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2007年10月28日 (日)

肥満と飢餓の共存

先日、世界には肥満の人が10億人、飢えている人が10億人という話を、テレビで見て唖然としていたところに、「肥満と食糧危機」を特集した「日経サイエンス」12月号が出たもので、ついつい購入。2つの記事からメモしてみる。

「途上国を襲うメタボリックシンドローム」
発展途上国に暮らす数億人の食と健康をめぐる状況は、この20年で激変した。ほとんどの途上国では、飢餓に代わって肥満が健康への脅威になりつつある。
メキシコやエジプト、南アフリカ共和国などでは、成人の半数以上が「太り気味(体重過多)」または「肥満」だ。中南米のほぼすべての国と中東および北アフリカの多くの国では、少なくとも成人の4人に1人が体重過多になっている。

世界規模でみると、13億人以上が体重過多であるのに対して、低体重者は約8億人にとどまる。そして、2つの数値は急速に差を広げつつある。

身体を動かすことの少ないライフスタイルへと変化したことに加え、カロリーの高い甘味料や植物油、動物性食品(肉類、魚、卵、乳製品)を摂るようになっている。生活習慣と食事の変化が相まって、人々の健康を破局に導く下地ができあがった。その結果、肥満が糖尿病や心臓病などの爆発的な急増を引き起こしている。

「それでも8億人は飢えている」
国連食糧農業機関(FAO)は、2001~2003年の栄養不良人口を年間平均8億5400万人と
推定している。うち8億2000万人が開発途上国、2500万人が旧ソ連地域など過渡期にある国々、そして900万人が先進国の人々だ。

飢餓には多くの原因がある。世界全体で見れば、飢餓に苦しむ人すべてに十分行きわたって余りある食糧が生産されている。国家間、あるいは国内における食糧の不均等な配分こそが世界の飢餓を引き起こしているのだ。
食糧の不均等は、貧困に深く根ざしている。食糧不足が生じたとき、貧しい国は世界の市場から十分な量の食糧を買うことができないし、国内に十分な量の食糧が出回っているときでさえ、貧困層の人々にはそれを手に入れるお金がない。

一時的な飢餓を引き起こす洪水や嵐、干ばつといった自然災害がこの10年ほどで増え、貧困国に深刻な結果をもたらしている。
人為的要因によると考えられる食糧危機も増えている。アジアやアフリカ、南米では戦禍で何百万人もの人
が家を追われ、世界的に見てもその飢餓は緊急を要する状況にある。

・・・飢餓が解消されない一方、肥満がグローバル化するという、いかにも「不条理」な現実。肥満人口と飢餓人口合わせて20億人以上、世界の3分の1近くの人が、健康を悪化させ生命の危険にも晒されていることになる。飢えた子供と太りすぎの人々を前にして、そうでない人々に何ができるのか。この問題に限らず、今の世の中で何かを変えようとしたら、まずは「仕組み」づくりということになるのだろうが、さて具体的な話となると、普通の生活者は何をどうすればいいのやら見当も付かないのがもどかしい。

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2007年10月27日 (土)

介護と生活苦の悲劇

「私の手は母を殺めるためにあったのか」と男は泣いた』(山藤章一郎・著、小学館)は、週刊誌連載のニュース記事から19のエピソードを集めたもの。取り上げられる人物は、みのもんた、斎藤佑樹、松岡利勝、瀬戸内寂聴、畠山鈴香、城山三郎など、多彩というのか雑多というのか。しかしなかでも強い印象を残すのが、この本の表題にもなっている、昨年2月に京都で起きた事件。生活費の尽きた54歳の男が、自分で介護していた86歳の母を絞め殺し、自らも死のうとしたが果たせなかった事件である。

認知症の母の介護に追われ、仕事を続けられなくなった男は、生活保護も受けられない。生活費が尽きる最後の日に、男は車椅子の母と共に京都市街を巡り歩き、その夜、川原で男は詫びながら母に手をかける。翌朝、死にきれずにいるところを通行人に発見される。

