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2007年11月18日 (日)

「ナイトの不確実性」

ビジネス街にある書店で売れているらしい『1997年―世界を変えた金融危機』(竹森俊平・著、朝日新書)。経済学者フランク・ナイトの「不確実性」について説明している第2章からメモ。

不確実性には二つのタイプがあり、二つのタイプのうち第一のタイプは、それが起こる可能性についての「確率分布」を思い描けるものだ。ナイトはこれを「リスク」と呼ぶ。他方で第二のタイプは、それが起こる「確率分布」を思い描けないものである。ナイトはこれを「真の不確実性」もしくは「不確実性」という。

「サイコロの目」、「自動車事故」は、確率分布を想定できる事象である。そのようなタイプの不確実性が「リスク」である。不確実性が「リスク」であるためには、「確率分布」について理論的な推測が可能か、類似した現象が過去に数多く発生しており、データからの統計的推測が可能でなければならない。

「企業家」という特別なタイプの人種のもっとも本質的な行動は何かといえば、「新しいこと」への挑戦である。「新しいこと」、過去に類例がないことに企業家は挑戦する。「不確実性」と真正面から対決するのである。そして「不確実性」に対決する報酬として、企業家は「利潤」を手に入れる。

しかし、「不確実性」の領域で企業家が取る行動は、必ず成功の当てがあるものではない。そもそも必ず成功の当てがあるようなものは、「不確実性」とは言わない。したがって企業家は成功することもあれば、失敗することもある。
考えてみれば、もともとビジネスの成果を過大に見積もる楽観的な性格の者が、企業家という商売を選ぶのだ。

「真の不確実性」を前にして自分の幸運を信じ込み、あえて挑戦するという心理傾向は、「バブル」という経済現象にも見出せる。ここでも過剰な楽観主義が働いている。

ナイトは、経済行動の「合理性」を基本的には認める。人間は「合理的」な計算が成り立つような状況では、「合理的」に振る舞うと考えるのである。しかし他方で、「合理性」がもともと成り立ちえない領域、すなわち客観的な確率の計算のできない「不確実性」の領域の存在を彼は重視する。われわれの世界は「不確実性」によって包囲されており、その「合理性」の成り立たない領域における人間の行動は「合理的」でありえない。そこでは、「強気」または「弱気」の心理が人間の行動を支配する。

・・・本当に、人間の活動における合理的部分は限定的で、経済学はその限られた部分だけを相手にしているような気がする。証券会社に勤めていながら、「リスク」を中心に組み立てられる「ポートフォリオ理論」に対して、ますます懐疑的になりそうだな。

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2007年11月17日 (土)

講座「信長と南蛮文化」

池上遼一の描く「信長」の印象はとても強い。この劇画の織田信長は、マントはもちろん、帽子や甲冑その他やたらに洋風というか「南蛮バージョン」の出で立ちで登場する。時に「あんた、何処の国の人?」と思わないでもないが、信長は新し物好きだったようだし、そういう人なら、自分の着衣にも最新の南蛮モードを取り入れていたかも知れないなあ、と妙に納得してしまうのであった。

さて、本日は「信長と南蛮文化」と題された講座に参加するため、岐阜市歴史博物館まで出かけた。この講座の予定は新年度の初めから博物館でスケジュールされていて、自分も春に名古屋にいた時にチェックしていた。その後東京に転勤移住したが、こういうテーマで設定された講座は珍しいと思っていたので、とにかく遠路はるばるお話を聴きに行くことにした。講師は土山公仁・学芸員。とりあえず配布されたレジュメからメモ。

信長が西欧文明にはじめて接したのは鉄砲である。日本に鉄砲が伝来した10年後の1553年には鉄砲500挺を所持していた。当時、畿内での確実な鉄砲の生産地は堺に限られていた。信長が鉄砲と火薬をどのように調達したかは確かな史料が残っていないが、堺と密接な関係をもっていたとしか考えられない。

信長は海外から渡来した文物を積極的に収集していたが、単に新奇なものが信長を刺激したわけではなかったことは1569年、当時信長の居城があった岐阜をフロイスが訪ねた書簡からうかがえる。信長からフロイスへの質問はインドにこのような城があるかにはじまり、太陽・月・星にかんする宇宙論、フロイスが見てきたさまざまな国々についての習俗などにおよんだ。新奇な文物に新しい時代の息吹を感じるだけでなく、文物の背後にあるそれらをつくりあげた人々やその国の様子、さらにそこに住む人々がどのような世界観をもっていたかにいたるまで信長は好奇心をむけていたのである。

