« 織田政権内の暗闘 | トップページ | 「怪獣と美術」展 »

2007年10月 1日 (月)

織豊政権とは何か

秀吉神話をくつがえす』(藤田達生・著、講談社現代新書)終章「軍国神話の現在」からメモ。

信長は天正10年(1582)中に天下統一を完了する予定だった。新国家は、東は関東まで、西は中国・四国までに達する広大な管轄領と、周縁の同盟関係を築いた外様大名領で構成されたはずだ。それを受けて、懸案だった老齢の正親町(おおぎまち)天皇の退位と誠仁(さねひと)親王の即位が実現し、信長自身も将軍に任官したうえで、安土行幸が行われる予定だった。
天皇と将軍が相互補完しつつ天下を統治するという、室町時代以来の公武一統の支配体制が、天下人である信長のもとに統合される日が、確実に迫っていたのだ。

このような時期に勃発した本能寺の変の衝撃は、信長の後継者秀吉の改革のありかたに、直接影響を及ぼした。秀吉は、信長の政策を積極的に継承しつつも、関白や太政大臣に就任し、天皇を頂点とする既成権威とは対立せず、徹底的に利用することで、短期間のうちに政権を掌握することをめざした。
この路線の延長上に、対外侵略を正当化するための「日本は神国」とする独善的な論理があった。

かつて勝俣鎮夫氏は、秀吉によって日本が伝統的東アジアの国際的秩序である中国を中心とする華夷秩序から脱した独立国家となったことを重視し、「国民国家」的性格の強い国家が形成されたことに注目した。

秀吉の生涯の目標は何だったのだろうか。天下統一は、ひとつの通過点に過ぎなかった。南欧勢力の侵入、中国を中心とする東アジアの外交秩序の弛緩、これがもたらすグローバル化に対応して、日本を「神国」と位置づけ、武威を強調する「帝国」の樹立をめざしたのである。

結局、この「帝国」も朝鮮侵略の失敗がもとで自壊し、徳川政権によって封建体制が再編され、農本主義を標榜する分権国家としての幕藩体制が誕生した。そののちふたたび秀吉神話が称揚されたのは、欧米列強の圧力のもと進められた明治時代以後の帝国主義化の過程だった。

・・・そして現代の日本でも、「帝国」化のうねりがみられると藤田先生は言うのだが(ネグリとハート、柄谷行人の名前も出されてるよ)、それはさておき。

戦国時代でそれまでの日本がご破算になり、三英傑の時代に、いまの日本にまでつながる国のかたちが成立したのだと考えると、やはりこの時代は日本史において画期的な、とてもクリティカルな時代だと思わずにはいられない。興味の尽きない所以である。

|

« 織田政権内の暗闘 | トップページ | 「怪獣と美術」展 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/174032/8161732

この記事へのトラックバック一覧です: 織豊政権とは何か:

« 織田政権内の暗闘 | トップページ | 「怪獣と美術」展 »