「ぼくが台所で食事の用意をしていると、母は私を呼び、赤ん坊のようにハイハイをし、私のところに寄って来るのです。それがかわいくてかわいくてなりませんでした。そして抱きあげると、にこっと喜ぶのです。で、抱いてやると、強く抱き返してくれるのです」
公判の陳述には、法廷がすすり泣いた。

「母が子供に戻って行くのです。私は母を『見守る』ただそれだけのことしか出来なかった。私の手は何の為の手で、母を殺めるための手であったのか、みじめでかなしすぎる。じっと我が両の手を見る。何の為の手で有るのかと」

担当弁護士の目に男の姿は「武士」に映った。
「母親との心中は、彼にとっては切腹だった。法廷で私も涙を抑えきれませんでした」

懲役2年6月、執行猶予3年。
裁判長は「決して自分が死ぬことを考えず、お母さんの冥福を祈ってください」と諭した。

・・・この社会ではこんなことが起きているのだと考え込んでしまう前に、母と子の強い絆に自分もただ涙するばかりになってしまう。ほぼ不可避的に破滅へと追い込まれていく男の姿は、文字通りの悲劇というほかない。

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2007年10月23日 (火)

新しい現実か矛盾の拡大か

本日付日経新聞コラム記事「一目均衡」(執筆者は末村篤氏)からメモ。

今年10月は「ブラックマンデー」(暗黒の月曜日)から20年の節目に当たる。

87年と今を比べると、金利の低位安定や国際的な政策協調体制は違うが、米国経済の不均衡拡大、インフレの足音、ドル不安など共通点は少なくない。顕著な変化は、米国の経常赤字の規模が約5倍に膨らみ、米・欧・日先進国間の問題だった不均衡が中国、ロシア、中東などを含む世界規模に拡大した点だろう。

余剰資金(過剰貯蓄)を米国が吸い上げて使うシステムが、世界大に広がる過程で世界は空前の好景気に沸いた。新興経済国(BRICs)の供給力と有効需要の掘り起こし、証券化に代表される金融の技術革新がそれを支えた両輪だ。

自由化、市場化の源流をたどれば、71年のニクソンショックで金の裏付けを無くしたドル紙幣本位制に行き着く。市場経済とは、価値基準と尺度の無い世界と同義である。節度を欠く米国の経済運営とそれに便乗する世界への「市場の警告」がブラックマンデーだったとすれば、その構図は拡大再生産され眼前にある。

問題の本質は変わったのか。真に新しい現実の出現なのか、矛盾の規模が大きくなり問題が深刻になっただけなのか。

・・・市場経済が「価値基準の無い世界」ならば、我々はニーチェ的世界を生きているとも言えるのだが、それはともかく、ブラックマンデー以来20年このかた、時に市場経済のリスクから噴出する「暴力」に晒されてきた我々は、少しは賢明になってもよいはずなのに、現状を見れば飽きもせず同じことが繰り返されているのだと思える。リスクはコントロール可能なのか、あるいはコントロール可能と考えることでむしろリスクの本質から目を逸らされているのではないか、と問うことは許されよう。

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2007年10月22日 (月)

『わが青春のロック黄金狂時代』

1970年代の音楽雑誌と言えば、「ミュージック・ライフ」と「音楽専科」。70年代ティーンエイジャーだったワタシは、限られたお小遣いではLPを際限なく買うこともできず、とりあえずこの2つの月刊誌のうちどちらかを買って読み、ロックに対する知識欲をそれなりに満足させていたという覚えがある(それゆえにレコード・レビューを読んだだけで、聴いた気になってしまったバンドも多かったけど)。で、その「ミュージック・ライフ」編集長だった東郷かおる子さんが『わが青春のロック黄金狂時代』(角川SSC新書)という本を出した。もちろん、レッド・ツェッペリン、サンタナ、エリック・クラプトン、ロッド・スチュアート、デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガーなど彼女が関わったミュージシャンたちのエピソード満載である。個人的にはロッド・スチュアートの話す英語は訛りが強烈(スコティッシュ)というのが「へぇ~」だった。「アイムセクシー」な伊達男が「~だべ」とでも話す感じだろうか。よく分からんけど。