安土城天主に描かれた壁画に仏教・道教・儒教によるものが多いなど、中国的世界観に強く引かれながら、異なった世界観を決して排除したり序列をつけなかったことが、信長の特質である。

それから信長の南蛮ファッションについては、帽子(南蛮笠)とマントはあり得るけど、西洋型の甲冑となると、さすがにあり得ないらしいです。西洋甲冑が入ってきた記録があるのは秀吉の時代、今も残っている南蛮具足で伝来が明らかなものは家康の時代以降が多いということで、さすがに信長の時代にあったと考えるのは無理とのこと。まあ、時代の先端を行く信長をイメージするアイテムとしては、帽子とマントで充分ですが。

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2007年11月14日 (水)

職場でみじめになる理由

フィナンシャル・タイムズのコラムニストであるルーシー・ケラウェイの「どうして職場でみじめになるのか」(gooニュース配信)から、ちょっとメモしてみる。

(経営コンサルタントのパトリック・レンシオーニ氏の書いた本によると)私たちが職場でみじめな気分になる理由は3つ。第1に、自分は何者でもないから。つまり、自分がそこにいてもいなくても、誰も気にかけていないと感じるから。第2に、自分の仕事ぶりがいいのか悪いのか、測れないから。第3に、無意味だと感じるから。つまり自分が何をどう働いても、結局は大差ないんじゃないかと感じるから。

・・・という3つの理由を紹介した後で、ケラウェイ女史はこう述べる。

働く人間がみじめになる3つの理由は、もっと基本的な事柄だと私は思う。それはつまり、仕事と、周りの人たちと、職場環境全般だ。みじめになる原因が仕事なら、それはあなたにとって仕事が多過ぎるか少な過ぎるか、つまらなさすぎるか難し過ぎるか、あるいは簡単すぎるのだ。

周りの人たちのせいだという場合もいくつかある。周りの人たちが怠け者だったり、意地悪だったり、横暴だったり、その人たち自身がみじめすぎて鬱に陥ってるせいで周りが楽しくなれるはずもなかったり。職場環境も、やる気を失わせる環境だったり、不健康だったり、社内政治が激しすぎたりと、色々な問題があり得る。

レンシオーニ氏によると、管理職が部下の気持ちを盛り上げるのが下手なのは、自分が新人だった頃の気持ちを忘れてしまったからだという。

本当の理由はほかにあると私は思う。管理職ほど本質的にみじめな仕事はあまりない、というのがそれだ。人がやりたくもないことをやるように仕向ける。これが管理職の全てだ。ゆえに管理職というのは、不可能とは言わないまでも、困難きわまりない仕事なのだ。

・・・う~ん、やっぱり人を動かさなきゃいけない管理職の仕事ってやだな。こういう他所の国の人が書いたものを読んで思うのは、人間のやること考えることは何処でも余り変わらないらしいってこと。みじめなのはワタシだけじゃない・・・のかどうか分からんが。

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2007年11月13日 (火)

やってみなよ大連立

自民、民主両党の大連立に対する世論は、「評価しない」が55%で、「評価する」の27%を大きく上回って過半を占めたという。(日経新聞調べ)

個人的には大連立、いっぺんやってみればいいじゃん、と思う。

今週号のアエラには、ドイツの大連立について書かれている。財政赤字と少子高齢化という、日本と同じ悩みを抱えるドイツが大連立により、消費税と社会保険料の引き上げ、法人実効税率の引き下げという、大胆な政策を打ち出せたことは、実に示唆に富む、という。ドイツ人の「徹底的に議論する」という国民性もプラスに働いているようだ。

「大連立」に対して、反射的に「大政翼賛会」という言葉を持ち出す向きもあるけど、もはや余りリアリティの感じられない歴史用語で「批判」したつもりになるのは馬鹿馬鹿しい行いだと思われる。確かに「徹底的に議論する」ことなく「なあなあ」に流れるとよろしくはないのだろうけど、何でも一回やってみりゃあいいじゃん、経験してみりゃいいじゃん、という感じはある。

総選挙勝利による政権奪取の道は容易ではないだろうし、であれば民主党は「反対」「対案」で存在感を示すよりも、政権に参加して政策実現過程に関与していくことが建設的な在り方ではないかと思える。考え方の異なる様々な政治家がお互いに現実的な議論を交わす中で、政界再編もより具体的になっていくことが期待されるし。

