める意識が強まったのではないか」とみる。

何だか「魅力的な職場」というより、「夢の職場」「ありえない職場」みたいな感じもするが・・・。つまり日本人は現実には、やりがいのない膨大な量の仕事を休みも取らずにこなしているってことなんだろうか。何か悲惨。

でも、「ほどほど族」の増加は、「勝ち組」「負け組」とはまた違った現実の意識があるということを示しているのだと思う。

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2007年12月 5日 (水)

ヘーゲル的精神とは

今年はヘーゲル『精神現象学』刊行200年とのこと。本日付日経新聞夕刊に掲載されている、『精神現象学』の翻訳で高い評価を得た在野の哲学者、長谷川宏のインタビューからメモ。

19世紀のドイツの哲学者ヘーゲルは、生命本能を超えた人と人との関係を「精神」と呼んだ。ヘーゲルの基本的関心は何よりも人と人との関係を問うところにある。

鋭気あふれる『精神現象学』はヘーゲルの若書きで、人間の知の根拠を人間の意識の「主体」性に求めている。精神世界も含め至るところに生じる対立、分裂、否定などを正視し、その激動と混乱を超える全体的な知を獲得する精神の運動を示している。

ヘーゲルは市民革命、産業革命が起きた欧州の近代社会に生きる自由な人間の在り方を、精神面、物質面で総合的にとらえている。今の日本の社会はまだ、個人の生き方として自由な近代精神がきちんと根付いてないと思う。ヘーゲルの原理的な考え方に戻って考える価値はある。

・・・主体、全体的な知、自由な人間の在り方とか、いかにも19世紀的ロマン主義の匂いがするし、20年前に一度は「ポストモダン」まで突っ走った我々には、近代精神というのも何か色褪せて見えたりするものだから、今の日本でヘーゲルを考える価値があると言われても、あまり心を動かされる感じはしないのだなあ。もちろん『精神現象学』を平易な日本語に訳した業績そのものには敬服しておりますが。

来週、ヘーゲルについての対談(竹田青嗣と西研)を聴きに行くので、何か自分の心に引っかかるものがあればいいなと思います。

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2007年12月 3日 (月)

親子上場の是非

本日付日経金融新聞の記事「市場が問う親子上場(下)」に、こんなことが書いてあった。

親子上場は日本固有の事例のように思われがちだが、実は世界を見渡しても親子上場に否定的なのは英米のみ。ドイツやイタリアでは親会社や支配株主が存在する上場会社がむしろ一般的だ。

えっ、そうなのか。親子上場は「子会社の経営権を握る親会社と少数株主との間で、利益相反が起こる恐れがあることが問題点」、とされるらしいのだが、今度から親子上場にネガティブな意見に対しては、とりあえず「英米か!」ってツッコミを入れなきゃ。
もう少し引用。

国内でも「成長性があれば親会社より、割安な子会社を買う」との声もある。むしろ厳しく問われるべきは親子関係の「質」だろう。

「真に独立した事業体であってほしい」。NECエレクトロニクスに親会社のNECとの資本関係見直しを迫るペリー・キャピタルのアジア投資責任者、アルプ・アーシル氏はこう主張する。親子上場自体が悪いのではなく、親と子の間に少数株主を意識した「規律」が働いているかどうかが問題だと話す。
少数株主を無視した「もたれ合いの親子関係」では資本市場の納得は得られない。

・・・まあ親会社が支配権を維持したままで子会社を「公開会社」とすることに、経営的な必然性があるかどうかは疑わしいのだが、その一方で、投資対象が増えるのは投資家にとって悪い話じゃないし、親会社との関係は割り切って子会社の少数株主になるというのも、いわゆる「自己責任」という感じがするので、何か明確に判断がつかないっす。

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2007年12月 1日 (土)

人生の意味とか

珍しくもカミュの芝居が上演されたことを機会に、「シーシュポスの神話」をざ~っと読んでみたせいか、最近何となく人生の意味についてゆる~く思いを巡らせている。

もちろん、誰にでも当てはまる普遍的な人生の意味など無いのであって、あなたにはあなたの人生の意味がある(だろう)し、私には私の人生の意味がある(だろう)としか言いようがない、のではあるけれど。つまり人生の意味とは個別的なものであるほかはない、おそらく。であるならば、自分の人生の意味は自分で見つけなさい、というか、はたまた無理矢理でっち上げなさいというか、そういうことになる、のだろう。

それでも一般的な言い方をしようとするならば、多少の限定が必要になると思われるので、さしあたり職業生活ほぼ人生として言えば、人生の意味というのは、とりあえず「これが私の生きる道」(パフィーの昔の歌の題名だ)ということを感じられる時間なのではないかなあ、と思ったりする。

しかしとりあえずそうだとしても、サラリーマンという生存様式を前提とすれば、職業生活において常に「これが私の生きる道」と感じられるということなどあり得ないのであって、実際のところ、見つけたと信じた自分の生きる道をいつの間にか見失ったりすることは往々にしてある。つまり、人生の意味はあったり無かったりする、のが常態なのではないかとも思える。

無論、人生の意味など無くても人は生きられる。
人生の意味に対する欲求は、食欲や睡眠のような直接的に生存に不可欠なものではないとしても、性欲には近いかも知れない。それが満たされないと死んでしまうという訳ではないけれど、ついつい求めてしまう・・・とか。

まあそんな事はともかく、意味があったり無かったりする人生において、できれば「これが私の生きる道」と感じられる時間の比率を高めたいのはやまやまなのだが、世の中で生きていると自分だけで物事を決められる場合は多くはないし、そもそも自分のできることにも限界はあるしで、現実には人生には「意味の無い」時間帯の方が多いのではないかと思ったりする。しかしそんな時間をそれなりにやり過ごせる「強さ」(鈍感力?)もまた、生きていくには必要なのだろうな。

はたして、(個別の)人生の意味を見出したり見失ったりしながら生きていく、それが(一般的な)人生の意味である・・・と考えて良いのかどうか。

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