で、「ミュージック・ライフ」といえばクイーン。この本の中でも、70年代の「ミュージック・ライフ」においてクイーン、エアロスミス、キッスが3大人気バンドであり、彼らの功績は日本のロック・ファンの底辺を広げたことであると語られる。まあこの辺が、何となく「ミュージック・ライフ」はガキ向け、という印象につながっているのだな、ワタシは・・・。クイーンのスタイルは「少女漫画の世界観」にも一致していたということだが、クイーンの後もジャパン、チープ・トリック、ボン・ジョヴィと、「ミュージック・ライフ」は「少女漫画」路線?を強力にサポートし続けたのでありました。

さて80年代以降ロックは巨大産業化し、70年代の「熱気」は次第に薄れていく。東郷さんは90年に会社を辞める。そして98年に「ミュージック・ライフ」は休刊した。

本書の冒頭「オヤジ・ロック・ブームに想う」から引用。

(1960年代から70年代の)あの頃は良かったと私が自信を持って言えることが実は、ひとつだけある。良かったと言うよりは「あの頃は面白かった」と言った方がいいかもしれない。それはロック・ミュージックと出会い、その成長と発展と共に自分が青春時代を送ったことが幸運だったと思えることだ。
今、人生の折り返し点に立ち、あの時代を素直に「面白かった、楽しかった」と笑顔で言える、かつてのロック少年は多分、幸せな人だ。昔ほしかったギターを手に、ディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」を絶叫するオヤジもまた、幸せな人なのだ。

本当にロックについては自分もまた、素直に「面白かった」と言える「幸せな人」なのだと思う。

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2007年10月21日 (日)

UKのライブCD

えっ! こんなの発売されてたのか。
UKのライブCD。それも結成当初の4人編成による演奏(1978年9月)。「U.K.ライヴ・イン・ボストン」、先月出てたようです。

昔からブートでも出回っていた音源らしいのだが、自分にはUK4人組のライブがあるなんて迂闊にも初耳。秋の夜長はプログレを聴くのがよろしい、ということで早速購入。

で、やっぱりビル・ブラフォードのドラムが良い。短いオープニング曲「アラスカ」の後、2曲目の「タイム・トゥ・キル」から走り出すドラムスがたまらない。ジョン・ウェットンとビル・ブラフォードのリズム・コンビは、当然のようにクリムゾン・テイストが感じられる。これにアラン・ホールズワースのギター、エディ・ジョブソンのキーボードとバイオリンが絡んで展開されるインプロビゼイションも、見事にプログレの典型だな~。

コンサート終盤に演奏される「イン・ザ・デッド・オブ・ナイト」は、あのイングヴェイ・マルムスティーンもカバーしている曲で、確かにハードロック的なうねりもある。興味深いのは、アンコールの「シーザーズ・パレス・ブルース」などセカンドアルバムに収められる曲が3曲、既に演奏されていること。もう最初っからかなりたくさん曲を作ってたのね。

解説書には、ファーストアルバムは高く評価されたが、当時のパンクとニューウェイブが席巻するイギリスでは、セールス的には芳しくなかったとある。振り返ればハードロックとプログレッシブロックが一時代を築いた後の70年代後半、ブリティッシュロックにはあんまりいい時代じゃなかった。イギリスのミュージシャンが、高い税金を嫌ってアメリカに移住、という記事もよく目にした覚えがある。今から思えば、サッチャー革命前夜、いわゆる「英国病」が極まっていた時期だ。