しかし結局参議院って要らないんだな。衆議院と第一党が同じなら「コピー」になるし、「ねじれ」だと色々面倒くさくなるし。あと政党も要らないのがいくつかあるし。完璧な二大政党制で1院制だと一番すっきりするわけだ。

大連立構想は引き続きくすぶるとしても、今は党首のキャラが良くないというのもある。福田と小沢の顔合わせが絵になるとは言い難い。老人の首相と旬を過ぎた野党党首が並ぶ何ともみすぼらしい場面を見せられると、これがいまの日本の政治の現実なのかよ、と思わず目を背けたくなる。かつてごく短い一時期、小泉首相が前原民主党に連立を誘うような姿勢を見せたが、あの二人の党首なら連立も支持されたような気がする。

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2007年11月 8日 (木)

フィンランドは「銃社会」!?

7日、フィンランドの高校で銃撃事件が発生したとのことだが、新聞記事の文の末尾に、フィンランドの「人口一人当たりの拳銃所持率は世界で三番目に高い」とあるのを目にして、げげっと思い、ネットで検索してみると、なるほどそういうリサーチがあったのでメモ。

ジュネーブ高等国際問題研究所が発表した2007年版「小型武器実態調査」によると、世界では8億7500万丁の小型武器が出回っており、うち75%を軍や警察を除く、民間人が所有している。(小型武器とはライフル銃、突撃銃、カービン銃などを含める武器)

100人あたりの小型武器の所有率
アメリカ:90人
イエメン:61人
フィンランド:56人
スイス:46人
イラク:39人
セルビア:38人
フランス:32人
カナダ:31人
オーストリア:31人
ドイツ:30人

所有数が断然多いのが、アメリカの2億7000万丁。続いてインドが4600万丁、中国が4000万丁。

ウィキペディアには「フィンランドの銃規制」の項目あり。以下に一部を引用。

フィンランドには200万丁の銃火器が登録されており、さらに25万丁の未登録銃器も存在しているといわれている。フィンランド内務省によると、フィンランドの家庭の4分の1が銃火器を所有しており、その殆どがロングガンと呼ばれるライフル銃や散弾銃である。これはフィンランドの国民皆兵制度に基づいている。フィンランドでは徴兵制度があり、予備役の射撃技術の維持は施策の柱となっている。

・・・うーん、フィンランドが「銃社会」というのは知らなかった。いろいろお国の事情があるのだから、銃の所持率が高いことの是非を言うのは難しいが、社会の中に銃があるのは当たり前、という感覚は日本人には分からないよ。

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2007年11月 5日 (月)

ケインズと「流動性」

本日付日経金融新聞に、ピムコ社のポール・マカリーという人が、現在の金融市場の混乱に絡めて、「流動性」についてのケインズの考察を紹介している記事があるのでメモ。

流動性を決めるのは市場の集団心理である。ケインズは1936年に出版した「一般理論」の中でこの真実を説いていた。

ケインズによれば、金融市場は「慣習」に依存しており、投資家は「現状に変化をもたらす特定の理由がない限り、現状が無限に続く」と仮定する。

その上で「自分が負う唯一のリスクは近い将来に起こりうる何らかの事象の変化であり、それが実際に起こる可能性については自分自身で判断でき、起こったとしても大きなものである可能性は低いだろうと考えようとする」と主張する。

続いてケインズは、流動性について述べている。現状が続くと投資家が予想するならば、短期間の投資は「安全」となり、よって短期間の連続が無限に繰り返され、延長されていく。これは何かが起こるとしてもその前に自分の見方を修正し、投資方針を変更する機会があるからだ。このように本質的に「長期継続すると思われている」投資は「流動的」となる。

・・・ケインズという経済学の巨人は、時にマクロ経済理論の枠を超えた思考を展開する。それがまた天才の証でもあろう。おそらく投資家が最初の仮定における留保を忘却して、「現状が無限に続く」と確信した時、バブルが生まれるのだろう。もちろん、最初に希望的楽観の全く無いところで、投資という決断が可能であるとも思えないが。

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2007年11月 4日 (日)

カミュ「カリギュラ」

カミュの「カリギュラ」が蜷川幸雄演出で上演される(7日から渋谷・シアターコクーン)ことを知った時、今なぜカリギュラ?しかも「世界のニナガワ」で?と正直感じた。その昔、清水綋治企画・主演の舞台を観た人間としては、ちょっと興味を持ったのも事実だけど、主演男優がいかにも若い(ただ今売り出し中のイケメンらしいけど、余り興味無いっす)ものだから、さてどこまでやれるのかと・・・。で、とりあえず昔話をしておきますか。