環境の逆風の中、4人編成から3人編成になったUKは、テリー・ボジオの力強いドラム・スタイルもあって、バンドとしてはよりタイトになった印象が強いのだが、やはりブラフォードとウェットンの組み合わせは維持して欲しかったな・・・(いまさらですが)。ざっくり言って、暗く重いクリムゾン、暗く軽いUK、そして明るく軽いエイジアへと時代は移り変わっていったのだが、しかしプログレが明るくてどーする。ジョン・ウェットンに望むのは、エイジアなんて止めて、せめてUKをやってくれよおおおっ!ってことだな。

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2007年10月20日 (土)

松尾山に上る(2度目)

おお! JR東海さわやかウォーキング定番コースの関ヶ原に松尾山が組み込まれた! これは事件だ!(大げさやな)

という訳で本日開催のウォーキングに参加するため、朝7時前の新幹線に乗って東京から西に向かって進軍した。(物好きやな)

名古屋から東海道本線に乗り換え、9時半に関ヶ原到着。いつも通り中高年の大群。皆さん熱心だ。まずは駅から西に向かって歩く。不破の関、常盤御前の墓を通過して、ぐるっと南側に回り込む格好で聖蓮寺の裏手から松尾山に上っていく。

P1020259 自分が松尾山に上るのは2年ぶり2度目。初めての時は駅から南進して、山の北側から上ったので、南側からも上れるとは知らなかった。標高293mの山道だが、自然歩道として整備されているため、道幅も広く比較的歩きやすい。11時前に山頂の小早川秀秋陣跡に到着、再び関ヶ原方面を写真に撮る。中央白い建物が小学校。そのすぐ左の辺りが石田三成陣のあった笹尾山。かつての合戦場をしばし眺めた後は山を下って北に向かい、小西行長陣から島津義弘陣を経て、石田三成陣から南に折り返し、そのまま駅まで戻ってゴール。約13kmの道のりを3時間15分程で歩いた。これまでは、松尾山を「ウォーキング」コースにするのはちとしんどいのかなという印象を持っていたが、実際に歩いてみるとそれ程でもなかった。まあ奈良井宿のコースも鳥居峠を上り下りする訳だし、これ位の高さの山をウォーキングコースにしてもおかしくないか。今日のコースに大谷吉継陣が加われば、戦国オタクとしてはかなり満足するものになるぞ。

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2007年10月19日 (金)

ブラックマンデーの教訓

1987年10月19日に起きた「ブラックマンデー」(米国株の大暴落とそれに伴う世界連鎖株安)から20年。本日付日経新聞の関連記事から当事者の証言をメモ。

ジェラルド・コリガン氏(元ニューヨーク連銀総裁)
流動性の潤沢な供給というFRBの政策対応は正しかったと思っている。20年前の行動がその後の危機管理のモデルになったといってもいい。
FRBは当時、金融機関に公定歩合で資金を貸し出すのではなく、公開市場操作を通じて短期金融市場に資金を供給した。過去とは違う革新的な手法だ。公開市場操作は効率的で、いったん供給した資金を吸収しやすい。資金を取り入れるかどうかの判断を、金融機関の自主性に委ねることもできる。
米大手ヘッジファンドのロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が破綻した1998年、米同時テロが発生した2001年、そして現在の金融不安に至るまで、どの中央銀行もおおむね同様の手法を踏襲してきた。

ナイジェル・ローソン氏(元英蔵相)
当時、主要国は株式市場そのものには介入せず、流動性供給で不安心理を抑える手段を選び、これはその後のグローバル市場における混乱対策のひな型となった。
「市場混乱時に流動性を供給するため安易に金融緩和すれば金融機関のモラルハザードを招き、結局は次の金融危機の種になる」という理論は正しい。だが、市場を決定付けるのは理論ではなく参加者の期待心理だ。恐怖心が支配した時、市場参加者は「群集心理」に走り、その安定を取り戻すには流動性供給以外に方策はない。一定周期で市場が振れるのはある意味防ぎようがない。

・・・ブラックマンデーという事件こそは、世界規模の金融市場の混乱に巻き込まれるという出来事を人々が初めて共有した、現在にまで至るグローバル経済の出発点だったとすれば、我々は繰り返しその経験を反芻しなければならないのだと思える。とはいえ当時の記録やデータだけで、市場参加者の「恐怖心」や「群集心理」を理解するのもなかなか難しいだろう。現在の金融市場の混乱に触れながらローソン氏が述べている、「結局のところ人は自らの経験からは学ぶが、先人の経験からは学べない」という言葉が警句のように響く。

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2007年10月14日 (日)

講座「決算書がスラスラわかる」

時々、「決算書がわかる」類の本を買う。しかし自慢じゃないが、まともに読んだためしがない。タイトルに「図解」と付けられた本ですら、ちょっと眺めておしまい。これは本を読もうとするより、誰かの話を無理矢理聞かないとダメかなと思って、先日「決算書がスラスラわかる」という講座(朝日カルチャーセンター)を受けてみた。

講師は経営コンサルタントの国貞克則氏。今年の春に出した著書『財務3表一体理解法』(朝日新書)がよく売れているとのこと。講義では、その本から主要部分を抜粋したレジュメが配られ、事業活動のシンプルなシミュレーションを想定して、会社設立(資本金)から、借り入れ、商品仕入れ、販売・・・税金、配当金の支払いまで、順を追って実際に数字を記入しながら、貸借対照表(BS)、損益計算書(PL)、キャッシュフロー計算書(CS)の連関を見ていくという進行。

重要なことは、まず財務3表の連関ということでいえば、①PLの「当期純利益」が、BSの「純資産の部」の「利益剰余金」とつながっている、②CSの「現金及び現金同等物の期末残高」と、BSの「現金及び預金」は基本的に一致する、③PLの「税引前当期純利益」がCS間接法の出発点になる、ということ。さらに会社の事業活動に伴う財務3表の変動においては、会計上の収益を表すPLと、現金の動きを表すCSの数字の動きにはズレがあることも押さえる必要がある。PLに売上が計上されても、掛売りであれば売掛金が回収されるまでは営業キャッシュフローの数字は動かないし、会計上の費用としてPLに計上される減価償却費もやはり営業キャッシュフローの数字を動かさない等々、実際にドリル形式で数字の動きを追っていくと、財務3表のつながりというやつが、おぼろげながら分かったような気になった。

しかし何というのか、会計や財務、証券分析の類の勉強は、実際に手を動かして問題を解くというやり方をしないとなかなか理解できないのだな。これに対して本を読んで考えりゃいい、というのが人文系の勉強。自分はどっちかというと、人文系の方に馴染んでしまっているので、問題を解く勉強は何だかメンドくさい。年を取って体力、集中力が落ちてるのでなおさらそう感じるよなあ・・・。

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2007年10月 7日 (日)

「怪獣と美術」展

あっ、これチェックしてなかった!
10月21日までか。見に行かなきゃ。

という訳で昨日行ってまいりました、「怪獣と美術」展。場所は三鷹駅前、南口を出た正面のビル内にある三鷹市美術ギャラリー。

サブタイトルとして「成田亨の造形芸術とその後の怪獣美術」とあるように、成田亨をはじめ、高山良策、池谷仙克、原口智生の作品も展示。各氏の彫刻や絵画など非怪獣作品も並べられているが、どうしても見入ってしまうのは、会場に入ってすぐに迎えてくれる成田の怪獣デザイン画の数々。その多くは青森県立美術館に収められているもので、ガラモン、カネゴン、レッドキング、バルタン星人、ギャンゴ、ドドンゴ、ジャミラ、エレキング、メトロン星人など、独特のタッチで描かれた怪獣や宇宙人を見ていると、この世に存在しない「生き物」が誕生した瞬間に立ち会っているような気がしてくる。