P1020278 清水綋治が企画・主演した「カリギュラ」は1984年2月、下北沢の本多劇場で上演された。写真はその時のパンフレット。・・・しかし正直パンフを買っていたとは忘れてた。本棚の引き出しには意外な物が入ってるもんだ。(苦笑)
共演は秋川リサ、塩島昭彦ほか。演出・岡村春彦、上演台本・小澤僥謳。何しろ20年以上も前なので、細かいことは覚えていないが、清水綋治の思い入れの強さは伝わってくる舞台だった。清水演じるカリギュラが吐き出すように語る「男が泣くのは物事があるべき姿にないからだ」というセリフが妙に記憶に残っている。

話としては、愛人の死によって、「人間は死ぬ。だから人間は不幸だ」という「真理」を心に深く刻まれた若き皇帝カリギュラが、この「真理」を人々に教え込むために自らの権力を行使する暴君となるものの、最後は「生きて、幸せになる」ことを望む親衛隊長のケレアを中心とした反乱者たちに殺害されるという、いかにもカミュ的なテーマが盛り込まれた芝居。(「シーシュポスの神話」には、「幸福と不条理とは同じひとつの大地から生まれたふたりの息子である」と記されている)

1945年初演のカリギュラ役はジェラール・フィリップ。後の伝説的映画スターだ。
フィリップがガンのため36歳の若さで世を去った1ヶ月余り後、1960年1月4日にカミュは46歳で自動車事故死・・・嗚呼、何といふことでせうか。

若い頃に「カミュ全集」全10巻を古本屋で買ったけど、どうも自分はカミュの作品に凄く感動したとか、そういう覚えは実は余り無く、なぜか作品よりも「カイエ」と呼ばれた創作ノートが好きだったりする。そこに綴られた文章が醸し出す、切実なセンチメンタリズムの雰囲気に浸っていたのだな。「カイエ」は昔、新潮文庫に「カミュの手帖」として「太陽の賛歌」「反抗の論理」の2冊が入っていた。未刊部分を含めた合本も1992年に刊行されたが、活字二段組の書籍の形よりは、適当に開いたページから拾い読みできる文庫本の方が「手帖」らしい感じ。文庫復活を望んでも可能性は低いとは思うけど。

結局自分は、カミュについては作品を読むというよりも、もっと直截的な作家の声を求める、いささか不真面目な読者だったと言うほかない。全集の中でも主に目を通したのは、短い時評やインタビューなど「発言」の類だったし。でも、カミュが今テレビのキャスターとかコメンテーターをやってたら、結構人気あるんじゃないかなあ。(何だそれ)

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2007年11月 1日 (木)

メガデス公演2007

このところ毎年恒例?となったメガデスの来日公演。
自分も05年新栄ダイアモンドホール、06年ラウドパーク&ZEPP・NAGOYAと見てきたが、今年は東京で迎え撃つことになり、東京公演3日目となる本日のチケットを取得。

開演は夜7時だが、今回は前座のバンドがあるということで、人様のブログで情報収集、メガデス登場は8時か、ならいったん帰って着替えて行くか、と思って早目に退社。ウチに戻り、背広ネクタイを脱ぎ捨てて、会場であるSHIBUYA-AXに向けて再出動。

少しモタモタしてたら8時にも遅刻しそうになったが、ぎりぎりセーフ。初めての場所なんだけど、余り落ち着いて見渡す暇もなく、メガデスのライブがスタート。音量というか音圧は強いが、音のバランスそのものは良かった。スリープウォーカーから始まり、ウェイクアップデッド、ワシントンイズネクスト、アトゥールモンド、インマイダーケストアワー、ハンガー18、悪魔島、狂乱のシンフォニー、審判の日、ピースセルズ他が、殆ど途切れる間もなく演奏され、アンコールのホリーウォーズまできっかり1時間半のステージがあっという間に過ぎたという感じ。観客の反応はすこぶる良く、デイブ・ムステインは日本語で「サイコーダゼ・・・スコシキチガイ」と語りかけるなど、ご機嫌うるわしい様子であった。

やはり現役のハードロックorヘヴィメタルでは、メガデスは来れば見ておきたいと思わせるバンド。例えば、いくら現役とはいっても今のディープ・パープルを見たいとは思わない訳で、ただ活動を続けているだけでなく、実際に今のロック・シーンに活気を与えていることが大事。何よりムステインはまさに現役のロック・スターだし。

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