P1020245 ウルトラマン怪獣の中でドラコは好きな怪獣。左は成田デザインの初案、右は最終的な姿だが、最初はホントにもろ昆虫というかバッタ形だったものが、決定案では昆虫的な部分は透明な羽だけになり、体の表面はタイルが貼られたような、何ともユニークな怪獣に仕上がっている。

ドラコは空を飛べるし、手は鎌になっていて強そうに見えるけど、でも強くない。レッドキングに羽をむしり取られてあっさりダウン。しかし後にジェロニモンの力で生き返った怪獣の一匹として登場。その時は羽なし、頭の角は1本が5本に増えて、手は普通の指の手に変わりマイナーチェンジ。復活はしたもののウルトラマンと戦うこともなく、結局科学特捜隊の新兵器であえなく消されてしまうとか、映像の中の活躍度はいまいち冴えない。まあウルトラマンシリーズに2回登場した怪獣はレッドキング、バルタン星人など数少ないので、その点ではステータスがある?と思うことにしよう。

昨年の「ウルトラマン伝説展」を見た時も感じたことですが、やはり「怪獣はアート」なのです。天才たちがよってたかって作り上げたウルトラQ、ウルトラマンを、子供の頃に見れたのは幸せ。日本の子供に生まれて良かった。

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2007年10月 1日 (月)

織豊政権とは何か

秀吉神話をくつがえす』(藤田達生・著、講談社現代新書)終章「軍国神話の現在」からメモ。

信長は天正10年(1582)中に天下統一を完了する予定だった。新国家は、東は関東まで、西は中国・四国までに達する広大な管轄領と、周縁の同盟関係を築いた外様大名領で構成されたはずだ。それを受けて、懸案だった老齢の正親町(おおぎまち)天皇の退位と誠仁(さねひと)親王の即位が実現し、信長自身も将軍に任官したうえで、安土行幸が行われる予定だった。
天皇と将軍が相互補完しつつ天下を統治するという、室町時代以来の公武一統の支配体制が、天下人である信長のもとに統合される日が、確実に迫っていたのだ。

このような時期に勃発した本能寺の変の衝撃は、信長の後継者秀吉の改革のありかたに、直接影響を及ぼした。秀吉は、信長の政策を積極的に継承しつつも、関白や太政大臣に就任し、天皇を頂点とする既成権威とは対立せず、徹底的に利用することで、短期間のうちに政権を掌握することをめざした。
この路線の延長上に、対外侵略を正当化するための「日本は神国」とする独善的な論理があった。

かつて勝俣鎮夫氏は、秀吉によって日本が伝統的東アジアの国際的秩序である中国を中心とする華夷秩序から脱した独立国家となったことを重視し、「国民国家」的性格の強い国家が形成されたことに注目した。

秀吉の生涯の目標は何だったのだろうか。天下統一は、ひとつの通過点に過ぎなかった。南欧勢力の侵入、中国を中心とする東アジアの外交秩序の弛緩、これがもたらすグローバル化に対応して、日本を「神国」と位置づけ、武威を強調する「帝国」の樹立をめざしたのである。

結局、この「帝国」も朝鮮侵略の失敗がもとで自壊し、徳川政権によって封建体制が再編され、農本主義を標榜する分権国家としての幕藩体制が誕生した。そののちふたたび秀吉神話が称揚されたのは、欧米列強の圧力のもと進められた明治時代以後の帝国主義化の過程だった。

・・・そして現代の日本でも、「帝国」化のうねりがみられると藤田先生は言うのだが(ネグリとハート、柄谷行人の名前も出されてるよ)、それはさておき。

戦国時代でそれまでの日本がご破算になり、三英傑の時代に、いまの日本にまでつながる国のかたちが成立したのだと考えると、やはりこの時代は日本史において画期的な、とてもクリティカルな時代だと思わずにはいられない。興味の尽きない所以である。

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